2017年1月10日火曜日

20170110『仏説阿弥陀経』について(4)


 私は「80の声を聞く年寄りは引っ込んで阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)について学び、思索し、その内容を文章にして公に発表するなどして自分自身で満足しておればよいのだ」と思っている。しかしその一方で、私は世捨て人のようになって世の中の動きにまったく無関心になってしまうことはどうしてもできない。これも私の煩悩がそうさせるのである。

 日本総領事館前に設置された慰安婦像に多くの日本人は憤りを感じている。この問題について朝日新聞は60代の二人の投稿者の声を掲載している。その一人は日本政府がこれ以上の対抗措置をとることは自制すべきである、と主張している。他の一人は、(日本政府が)韓国国民の理解を得る努力をなおざりにしたまま韓国政府に対し対抗措置をとったことはあまりにも大人げない、と主張している。しかしネット上では朝日新聞の報道姿勢に対して批判が多い。

 朝日新聞は別のページで移民の受け入れに積極的な姿勢を示す二人の学識経験者の意見を大々的に掲載している。産経ニュースによると「日本国政府は在日外国人の中で特に能力が高い研究者・技術者・経営者などが永住権を取得するために必要な在留期間を現行の5年から最速で1年に短縮する方向で検討を始めた」という。1年に短縮する対象者は中国籍が2497人で全体の65%を締めている。多くの日本人は長野オリンピックの聖火リレーのとき中国政府の指令により起きた事件のことを覚えていて、今回の政府の検討に対して批判的である。永住権を与えるにあたっては政治的活動の禁止を絶対条件とするべきである。

 新聞・テレビは意図的に世論を誘導しようとしているように見える。悪知恵が働く官僚や学者は新聞・テレビを利用して世論を導こうとしているように見える。

例えば国債の残高に関して、それは「国の借金1053兆円・国民1人当たり830万円」と言われている。「国の借金」は「政府の借金」である。従って「国民一人当たり」は全く意味の無い言葉である。国債は政府が発行し、日本銀行が市中銀行から国債を買い取ると現金化され、市中銀行からその現金が企業の投資に回る。インフレにならない程度に国債を発行し、経済が活性化されれば国民はその恩恵を被ることになる。しかし税金を取り、その収支バランスを取りたい財務省は「赤字国債・赤字国債」と声を大にし、国民に「増税もやむなし」という気持ちにさせようとしているかのようである。新聞・テレビは財務省の尻馬に乗って報道プログラムを作っているように見える。

経済学者は新聞・テレビに出演する。新聞・テレビに顔を出すことによって名声が上がる。新聞・テレビは自分たちの収益が上がるような報道プログラムを組むため、彼らや彼らに同調する政治家やコメンテーターを利用する。彼らは「グローバル経済だ」「規制緩和だ」と理屈を並べて主張する。一般大衆は「そうだ、そのとおりだ」と頷く。その陰でグローバル投資家やグローバル企業経営者は「儲け口ができた」とほくそ笑む。

リベラリストは国家と距離を置きたがる。リベラリストたちが新聞・テレビに出て自分の考え方を主張する。日本を貶めたい国の政府や報道機関は彼等を日本攻略のため利用する。その結果日本国民は苦しめられる。従軍慰安婦問題のように事実が歪められて拡散される。

日本の一般大衆が新聞・テレビに惑わされることなく、不動の姿勢を保つことができる道がある。それは日本の一般大衆が自分たちのルーツ・歴史・文化を知ることである。

 日本人は縄文人・長江中流域からポートピープルのように逃れて日本列島に辿りついた渡来系弥生人・後漢滅亡後に朝鮮半島から渡来帰化した人々・白村江で敗戦後百済から渡って来た人々など多人種の混血である。従い日本人は形質・性質・能力など非常に多様な面を有している。このように多様であるから、日本国内にはいろいろな考え方が現れる。

その一方で、巷で「今年は皇紀2677年である」と言う人が少なから居るほど世界で最長の男系皇統が続いているなかで培われた日本独自の文化が仏教文化とともに代々継承され、日本の社会に深く根付いている。「以和為尊(和を以て尊しと為す)」の精神は日本人のルーツと日本人が2000年以上続いている男系皇統の皇室に関係がある。日本人は群れの中では従順なところがあるのは「以和為尊」の精神によるものである。これは日本民族の特性である。

戦後GHQの指令により多くの皇族が民間人になった。このため男系の皇統維持が困難に直面している。そういう中、女系天皇も検討されている。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、井伊家はその直虎以降、その直虎の実母・その母のミトコンドリア遺伝子が代々継承されたことになる。私は皇室がそのようなことにならないことを切に願っている。

 戦前までの日本人は阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)に対する信仰心が厚かった。戦後アメリカの文化に触れてその信仰心は薄くなった。国家のことよりも個人の自由な活動に最大の価値を認める人たちが多くなった。現行憲法下では思想・信条の自由も最大限に保障されているので、憲法第9条の改正に反対する人々が多い。


 古代に聖武天皇が仏教を通じて国づくりを推進されたように、仏教は日本国民を安寧にする力がある。日本人の間で阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)に対する信仰心が深まれば日本はもっと良い国になるだろう。皇統の問題の解決方法も含め、良い知恵がその信仰心により生まれて来るに違いない。私は明日から真剣に『顕浄土真実教行証文類』を学ぼうと思う。

2017年1月7日土曜日

20170107『仏説阿弥陀経』について(3)


 私は他界した継母の葬儀のとき自動的にあるお寺の門徒になった。私の実父と継母の墓はそのお寺の納骨堂の中にあり、私がその維持・管理の責任を負っていている。このような事情で私は今こうして遠隔地に住んでいながらもそのお寺の門徒になっていている。私は自分が門徒になっているお寺の行事にはその都度参加することは出来ないが会費等を指定の銀行口座に振り込んでいる。私は郷里で仏事があるときは帰郷し、そのついでにそのお寺にも立ち寄り、たまには報恩講にも参加し、墓参もしようと思っている。

 私は目下のところ「浄土真宗自分派」を自認し、独学で親鸞の教えを学んでいるところである。インターネットでダウンロードした本願寺派の『正信偈』『念仏和讃』『仏説阿弥陀経』『真宗宗歌』『恩徳讃』に唱和して、今これを書いているすぐ後ろの書棚の中に作ってある仏壇に向かって読経し、歌っている。経の文の意味も調べながら少しずつ理解している。

私は自分自身が仏教徒であると思っている。しかし浄土真宗本願寺派(西本願寺)や真宗大谷派(東本願寺)などの教団の活動に能動的に参加することを好まない。その理由は私が基本的に何でも特定の組織に加わることを好まないからである。何かの組織に入ると自分の自由度が阻害される。私はそれが嫌なのである。

 西本願寺派の高森顕徹というお方が創設した浄土真宗親鸞会という団体は、布教活動の仕方やマインドコントロールを含む諸活動について批判が出ているようである。この団体は本願寺から親鸞の教えを逸脱していると批判されている。一方この団体は本願寺派・大谷派に対して親鸞の教え等について10項目の相違点を挙げ、対立している。

 上述10項目の相違点について、私は「自分派」として自分なりに研究して本当に相違があるのかどうか明らかにして行こうと思う。おそらく本願寺派・大谷派も親鸞会も私のような者が現れることは予想もしていないであろう。私は日本人が親鸞について正しく知り、親鸞に学ぶ日本人が圧倒的に増えれば、この日本国はさらに良い国になると確信している。

 先ず相違の第一点は「親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?」である。本願寺は「説かれていない」と言い親鸞会は「説かれている」と主張している。親鸞会は「人生の目的はある。だから早く達成せよ」と親鸞聖人は仰っている、と言う。私はこの点について先ずよく調べてみようと思う。

 そう思い、上述「親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?」のリンクをクリックしたら、「危険な Web サイトを遮断しました」とメッセージが出た。私はGoogle Chromeを使っていてセキュリティはノートンを使っている。このためこの警告が出る。使っているブラウザやセキュリティの対策によってはこのような警告は出ないだろう。危険である。

 私はまだ研究の途中であるが、親鸞聖人は決して「人生の目的はある」とは仰っていないのではないかと思っている。その理由は、私たちが認識する世界は大自然そのものであり、生きとし生ける物すべてに生老病死があり、私たち人間だけが物事の善悪を判断し、意識をもって行動しているがそれは私たちが発達した脳をもっている生物であるにすぎないからである。私たち人間はそういう生物であるから勝手に「人生の目的」を考えるが、その目的は万人共通ではない。万人共通でない特殊的なことについて親鸞聖人が「人生の目的はある」と仰るはずがない、と私は思っている。

私は阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)が大宇宙そのものであると考える。人間は宇宙の営みに逆らうことは決して出来ない。17世紀の哲学者スピノザは「神は自然である」と言った。それは汎神論哲学と言われる。私はその哲学をさらに発展させて、「宇宙は生命体のようなものである」と思いたい。

そういう立場で人間は「善男子・善女人」として悪いことをせず、人間以外の生物のように全てを宇宙に委ね、現状のありのままを受け容れて自分の生死に逆らわず生きるならば、誰でも今の人生も後の人生も苦悩の無い人生になるだろう。勿論、人間であるから生老病死の苦を背負っている。その「苦」をありのまま受け容れて運命に対しては従容とした態度をとる。そういうことは人間だけができることである。勿論そのように従容とはしておれないのが多くの人間の有り様である。そういう態度は修養によってのみ身に付くものである。

他の生物に捕食される生物は捕食される前は逃げ回る。生物は他の生物に捕食されても自分の種を残すように、またなるべく他の生物に捕食されないように進化している。これが生物を多様にしている。生物は他の生物に捕食されたとき痛みを感じるだろうが、そのまま食べられている。人間だけはそのことを悲惨に感じ、残酷に感じる。人間は自分が殺されることを恐れるが、殺された後自分の魂は残ると考える。他の生物にはそのような考えはない。

自分の死はそれで全て終わりではなく、いわゆる「あの世」に生きることになる。それが宇宙の定めである。そのように信じることができれば「この世」での迷いは無くなる。宇宙を阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)であると考えるならば、宇宙はそのようにして人間と言う生物に救いの手を差し延べてくれていることになる。まだ哲学として確立していないが、私はそのような方向で思索中である。生物学・量子科学・宇宙科学などの知見やAI技術などは将来人間を宇宙に帰一させる哲学を生むかもしれない。


2017年1月3日火曜日

29170102『仏説阿弥陀経』について(2)


 私は今年80歳、私の妻は76歳になる。何十年か以前、私は80歳の人を随分年寄りだと思っていた。その自分がそういう年齢になっている。昨日10歳年長の友人Kさんから年賀の贈り物が送られてきた。Kさんは奥様を亡くされていて身寄りもない方であるが、福岡に建てた自分の家で独り暮らしをされている。彼は横浜にも奥様と長年暮らしたマンションの一室を所有していて、毎年福岡と横浜の間を行き来している。そのとき彼は東京と小倉の間でフェリーを利用している。私は余生に一度ぐらいは一人旅をしてみたいと思っているので、その片道は彼と一緒にフェリーを利用してみたいと思っている。

 彼からの贈り物は福砂屋のカステラが2本入りである。夫婦二人暮らしの我が家はあちこちからの頂き物の菓子が沢山ある。息子たちの嫁たち・近所の方・妻の友人からいろいろな贈り物を頂いた。勿論私たちもそれぞれ何か贈り物をしている。お互い相手に喜んで貰えるような物をよく選んで送り合い、言葉を交わし合ってお互いの絆を深め合っている。

若い頃近海マグロ漁船の無線通信士仲間であったI君は10数年前他界したが、長崎に住んでいるその妻のKzさんから自分の畑で実ったみかんが送られてきた。私はI君と下宿も共にし、同じ部屋で寝起きしていた。Kzさんは鹿児島のある漁村の病院の看護師をしていた。私は虫垂炎になりその病院で手術を受けた。そのとき私はKzさんと知り合いになった。私はI君とkzさんの祝言に出席し、私たちの祝言にはI君とKzさんが出席してくれたが、その後50年もお互い会っていなかった。その理由は私とI君がそれぞれ思想上対立する職場に勤めるようになって、I君の方で身を引いたからであった。私はNTTの電話番号案内でI君に連絡をした。そのときKzさんが電話口に出てI君が既に他界したことを話してくれた。

私はSちゃんと愛称で呼ぶ2歳年長の女性と3年前から交際している。Sちゃんも看護師であった。彼女は近海マグロ漁船の船主の娘であり、私が乗っていた船の船長の妹である。50年ほど前私はSちゃんと喧嘩別れしていたが、3年前NTTの電話番号でSちゃんの兄である船長だったHさんが存命だと思い、連絡をとった。Hさんは既に他界されていた。そのときSちゃんが我が家からそう遠くない所に34年前から独り暮らしをしていて、未婚のままであったことが分った。以来、私は私の妻の同意の下、ときどきSちゃんに会っている。先日千葉に住んでいるSちゃんの姪っ子のご主人から美味しい新米が送られてきた。

Kさん・Kzさん・Sちゃん、それに私と私の妻。皆いい爺さんと婆さんになってしまっている。そのうち誰かが先にあの世に逝く。身寄りのないKさんの義理の甥っ子から福岡産の新米が送られて来た。私はSちゃんの姪っ子のご主人とKさんの義理の甥っ子のお名前と住所と電話番号をしっかり控えてあり、何かあればその方に連絡をする準備をしている。一方で私が先にあの世に逝った場合には私の息子たちからKさん・Kzさん・Sちゃんに必ず連絡してもらうように準備している。

 私は阿弥陀仏に帰依し、毎日読経し、すでに浄土に生きているつもりであり、苦悩も迷いもなく安心しきっている。しかし煩悩を拭い去ることは絶対出来ない。和讃に「五十六億七千万 弥勒菩薩は年を経ん。 まことの信心得る人は この度悟りを開くべし。 念仏往生の願により 等正覚に至る人 すなわち弥勒に同じくて 大般涅槃を悟るべし」とある。

 言葉の意味を調べた。「弥勒(Maitreyaの音写)」とは「釈迦牟尼仏(Sākyamuni Buddha釈迦族の聖者でそのまま仏陀であられる人の意)」の次に現れる未来の仏陀(Buddha)のことである。「菩薩」は「菩提薩埵(ぼだいさったBodhi-satvaの音写)」を簡略したものであり、一口で言えば仏教の修業者のような存在である。「等正覚」とは「生死の迷いを去って、いっさい の真理を正しく平等に悟ること」である。「大般涅槃」は天台宗の大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」による言葉で「煩悩を滅却して自由となった状態」のことである。
 
 「弥勒」については『仏説無量寿経』に書かれている。『仏説無量寿経』は『仏説阿弥陀経』よりも100年以上前に魏の康僧鎧によって翻訳されたお経である。一方『仏説阿弥陀経』は現在の新疆ウイグル自治区出身の僧侶で、「三蔵法師」という称号を与えられている鳩摩羅什(くまらじゅう/くもらじゅう、Kumārajīvaの音写)によって翻訳されたお経である。

 これら古代中国の先人たちによって古代インドから古代中国に仏教が伝えられ、聖徳太子・聖武天皇・最澄・空海・法然・親鸞ら日本の古代の先人たちがその仏教を学び、日本国内に広めた。今を生きる我々は書物やインターネットにより公開されている仏教の資料によりかなり楽に仏教を学ぶことができる。真に有難いことである。真宗の宗歌『恩徳讃』に「師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」とある。真にそのとおりである。

 私の妻もそうであるが、Kさん・Kzさん・Sちゃんも私のように熱心な仏教徒でなくても、皆それぞれ菩薩のような人たちである。私は宿業が深かったからこれまで随分私の妻を悩ませてきており、今も悩ませている。この記事を書いているすぐ後ろの書棚の中に仏壇があり、私は阿弥陀如来絵図に向かってしばしば合掌し、「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀仏Amitāyus Buddhaにnamoします)」と念仏している。


因みにnamoはサンスクリット語句「貴方に敬礼します」に由来するものであり、ヒンディー語では「こんにちは・ありがとう」といった日常の挨拶言葉らしいが、仏教では「「帰命」という漢訳から連想されるような強く宗教的な意味になっている(Wikipediaによる)。

2016年12月22日木曜日

29161222『仏説阿弥陀経』について(1)


 私の父は長男であったが、故あって実家から離れ、教師として日本・韓国(当時「朝鮮」)の各地を転々とした後、大東亜戦争(戦後アメリカにより「太平洋戦争」と呼称を変更させられた)終結とともに朝鮮から引き揚げ、その数年後教職に復帰して赴任先で居住していた土地に居を構え、そこに墓所(小さな寺の境内にある納骨堂の一角)も確保した。その納骨堂に父も入り、昨年他界した継母も入っている。

 戦後裸一貫だった父は非常に辛抱・苦労して100坪の土地を手に入れ、其処に家を建てた。父は世間並みに、全体で五部屋と台所・浴場・玄関・廊下がある家の中に八畳の仏間を作り、法事など来客が多い時は仏間に続く四畳半の部屋との間の襖を外すなどして広さを確保できるようにしていた。

父の名義のままになっていたその家と土地は売却することになったので、私はその家の仏壇からご本尊・阿弥陀仏絵図や父母の法名軸などを自分の家に持ち帰り、ガラス扉付きの書棚の一角を改造して作った仏壇の中にそれらを収め、毎日読経して供養している。以前はそのような供養は殆どできなかった。因みに『広辞苑』によれば、「供養」とは「三宝(仏・法・僧)または死者の霊に諸物を供え回向(えこう)すること」、「回向」とは「自分の修めた功徳を他にめぐらして、自他ともに仏果を成就しようと期する意」、「仏果」とは「仏教修業によって得られる結果」である。

 この仏壇は西を背に東に向いていて、このデスクトップ一体型のコンピュータの画面と向かい合った形になっている。読経時youtubeで公開されている『正信偈』『念仏和讃』『仏説阿弥陀経』をダウンロードしてそのコンピュータからその音声を流してそれに唱和し、youtubeで公開されていない部分、即ち和讃六首の後の「願以此功徳。平等施一切。同発菩提心。往生安楽国。」の4句は自分自身で唱えている。読経をするときは「肩畳衣」を右肩に掛けて左に垂らし、あたかも僧侶が着る法衣のつもりになって厳粛な気分になっている。

 ところで仏教は輪廻転生を肯定している。仏教の経典の数は数千にも及ぶ。その中で『阿弥陀経』にも輪廻転生のことが書かれている。その部分は「是諸衆鳥。昼夜六時。出和雅音。其音演暢。五根五力。七菩提分。八聖道分。如是等法。其土衆生。聞是音已。皆悉念仏。念法念僧。舎利弗。汝勿謂此鳥。実是罪報所生。所以者何。彼仏国土。無三悪趣。舎利弗。其仏国土。尚無三悪道之。」である。

 「衆鳥」というのはその前文にある白鵠(白い大型の水鳥)・孔雀(クジャク)・鸚鵡(オウム)などの鳥のことである。『仏教要語の基礎知識』(春秋社)には「五根五力」「七菩提分」「八聖道分」などについて解説されている。「已」は「やめる」という意味である。「舎利弗」は釈迦の十大弟子の一人・シャーリプトラのことである。「三悪趣」は「悪行を重ねた人が死後に趣(おもむ)くと言われる三つの下層世界(地獄・餓鬼・畜生道)」である。

『新訳仏教聖典』(大法輪閣)にはこの漢文の意味を「(これらの)鳥が常に雅やかな音を出して、あらゆる「徳」と「力」と「教」とを歌っている。人々はこの声を聞いて、皆御仏を念(おも)い、御法を念(おも)い、僧伽を念(おも)う。舎利弗(しゃりほつ)よ。しかしこれ等の鳥は、罪の報いから生まれたものではない。彼の御国には三悪道の名すらものない」と説明している。


 しかし、「仏説阿弥陀経」には「舎利弗。不可以少善根福徳因縁。得生彼国。」(シャーリプトラよ「人の世の小さな善や徳を以ってはかの御国に至ることはできない」)と書かれている。心の底から阿弥陀仏を信じ、真剣に供養を続け、一心不乱に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える者のみが、現世において浄土に生き、来世においても浄土に生まれるのである。

2016年12月15日木曜日

20161215プラズマ


 放送大学の面接授業で「プラズマ物理科学」と題する講義を受けた。その講義は放送大学神奈川学習センターで土曜日と日曜日の二日間連続で行われた。受講者はこの授業に関することについてレポートの提出を求められている。さて、何を書こうかと悩む。

 古来哲学者たちは「我々は何処から来たのか。そして何処へ行くのか」と問い続けている。プラズマは発光現象を伴う。そのような自然界の光ではないが、普遍宗教は「光」をすべての中心であるようにとらえている。私は自然界の光と普遍宗教の「光」との間に何か、関係を見出したいという欲求に駆られている。

 138億年前に我々の宇宙が誕生した時はプラズマ状態であった。我々の宇宙の99%はプラズマであると言われる。我々はこの宇宙の中の数々の星々の中の一つであるこの地球上にあって、常に宇宙線・宇宙線以外のすべての放射線・紫外線に晒され続けていて、生体上で何らかの影響を受け続けている。

放射線は我々の体の細胞内でDNAを構成する分子の一部をイオン化してDNAに損傷を与え、紫外線はDNAを構成する分子内の原子を励起することによってDNAに損傷を与える。この損傷によってDNAの複製時にエラーが発生する。

放射線や紫外線によりDNAが損傷を受けたとき、それを修復するプログラムはDNAに予め書き込まれている。エラーが生じているDNAによって新たな細胞が作られた場合、その細胞は自動的に破壊される。そのほか生物には生命を維持するため免疫力を供えているなど様々な機能が備わっている。これはこの地上のすべての生物に、それぞれ進化の過程で自ずと備わってきた自己保存機能である。

 ところで、2600年前仏教を開かれた仏陀の教えが集大成されている『仏説阿弥陀経』というお経には、阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)は「彼仏光明無量照十方国。無所障害。是故号為。阿弥陀。(その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである)」と書かれている。

科学は宗教の対岸にある。宗教は科学的に証明されていないことでも信じることを要求する。阿弥陀仏の存在を信じる人は、その光明に歓喜する。

もし、我々の宇宙が一つの‘生命体’であると信じ、「宇宙は阿弥陀仏そのものである」と信じることができれば、我々人間は「帰命無量寿如来。南無不可思議光。(身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する)」ことによって救われることになる。

阿弥陀経には「もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひともその国に生れたいと願うべきである」と書かれている。

 親鸞聖人は自ら肉食妻帯し、「遊煩悩林現神通(阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す)」と説かれ、人々に「仏の教えを信じる善良なもの」の姿を体現されたのである。私は、親鸞聖人はこの地球上のすべての人々を救うことが出来る最高の宗教を打ち立てられたお方であると思っている。


2016年12月4日日曜日

20161204帰命無量寿如来・南無不可思議光


表題は七言絶句の長詩のようなお経、親鸞聖人が作られた『正信偈』の最初の第一句と第二句である。私は、親鸞聖人は最初のこの二つの句をもって、先ず浄土真宗の教えの根本を述べられたものであると考えている。

 『帰命無量寿如来』とは、『「‘無量寿’即ち‘阿弥陀(Amitāyus) ’である‘如来(tathāgata) ’即ち‘仏(Buddha) ’」に「‘帰命(namas) ’即ち‘「身命を捧げて仏陀に帰依する’」』という意味である。「帰依」は「神仏など絶対的なものに服従し、これにすがること」である。

『南無不可思議光』とは、『「‘不可思議’即ち‘①思いはかることもできず言葉でも表現できない・②考えても奥底を知り得ない・③不思議’」な「光」に「‘南無(namas)’即ち‘帰命’と同じ意味であるがそのような気持ちで敬礼(きょうらい)する」』という意味である。「敬礼(きょうらい)」は「うやうやしく礼拝すること」である。(用語の意味の出典:『仏教要語の基礎知識(春秋社)』と『広辞苑(岩波書店)』)

 従い、表題の二つの句全体では「身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する」という意味になる。西本願寺派ではこの部分を五七調で「ひかりといのちのきわみなき 阿弥陀(あみだ)ほとけを仰(あお)がなん」と和歌のようにしている。

 私は「不可思議な光」は、一切の疑念も抱かずに一心不乱に阿弥陀仏におすがりすれば、必ず感じ取ることができるものであると確信している。その光は形而上学的な概念の、自分だけしか感得できない、言葉では言い表せず、伝えることもできない、或いは言葉にして話せば誤解されてしまうようなものであると思っている。因みに「形而上学」とは「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在を純粋思惟により、或いは直感によって探求しようとする学問」である。これはマルクス主義を「科学的社会主義」と呼んでそれを活動の理論的根拠としている日本共産党が絶対受け容れられない学問であるに違いない。

 「不可思議光」は、合理主義・科学万能主義に毒されている現代人にはなかなか理解できないものである。しかし、そのような人でもせめて丸一日、早朝から深夜まで何処かのお寺のお堂にこもり、一心不乱に『般若心経』でも唱え続ければ何かをつかみ取ることができるかもしれない。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ必ず得るものがあるに違いない。

 浄土真宗のお経『正信偈』には、「遊煩悩林現神通・入生死薗示応化」という句がある。その意味は大雑把に言えば、「阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す。その人にとって現世は即ち浄土である。そのような人は現世で苦悩している人を救う」である。

キリスト教では「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(Anyone who looks lustfully at a woman has in his heart already committed adultery with her.)」と教え、煩悩を認めてない。またイスラム教では神が命じた戒律に従うことが強く求められている。一方、親鸞聖人が今から約810年前に確立された仏教の教えは、私は世界で最も優れた宗教であると確信している。その教えは今から2600年ほど前釈迦牟尼が確立された教えに完全に沿っているものであることは確かである。


奈良時代に聖武天皇は当時の総合大学である東大寺を建設された。そのお蔭で今日日本では仏教と言う精神文化が根付いている。親鸞会はその布教方法を巡って批判されているが、仏教の儀式の面よりも仏教そのものを大切にする運動は歓迎されるべきことである。仏教のお寺も僧侶も空気を食べて生き残ってゆくことはできない。そのため仏教教団各派の活動がある。私は既存のどの派にも所属せず「浄土真宗自分派」の「独り会」を続けようと思う。親鸞の教えは私の身近な者たちから次第に伝わってゆくことを期待して・・・。

2016年12月1日木曜日

20161201手製の仏壇


 亡父が遺した家と土地は母(継母)の他界後一年を経て売却された。その家は長年空き家になっていて、今後必要とされない状況であったので、その家・土地を相続する権利がある者が語り合って売却処分となったのである。

 その家にあった仏壇の中からご本尊(阿弥陀如来を描いた絵図)や厨子・香炉・花器・鐘などの仏具と亡父・亡継母の法名軸を持ち帰り、手製の仏壇の中に収めた。その仏壇は四つのガラス扉付きの高さ190㎝・幅165㎝の書棚の一角に、棚を取り外して高さ60㎝幅40㎝ほどの空間を作り、内側を金張りにしたものである。その中に単4乾電池が入っていてLEDのランプの頭を押さえるとスイッチが開閉される仕組みの灯篭を仏具屋で購入して収めた。厨子の裏側に終戦(昭和20年、西暦1945年)の翌年12月に享年33歳(満32歳)のとき他界した亡母と、その翌年生母の乳を吸うことなく享年2歳で他界した末弟の法名が書かれている紙も折り畳んで置いてある。

 その扉を開けると良い香りが漂ってくる。普通の仏壇では線香を焚くとその香りが辺りに漂うが線香の煙も漂う。灯篭のロウソクの煙も漂う。しかしこの手製の仏壇に中にはLEDの光が灯る小さな灯篭があり、線香を焚かなくてもその香りが漂うように、多量の良質の線香が入っている箱の蓋を開けたままにして置いてある。手前に布製台座付の鐘を置いてあり、私は畳肩衣という略式の法衣を肩に掛けて横に垂らし、灯篭を灯し、数珠を手にして「チーン」と鐘を鳴らして読経する。読経時には明かり・香り・鐘の音の三つが重要である。

読経の発声の抑揚などは経本(その仏壇の下に西本願寺派・東本願寺派・親鸞会の三つの経本を納めてある)に譜が書かれているとおりに行う。毎日『正信偈』など読経し、経本に書かれているとおりに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える。親鸞会という浄土真宗の一派が作成した経本には親鸞聖人が作られた七言絶句の『正信偈』を読み下したものが書かれているので、それも『正信偈』を理解するために朗読している。

 ところで親鸞聖人の教えを説く教団として「真宗教団連合会」という組織があって、これには浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・真宗高田派など10ほどの教団が加盟している。これとは別に上述の「浄土真宗親鸞会」という教団がある。この教団は親鸞聖人の教えを巡って、本願寺派・大谷派など対立している。この教団は布教方法を巡って批判されている。

 私は元来「一匹狼」で何処かの組織に入って活動することを好まない。しかし私は昨年継母の他界により、もともと亡父が門徒であり亡父のあとその継母が門徒であった寺の門徒になり、真宗大谷派から「准大講頭挌」という肩書を頂いている。このため私は遠隔地に住んでいてもその寺との縁が続いている。毎年本山と教区に指定の額のお金を納めている。

 毎日読経し、その読み下しや御文などを朗読しているうちに、親鸞聖人の御教えが次第に自分の心の中に溶け込んでくるように感じている。親鸞聖人は阿弥陀仏に一心に帰依する人は煩悩のまま浄土に生きることになる、と説いておられる。私は自分の哲学として、過去世・現世・来世にわたる意識のつながりが絶対あると考えている。つまり今を生きている人は誰かの「あの世」を「この世」として生きているのであり、「この世」を終えた人は、時を経て、殆どの場合親族の誰かとして生まれ変わるものである、と私は考えている。

 遠隔地にあるお寺の門徒であっても私は言うなれば「自分派」の浄土真宗「独り会」の者のようなものである。私は親鸞会の主張も良く吟味しながら自分なりに親鸞聖人の教えを忠実に学ぼうと思っている。手製の仏壇の下の棚には『原始仏典(中村元編・筑摩書房)』『新訳仏教経典(大法輪閣版)』『仏教の基礎知識(水野弘元著・春秋社)』『正法眼藏(岩波文庫)』『歎異抄(岩波文庫)』『歎異抄(真宗教団連合編)』『親鸞(笠原一男著・NHKブックス)』、さらにその下の棚にはスピノザの哲学関連の本や『脳科学は宗教を解明できるか(春秋社)』『意識は傍観者である(早川文庫)』などが収められている。

 書棚は西側を背にして置かれているので手製仏壇も背後は西方である。今私は椅子をくるりと回転させ、東側の窓に面して置かれている机上のコンピュータに向かってこれを書いている。自分の書斎にこのような仏壇があるということは大変恵まれていることである。このような恵まれた環境にありながら自分の天与の寿命を無知・無為のゆえに縮めるような愚かなことはしてはならない。精進・工夫・努力しつつ時を送るようにしているうちに、私もやがて「この世」を去ることになる。私が今在ることは正に有り難きことなのである。


2016年11月27日日曜日

20161127年寄りは引き込んで阿弥陀仏のことを語った方が良さそうである。


三橋貴明氏の話を聞いてなるほどと思った。

ドイツは物を作りEU域内の国々はそれを買う。ドイツの貿易収支は黒字、一方のEU域内のある国々は赤字となる。

その国々は貿易赤字を解消するため努力する。つまりドイツの物がEU域内で売れ行きが悪くなる。するとドイツはロシアとか中国とかEU域外の国に物を売り、EU通貨の対ドル為替差(ユーロ安)で利益を上げる。EU域内は日本の国内とは違い、EU域内個々の国々の経済格差をEU全体で調整することは出来ない。EUはかつて幕藩体制の日の本の国のようである。

ドイツはEU域内での貿易収支を黒字にするだけではなく、EU域外の区の間でもEU通貨安(ユーロ安)で利益を得て国の富を益々蓄積している、EU域内で富を蓄積している国と、益々疲弊しつある国とが出て来る、その代表はギリシャやスペインというわけである。

三橋氏は大阪のテレビでグローバル化推進派の竹中平蔵氏と議論したとき、竹中氏は「TPPは自由貿易である」とか言った由。海外に進出した企業の中では、そのあおりを食う日本国内の労働者や技術者(下請けの中小・零細企業のひとたち)が出る一方で、ますます所得を増やす人たちも出るであろう。

企業活動は資本の論理で動く。将来、一握りの資本家が農協や「ゆうちょ」とかの金融を牛耳ることにならないか、組織内に入り込んだ外国人・元外国籍の幹部がNHKやその他のテレビ報道機関を牛耳ることにならないか、外国資本が特定の地域の土地を買い占めることにならないか。現実に様々な状況が懸念されている。

「問題が起きてしまってからでは遅い」と年寄りがいろいろ心配しても、若い世代の人たちが問題意識を持って行動を起こしてくれないと状況は変わらない。政府・与党は労働移民を認める決定を下したが、このことにより将来起きるかもしれない問題について十分予防措置を取っておくべきであるが、彼らにそのような問題意識は無さそうである。

正論を語る人たちはメディアを敵視し、メディアもその人たちを敵視する。左翼・リベラル派と言われる人たちは「国家よりも自由が大事」という固定観念に陥っている。勿論国家も自由も共に大事である。「国家よりも自由」と「自由」だけに重きを置くことに問題があるのである。

80の声を聞く年寄りは自ら体験し・実感している「阿弥陀仏」の有難さを説くことに精を出した方が精神衛生上良さそうである。


2016年11月21日月曜日

20161121プロパガンダ


 プロパガンダには次の三つのタイプがあることを知った。
 ① 恐怖プロパガンダ
 ② ルサンチマンプロパガンダ
 ③ 木を見せ、森を見せないプロパガンダ

 これは三橋貴明氏が提供している講座を受講して学び得た知識である。「一市井の無学な老人」としてふと思ったことは、わが日本の運営に関わっている政治家や官僚たちと雖も、プロパガンダについて確実な知識を持たずに物を言い、或いは行動している人たちが結構多いのではないだろうか、と言う事である。

 我々はテレビや新聞などによる報道で、「国の借金は一人当たり何百万円」とか、「国の財政破綻」という文言を散々聞かされてきた。ところが三橋氏によれば、「国の借金は‘政府の借金’」であり、「発行した国債は日本銀行が買い取る」ので、「円」を通貨としている我が日本においては「財政破綻はあり得ない」と言うのである。「国の借金」「国民一人当たり826万円の借金」「財政破綻」など、と言う文言は「恐怖プロパガンダ」である。これは明らかに国民の購買意欲を減じさせ、公共投資を鈍らせている。「デフレ」からの脱却は困難である。その責任は安倍総理と日本銀行の黒田総裁にある。

 一方「ルサンチマンプロパガンダ」とは三橋氏によれば、弱者が強者に対して抱く 憤りや怨恨、憎悪といった感情のことである。「ルサンチマンプロパガンダ」は国の財政を自分の家計に連想させ、「国にそんなに借金があるのであれば、お金を節約しなければならない」とか、「政治家を減らせ、歳費を減らせ、その分を低所得者の救済に回せ」などという心理を国民に起こさせる。「コンクリートから人へ」という旧民主党のプロパガンダ、「大企業・高所得者に重く課税し低所得者には減税せよ」「一票の格差は憲法違反である、比例代表制にせよ」など主張する日本共産党や社民党のプロパガンダなどはポピュリズムを煽り、結果的に国を破滅に導く。彼らは自分たちの勢力拡大のため、嘘を真実のように平気で吹聴する。

 三橋氏によれば「木を見せ、森を見せないプロパガンダ」とは、日本政府が発行した国債を「政府の子会社であるような」日本銀行が購入している状況は実は「国債の貨幣化」という状況であるのにも拘わらず、財務省は「財政ファイナンス」という言葉を使ってそのことを国民に知られないようにしているようなプロパガンダである。

かつて国土交通省が握っていた「道路特定財源」を財務省の管轄下に置くため、「国土交通省の職員が税金でマッ サージチェアを買っていた」という話を持ち出して「道路特定財源はけしからん」という結論に結び付けた事例が「木を見せ、森を見せないプロパガンダ」であるという。

様々なプロパガンダを創り出す人たちは「頭の良い高学歴な人たち」である。彼らは自分たちが主張したことが崩れると、「自分たちは間違っていなかった」ということを人々に印象付けるためにあらゆる論理を編み出す。メディアに携わる人たちは彼等、即ち世に自分が書いた書物を出している「先生」たちの言う事を有難がり、「先生」たちの間違った「見識」でも自分たちもその「先生」たちと同じレベルにあると思いたくて、メディアを通じて無知・無学(本当は決して無知・無学ではない)の市井の人たちに「上から目線」で吹聴する。

 今日わが日本における情報伝達の仕組みは非常に高度に進化しつつある。若い人たちの間ではSNSやフェイスブックなどによる情報交換が一層盛んになってきている。「上から目線」では一般国民の「空気」の重さに気付かないだろう。クリントンがトランプに敗れたのは、トランプが「上から目線」のマスメディアの人たちに「反トランプ」的言動を取らせ、一般国民の間に漂っている「重い空気」を自分に引きき寄せた戦略が功を奏した結果である。

 意識的・無意識的に様々なプロパガンダを拡散し続けるマスメディアに対抗するSNSやフェイスブックなどの仕組みは自然に進化してゆくに違いない。それは今後我が日本を更に強靭な国家として進化させるに違いない。但し政府はSNSやフェイスブックなどに最も正しい情報が流れるように、また一般国民の間でSNSやフェイスブックなどがさらに進化してゆくように導いて行くことが重要である。

それは「国家」が前面に出ることではなく、国民の「自由」が前面に出ることでなければならない。首相官邸・内閣府が今後どういう方向に情報を発信してゆくのか監視しなければならない。「国家」よりも「自由」を最重視しているのがリベラル派の人たちである。彼らは意識的にせよ無意識的にせよ「ルサンチマンプロパガンダ」を行う人たちである。例えば「戦争に巻き込まれる」という感情は共有されやすいが、「武力攻撃を抑え、武力攻撃から身を守るのは武力しかない」という現実を観たくないという感情がある。「国家」によって自分たちの「自由」は侵されたくない。そういう状況の中で国民を正しい方向に導いてゆくのは首相官邸・内閣府の役目である。