2018年8月3日金曜日

20180806生贄 ―― この風習の起源と日本精神の起源 ――



 『古事記』(岩波文庫)・『古事記完全講義』(竹田恒泰著)を読んでいて暗い気持ちになった個所がある。それは崇神天皇の次の垂仁天皇の御世の殉死である。『古事記』の崇神天皇の条に「次倭日子命。此王之時、始而於陵立人垣」とある。倭日子命は崇神天皇の三番目の妃・御眞津賣命(みまつひめのみこと)との間に生まれた6人の御子の中の一番末の御子である。

『日本書紀(二)』(岩波文庫)の垂仁記二十八年十月の条に、倭日子命(『日本書紀』では倭彦命)が薨(かむさ)ったとき、その近習者が倭彦命(『古事記』では倭日子命)を葬った陵のまわりに埋まり立ったことが書かれている。近習者が殉死したのである。実際は「殉死」ではなく「殉死させられた」のである。倭彦命は垂仁天皇の末弟である。

 『日本書紀』のその条には「日数が経っても死なず、昼も夜も泣き呻いた。遂に死んで腐敗し、犬や烏が来て死体を食べた。垂仁天皇は泣き呻く声を聞いて心を痛め詔(みことのり)され、「古来の風習とは言え近習者を殉死させるのは甚だ心傷むことである」と殉死を禁止させた。当時そのような「生贄」により何かご利益があると考えられていたのだろう。

 古代の殉死は「生贄」である。『魏志倭人傳』には「卑彌呼以死、大作家、徑百余歩、徇葬者奴婢百餘人。(ヒミコが死んだ。一辺百歩余りの大きな墓が作られた。殉死させた者は賤民百余名。)」とある。

 このような風習は縄文時代には無かったと考えられる。紀元前1000年頃から日本に徐々にわたって来た大陸の人たちが日本に階級制度を持ち込んだと考えられる。縄文人たちは採集と狩猟の暮らしをしていた。ドングリなど木の実や魚介類は豊富にあった。縄文人たちはドングリを沢山採取するためドングリの植栽をしていた。縄文人たちは稲の栽培などをしなくても食べて行けた。ところが紀元前1000年頃から数世紀以上に日本に徐々に渡って来た大陸の人たち、即ち渡来系弥生人たちが持ち込んだ水稲の栽培により、人々の間で貧富の差が次第に大きくなって行った。

最初の渡来系弥生人であると考えられる長江中流域の人々には生贄の風習があったようである(参考:安田喜憲著『古代日本人のルーツ 長江文明の謎 』。彼らは漁労に長けていて造船・航海の技術を持ち、ジャポニカ種の水稲耕作の技術も持っていた。渡来系弥生人の中には中国の春秋・戦国時代(紀元前770年から紀元前232年)に戦乱から逃れて日本にやって来た人々も含まれると考えられている。渡来系弥生人たちは十世紀以上にわたりごく少人数ずつ日本列島にやってきたと考えられる。縄文人たちと渡来系弥生人たちとの混血の人々は沖縄を含む日本列島各地に広がって行ったと考えられる。

こうして原日本人の社会は、例えていえば水平軸の縄文社会と縦軸の渡来系弥生人社会がベクトル合成したような社会となり、現在に至っていると考えられる。日本人の「和を以って貴しと為す」精神は、その合成ベクトルの方向を示すものである。日本人は前の戦争で非常に大きな被害を受けたアメリカ軍による東京大空襲も広島・長崎の原爆も各地の大都市への空襲も、ソ連抑留も、自分の身に降りかかった災害のように受け止めている。戦前の日本人は他の民族に対して大量虐殺のようなことは決してしなかった。しかし武の本義は武士道精神として身につけていた。しかし戦後の日本人はそれを忘れてしまっている。

韓国は日本の固有の領土である竹島を不法に占拠し続け、昨日は公船による竹島周辺の領海侵入も行った。日本人は真の日本精神を自覚し、領海侵犯に対しては敢然と対処すべきである。平和ボケした日本人よ、覚醒せよ!



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