2017年4月27日木曜日

20170427『仏説阿弥陀経』について(17)


日本で仏教を広めるため最初に尽力されたのは聖徳太子である。聖徳太子は二十歳のとき推古天皇の御世(西暦593年〜628年)の皇太子で、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)という名前であった。『日本書記』には厩戸皇子に「録(まつりごと)摂政(ふさねつかさど)らしむ。万機(よろずのまつりごと)を以て悉(ことごとく)に委(ゆだ)ぬ」とあり、厩戸皇子は推古天皇に代わって政治を行っていた。『日本書記』には、厩戸皇子は「内教(ほとけのみのり)を高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)に習(なら)」とある。

『日本書記』には推古天皇の三年(西暦596年)に「高麗(こま)の僧(ほふし)慧慈(ゑじ)帰化(まうおもぶ)く。則(すなはち)皇太子、師(のりのし)としたまふ」とある。なぜ、元正天皇の御世・養老四年(西暦720年)五月に完成した日本の正史『日本書記』の記述が「高句麗」でなく「高麗」なのか謎である。

聖徳太子が師事した慧慈は仏教の真髄を正しく把握し、正しい仏教を習得した高僧であった。聖徳太子は慧慈に八年間師事して仏教の真髄を学び、これによって仏教的な世界観や人生観を確立し、仏教の正しい信仰に徹することが出来た。(前掲『仏教要語の基礎知識』による。)

『日本書記』には高麗と書かれているが高麗の建国は10世紀であるから私は高句麗が正しいのではないかと考える。高句麗は朝鮮半島の北部にあった国である。高句麗と百済の支配層は同族であり、現在の中国東北部(満州)にあった国・扶余の出身であったと言われている。百済は西暦663年に滅び『日本書記』には合計3,100人余りの百済人が日本に渡って来て、現在の大阪・滋賀・愛知・岐阜あたり(古代で「東国」と呼ばれた地域)に居住したことが書かれている。当時、百済には「倭人」と呼ばれた日本人も住んでいたようで、上記3,100人余りの中には倭人も含まれていたかもしれない。

高句麗は西暦663年の白村江の戦いで百済が滅びて孤立し、西暦668年に中国唐王朝により滅ぼされ、高句麗の北部の民は現在の北朝鮮北西部に隣接する中国遼寧省朝陽県に強制移住させられた。高句麗に遺った民は高句麗の再興を図ったが全て失敗した。高句麗の遺民の一部は日本に渡って来た。『続日本紀』によれば、元正天皇の御世の霊亀二年(西暦716年)に、現在の静岡・神奈川・千葉・茨城・栃木各県に居住していた高句麗遺民1799人を現在の埼玉県北部に「移住させ、初めて高麗郡を置いた」とある。

日本には高句麗滅亡後新羅からも僧侶など人々が渡って来ている。『続日本紀』に天平宝字二年(西暦758年)に「帰化した新羅僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の未開発部に移住させた。ここに初めて新羅郡を設置した」とある。新羅郡は後に新座郡と改められた。

『続日本紀』には、孝謙天皇の御世、天平宝字元年(西暦757年)に「高麗・百済・新羅の人たちで以前より聖化(天皇の徳化)を慕って来朝し、わが国の風俗になじみ、姓(氏)を給わることを望む者は、すべてそれを許し認めよ」とある。ここでも「高麗」となっている。

千数百年も経てば2n(注:nは世代数、例えば一世代を25年とすれば100年で四世代、千年で40 世代となる)で拡散するので、縄文人の遺伝子を基層としている現在の日本人の遺伝子の一部に日本に渡って来た百済人・高句麗人・新羅人の遺伝子が含まれていることは間違いないだろう。皆、同じ母から生まれた「同胞」になっている。

江戸末期の漢学者・歴史家・詩人・書画家・頼山陽は、その作詞『百済を復す』の中で、「唐と吾と孰(いず)れか得失 忠義の孫子(そんし)海を踏みて来り 長く王臣と為(な)りて王室を護る」と詠っている。この詩の「王室」は「皇室」のことである。日本が42,000人の兵と800隻余りの軍船を送り、百済の兵5,000人と共に当時の中国・唐と朝鮮の新羅の連合軍と戦った西暦663年の白村江の戦いに敗れ、滅ぼされた百済から日本に渡ってきた人々は日本の朝廷に貢献したことが『日本書記』に記述されている。

余談であるが、Wikipediaによれば“『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている”とある。

ところで百済・高句麗の支配層は現在の中国東北部(満州)にあった国・扶余の出身である。日清戦争の時の「清」は女真族が建てた当時の中国であり、日清戦争後日本が進出した満州も元々女真族が建てた地域であった。私は現在の東アジアの状況を観ずると国際社会の中の「宿縁」を感じざるを得ない。

さて、仏教の経典が釈尊没後どのような過程を経て成立したかということはWikipediaに示されている。釈尊(釈迦牟尼 Sākyamuni サークヤ族の聖者)がこの世を去られて直ぐ、「僧伽、サンガ」と呼ばれる出家者集団で個人個人が釈尊から聞いた釈尊の言葉を集める作業(結集)が、マハーカッサパ(魔訶迦葉尊者)が中心になって行われた。聖徳太子が高句麗の高僧から学んだ仏教のルーツはこの結集にあるのである。


2017年4月21日金曜日

20170421『仏説阿弥陀経』について(16)


朝のあるテレビのワイドショーを見ていたらレギュラーのコメンテーターT氏が北朝鮮問題について「日本はもっと外交努力するべきだ」という趣旨のことを言った。ある新聞の記事には某野党の女性論客Y氏が審議入りしたテロ対策法案について安倍総理との論争の末、安倍総理に対して「器が小さいんだよ!」と言い放った、と書かれている。あるテレビの昼のワイドショーである女性コメンテーターは「従来外交の話し合いだけで平和を守ることができると思ってきたが、平和は力によって守られると言われると驚く」というようなことを言っていた。

東條元首相は処刑される前に遺言を残している。それには「国家から欲心を除くことは不可能なことである。されば世界より今後も戦争を除くことは不可能なことである」と書かれている。正にその通りである。平和は軍事力・経済力・外交力など力によること以外に保つことはできない。平和ボケした日本人は今ようやくそのことに気付き始めた。

人々は自分たちの人間性を確信し、自分たちが野生動物たちとは異なる崇高な存在であると確信し、国家が野生動物たちと同じ様な存在であることを認めたがらない。ところが現実は国家というものが理性を供えているが野生動物のように生存のため暴力を振るう組織、即ち軍隊を持ち、自分の国に歯向かう国家への警戒心を持ち続けている。軍隊という力なしには国家は生き残ることは出来ない。

今回アメリカは日本とアメリカの同盟が如何に強固なものであるかとうことを日本に敵対する国に対して実際の形で見せつけた。アメリカは「平和は力で守られる」と世界に向けて公言し、日本に危害を加えることは即ちアメリカに危害を加えることと同じことであるということを鮮明にした。

それでも日本は安心していてはならない。同盟国のアメリカといえども欲心があり、日本の防衛のため自国民が犠牲になることは望まない。日本は自らの国を自らの力で守りきるという覚悟を持たなければならない。国民の最大多数が安全と安心と繁栄を確保することこそが国民の最大多数の幸福になる。Y氏の器量では安倍総理の器量を測れないだろう。

人間の社会では野生動物の社会と同じように生存及び自己保存のために争いが絶えない。釈尊がおっしゃったようにこの世は五濁悪世である。五濁とは劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)の五つのことである。劫濁は「時代の穢れ」、見濁は「邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態」、煩悩濁は「欲望や憎しみなど煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態」、衆生濁は「心身ともに人びとの資質が衰えた状態」、命濁は「自他の生命が軽んじられる状態」である。(真宗大谷派東本願寺ホームページより引用)

それでも人間は生存及び自己保存のため最良の方法を求め続けて進化してきた。釈尊がおっしゃっているように、今を生きる人の人生は前世の宿縁の続きである。人は自分の前世の悪い宿縁を断ち切るように努力する人生を送らない限り、自分の来世においても悪い宿縁が続く。釈尊はそのように説いておられる。

人間の集合的組織体である国家も同様である。国民の大多数が五濁の悪い宿縁を断ち切るように努力しない限り国家の有り様は変わらない。悪い人間の来世が修羅か地獄か餓鬼か畜生かに転生するように、国民の大多数が五濁の悪い宿縁をもっている国家はなかなか良い国家に進化することができないのである。

『脳科学は宗教を解明できるか』(春秋社刊)という本がある。これにはポパー(Sir Karl Raimund Popper)の“三つの「世界」”のことが紹介されている。それによると“「世界Ⅰは物質の様相」、「世界Ⅱは各個人の心を成す意識」そして「世界Ⅲは文化の様相」であり、それぞれ存在しているものである。宗教はこの三つの世界のすべてと関わりを持つ。”としている。

『佛無量壽經卷上』には「我聞如是 住王舎城 耆闍崛山中 與大比丘衆 万二千人倶 一切大聖 神通已達 (私は、仏(ほとけ)が一時、王舎城(おうしゃじょう)の耆闍崛(ぎじゃくつ)山中に大比丘衆一万二千人と俱(とも)に住んでおられたとき、皆(みな)大聖(だいじょう)で已(すで)に神通(じんづう)に達していた、ということを聞いている。)」という書き出しで、釈尊が認識した仏の世界のことが説かれている。“一時佛”の仏とは釈尊のことである。

王舎城は摩竭陀国(まがだこく)の王都であった。耆闍崛山は王舎城近郊の山頂にある精舎(しょうじゃ)である。精舎は寺院のことである。今から約2500年前の古代インドで修業と座禅を重ね禅定にはいった人々は皆大聖(だいじょう)となり、宿命通・天眼通・神足通などの神通力を得ていた。そういうことがこの『佛無量壽經卷上』の初めに書かれている。大聖とは高位の菩薩のことである。『佛無量壽經卷上』の初めの部分にその菩薩の名前が挙げられている。その中に舍利弗・阿難など釈尊の十大弟子の名前がある。舍利弗(しゃりほつ)はシャーリプトラ、阿難は阿難陀(アーナンダ)とも言い、彼は釈尊の従弟である。


幸い多くの日本人は先人たちのお蔭を被って、ポパーの「世界Ⅲ」を共有している。日本人は五濁悪世からなるべく離れることが出来るようになっている。真に有難いことである。

2017年4月15日土曜日

20170412『仏説阿弥陀経』について(15)


私は、今から約2500年前のインドで仏教を開かれたお釈迦様(釈迦牟尼・梵語Śākya-muniの音写・シャークヤ族の聖者・釈迦牟尼世尊・釈尊)はユリ・ゲラー(Uri Geller)が持っているような超能力をはるかに超えた超能力を持っておられたお方であったに違いない、と思っている。

アメリカのCIAはユリゲラー(Uri Geller)の超能力を公認したと言われている。ユリ・ゲラー(Uri Geller)は遠隔地から透視する能力を持ち、また念力でスプーンを曲げることもできると言われている。

世の中には科学の常識では理解できないことが実際に起きている。科学が未発達な時代にはそのような超能力をかなり多くの人が発揮できたと思われる。その中で釈尊は普通の人では絶対に見通せないような極めて遠い過去のことも極めて遠い未来のことも見通す力を持っておられたお方であったに違いない。

釈尊は王家に生まれ、7歳の時生母を亡くされたが裕福な環境に育ち、幼少の頃から古代インドの宗教・バラモン教の教えを学んでおられた。バラモン教、後のヒンズー教では輪廻転生と輪廻からの解脱の方法について説かれている。仏教では輪廻転生が説かれている。

釈尊は普通の修業者では到底身に付くことができないような神通力をお持ちであったに違いない。その神通力の一つに最も重要な「宿命通」と言われる力がある。これは前世から決められている運命を識(し)ることが出来る能力のことである。

釈尊は王家の長男であり、ヤソーダーラという名前の妃とラーフラという名前の息子がいた。ラーフラは『仏説阿弥陀経』に書かれている羅睺羅(らごら)のことである。羅睺羅は釈尊の十大弟子の一人である。

釈尊は29歳の時妻子を捨てて出家し、難行苦行をし、欲望を制御し、座禅瞑想を続けてついには禅定に入り、その禅定を深化させ、ついには真理を悟って仏陀(Buddha)になられた。仏陀になられた釈尊は極楽の国土が存在していることを知り、その国土がどのようにして作られたのかを知った。『無量寿経』にはそのことが詳しく述べられている。

釈尊は十大弟子の一人・多聞第一(たもん・だいいち)と称せられた阿難陀(あなんだ)に対し、法蔵(ほうぞう)という菩薩が天文学的な時空を超えた過去に「自分も仏陀となって世の為に尽くしたい」と誓ったということを語られた。因みに阿難陀は釈尊の従弟である。

法蔵菩薩はどの宇宙の中でのことかはわからないが元は王の一人であり、自分の国や財産を捨てたお方であった。この法蔵菩薩は後に阿弥陀仏となられたお方である。法蔵菩薩は四十八の願(がん)を立て、五劫、即ち一つの宇宙が誕生し消滅するまでの時間の五倍と言う極めて長い時間をかけて修業し、ついには西方の極楽世界に成仏され、十劫を経た今現在も人々を救いの手を差し延べておられる。因みに1劫は422000万年とされている。

法蔵菩薩は第十八願(がん)で「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法 (よしんば我仏を得んとも 十方の衆生心の信楽に至ること 我が国に生まれることを欲すること 乃至 十たびの念 もし生じざれば 正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗するを除く。)」

括弧( )内は、私が訳した訓読である。間違っているかもしれない。これを私は次の括弧“”内のとおり、現代語的に意訳する。“(修業中の)私(法蔵菩薩)が、仏の法を会得したとしても、人々が心の底から仏の本当の願いを信じて喜ぶこともせず、私が住んでいる仏の国に生まれることも希望せず、そればかりか十回の念(忘れない思い、念仏)さえも、もし出てこない状態であるならば、私は仏の悟りを体得しない。しかし仏教に目覚めた人は仏の本当の願いを知り、仏の国に生きることを望み、何度も念仏を唱えることであろうから、私(法蔵菩薩)は修業に修業を重ねて仏の真の悟りを体得し(阿弥陀仏)となり、人々を救うであろう。ただ、自分の父を殺す人々、自分の母を殺す人々、仏教の修業の最高段階に達した人を殺す人々、仏教僧の団体の和合を壊す人々、仏の身体を傷つける行為をする人々、及び仏法を誹謗する人々を救うために私は仏になることはない。” 会得は「頭で理解すること」である。一方体得は会得したとおりに体が出来上がっていることである。

中国大陸や朝鮮半島で儒教の普及により仏教が衰退した。ところがわが日本国では聖徳太子や聖武天皇のお働きにより仏教が定着し今日に至っている。鑑真和上は聖武天皇の御世、新たに僧尼となる者に戒を授けるため危険を冒して日本に渡って来られたお方である。武士の時代においても例えば鎌倉の建長寺を開いた蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)は南宋から渡来した禅僧であった。日本には奈良時代の昔から数多くの仏僧が中国から日本に渡来し、日本に帰化して仏教を広める活動をされた。日本はそういう国である。

 このお蔭を被って、今、こうして一市井の無名老人である私も、釈尊の教えに接することが出来ている。真に有難いことである。日本人の大多数の人々は、悠久の歴史の中で、先人たちのお蔭を被ってそれぞれ良い輪廻転生の中でそれなりに幸せな今生を送っている。


2017年3月30日木曜日

20170330『仏説阿弥陀経』について(14)


 朝日新聞に『新聞と9条』という題で連載記事がある。㋂29日付の当該記事の副題は「平和主義の国で」であった。その記事の初頭に終戦1か月後に首相であった東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)がアメリカの通信社の質問に文書で回答した内容が出ている。その内容は「どうか真珠湾を忘れて下さらないか。我々日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう。そして全く新しい平和国家として出発しよう(1945916日付、朝日新聞)」である。

 その「平和主義の国で」という副題の記事に“「忘却の平和主義」は他国に通じなかった。71年秋、欧州を旅した昭和天皇は、英国やオランダで、日本軍に虐待された元捕虜らの反発にあう。朝日・毎日・読売の各社社説は欧州が戦争を水に流していないことに驚いた”とある。

 その記事に続いて書かれている朝日新聞らしい記事の文言は、①「日本と戦った国の人々は戦争を忘れていなかった」・②「戦争の被害だけでなく、加害の面にも目を向け記憶しなければならない」・③「日本の侵略事実を否定したり、隣国への嫌悪をあらわにする言説も一部の雑誌などで目立つようになる」などである。

 ①について、戦争を忘れていないのは日本人も同じである。②については、「日本だけが加害者であったわけではないだろう」という視点が抜けている。③については「一部のマスメディア・リベラリストらよる自虐史観的キャンペーンに対する反動である」と言う視点が抜けている。このブログの“20170301『仏説阿弥陀経』について(11)”に「五濁悪世」のことを書いている。「五濁悪世」は一方的に作られるものではない。一部のマスメディア・リベラリストらは元日本軍人たちの足跡を批判してきた。そのような行為が「五濁悪世」を作ることに加担している、と私は思っている。

 上記②について、オランダによる植民地支配の実態がどうであったか?被支配地の住民に対する虐待は全く無かったのであろうか? “オランダにおける植民地責任 〜Rawagede(ラワグデ)の虐殺をめぐって〜 福岡女子大学 吉田信”という資料がある。私はこの資料に書かれていることが全く正しい内容であるかどうかはわからない。しかし、殆ど多くの日本人は一部のマスメディアやリベラリストの論者による自虐史観的言動により洗脳され、かつての欧州列強による植民地支配の実態について全く知っていない。

 この資料には、“Rawagede の虐殺は太平洋戦争終結後にオランダがインドネシアの独立を抑えるためにとった一連の「警察行動」と呼ばれる軍事作戦において生じたものである。この虐殺については,犠牲者の数をめぐりインドネシアとオランダの双方で主張が食い違っている。インドネシア側は,村で唯一生き残った男性,および女性たちからの証言に基づき虐殺された数を 431 名としている。この虐殺を指揮した軍の将校(Alphons Wijnen)は戦争犯罪の追求を受けなかった”と書かれている。

 戦後インドネシアに残留した約1000人の元日本兵たちはインドネシアの人たちと共にインドネシア独立の為オランダ軍と戦った。戦死者はインドネシア国軍墓地に祀られ、功績をたたえられ殊勲賞を贈られている。下記に引用する記事に添付の動画で、Eduard van Thijn(本やネット上で‘サンティン’と間違って記載されている由)・アムステルダム市長は「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したがその東亜の開放は実現した。その結果、アジア諸国民は独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です」と語っている。
(関連:「意識」と「仏教」(5)――十七人の方々の言葉――

 マスメディアが国家権力に対して常に批判的であることは大変重要である。その一方で、「自分だけが善い側にあり、過去も含め権力は悪い側にある、という立場で物事を観じ、論じれば過ちを犯すことになるだろう。一部のマスメディアやリベラリストの論者は、自ら気が付いていない間に、わが国をとりまく反日の構図が出来上がることに加担したのである。戦後多くの日本人が「一方の側」の論理のみを受け容れ、「他方の側」の論理に背を向けて来たから、その「一方の側」は“自分たちの論理のみが善である”と思い込むようになってしまったのである。その観方は間違っているか?

一方、「他方の側」はその反動として「日本は侵略国家ではない」と主張し、反日の隣国への嫌悪をあらわにする言説を行うようになった。こうして左派と右派の対立という「五濁悪世」が顕れた。最近の隣国の状況はこの対立を一層深めることになるだろう。

森本学園問題で話題になった『五か条の御誓文』には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とある。また『教育勅語』には「億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ(現代語意訳:国民が心を一つにしてその美を成すのは、わが国の優れた点であり)」とある。

わが国が五濁悪世からなるべく遠ざかるためには、日本国民は戦前の良い点を受け容れ、賢くあらねばならない。私は、“「教育勅語」は悪である。われわれの祖父・父たちはアジア諸国の人たちに悪いことをした”という観念に凝り固まっている人たちに対して、幕末以降の先人たちの足跡を、是非とも勇気を出して良く振り返ってもらいたいと思っている。


2017年3月27日月曜日

20170328『仏説阿弥陀経』について(13)


 阿弥陀仏になるため五劫、即ち一つの宇宙が誕生し消滅するまでの時間の五倍と言う極めて長い時間をかけて修業中の法蔵菩薩が立てた四十八の願(がん)の第五に「設我得佛 國中人天 不悉識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺」という言葉がある。

 私は三省堂『漢辞海』と光生館『現代中国語辞典』を引用しながら、これを翻訳し、解釈してみようと思う。勿論、インターネット上には現代日本語に翻訳されたものが出ている。私はそれも参考にする。こうして今からおよそ1760年前に中国語に翻訳された仏教の経典に書かれていることを、今を生きている日本人の私が自ら理解しようとしている。下記の私の現代語訳には誤りがあるかもしれないが、私自身は正しい翻訳をしたと思っている。

第五願にある「宿命」とは「前世から決められている運命」のことである。その運命を識(し)ることが出来ることを「宿命通」という。「宿命通」は五つある神通力の一つで最も上位にある神通力である。因みに五神通は「宿命通・天眼通・天耳通・他心智通・神足通」である。第六願・第七願・第八願・第九願は、それぞれ天眼通・天耳通・他心智通・神足通に関する願である。法蔵菩薩は、自分が天眼通・天耳通・他心智通・神足通を得なければ自分は「正覚(=正しい悟り・成仏)」しない、と願を立てられたのである。

第五の願は「たとい我仏を得たとしても、国中の人天悉く宿命を識らず、百千億那由他の諸劫の事を知らずに至れば、正覚を取らじ」という願である。これは現代語に訳すれば「たとい私が仏(の法)を理解したとしても、もし国中の人間界・天上界がみな宿命をわからず、102×1011×1060個の宇宙が誕生して消滅するまでの期間の事を知らずにいたなら、私は仏にはなりません」という願である。

因みに那由他は、元は仏教用語で梵語の"nayuta"を音訳した「極めて大きな数量」(新村出編『広辞苑』第三版)の意味である。那由他は阿僧祇(1056)の万倍の1060のことである。江戸時代に執筆され、当時ベストセラーとなった数学書である『塵劫記』の塵劫記寛永11年(西暦1634年)版にそのことが出ている。(以上、Wikipediaより引用。)

今、私がそのような作業を行うことが出来るのは、先人たちの努力の蓄積があったからに他ならない。私がこの世を去った後、私の子孫がもしこのブログの記事を読んだならば、彼または彼女はどう思うだろうか?それは誰も分らない。自分が誰かの「来世」を今、自分の「現世」として生きているのだということも、自分の死後、自分は誰かの「現世」として生きるということも科学的には全く証明できないことである。

 仏教では「前世」「現世」「来世」の因果・因縁のことが盛んに説かれている。巷の会話で「地獄も極楽もこの世にあり、あの世にもあるのだ」・「因果応報だ」などの言葉を聞くことがある。生物学上の「遺伝」や人間学上の「意識」は因果・因縁と深い関係がある。近年、エピジェネティックな遺伝のことも話題になっている。
 (関連:
 20160218「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(9)―― エピジェネティクスの面から考える子供の養育 ――

 「宿命」とは「前世から決められている運命」のことであり、それを深い禅定により認識することができれば人は自分の宿命を知り、現世においてその宿命に賢く対処することができるに違いない。私はそう思うのであるが、つらつら考えてみると現在わが国に横行している、いわゆる「葬式仏教」「儀式仏教」では宿命のことがあまり大事に考えられていないようである。しかし人々は宿命を恐れるから現世利益を願い、寺院で仏教の僧侶に、神社で神道の神職に祈祷やお祓いをして貰っている。

 日本人は世界に存在しない日本人独自の縄文人のDNAをベースに、非常に多様なDNAを有しているせいか、日本には「何でもあり」の文化がある。年の初めに神社や寺院に詣で、結婚式は神社やキリスト教会で行い、葬式は仏教で行い、夏祭りで神輿を担ぎ、阿波踊りに興じる一方で、ハロウイーンで仮装した人々が町中で楽しむなど、日本には古い文化も新しい文化も非常に多様に混在している。

 日本はヨーロッパの多くの国々と同じ様に自然に発生し、進化してきた国である。一方、アメリカはヨーロッパから人々が移り住んで独立宣言をして出来た国であり、国旗を統合のシンボルにしている国である。これに対して日本の周辺の国々の成立状況はかなり事情が異なっている。DNAの研究結果、日本はそれらの国々の人たちと血縁関係は遠い、ということが分ってきている。

 人間同様、国家についても因縁・因果について考えてみることが重要である。人間も国家も安定・不安定の状況をもたらしている因縁・因果がある。宿命は人間だけでなく、国家にもある。我々日本人は日本国の宿命を理解し、男系の皇統を維持してきた皇室と日本国の歴史についてよく知ることが大変重要である。最近、子供たちに「教育勅語」を教え、それを暗唱させたある幼稚園のことが話題になったが、「教育勅語」にはおかしな部分は全く無い。私は、これを子供たちに教えることを問題視する方が間違っている、と思っている。


2017年3月20日月曜日

20170320『仏説阿弥陀経』について(12)


私は『曹魏天竺三藏康僧鎧譯 佛無量壽經 卷上』を読んで理解しようとしている。インターネットで入手した『無量寿経上講義』がその読解を助けてくれる。法然上人のお弟子であった親鸞聖人が私を導いて下さっている。今の時代、このようにして、先人たちの労苦のお蔭を被って比較的容易に釈尊(釈迦牟尼(Śākyamuni))を身近に感じることができるようになっている。真に有難いことである。

この経典の翻訳者・康僧鎧(こう そうがいskt:Saghavarman सँघवर्मन्、生没年不詳)は、古代中国の曹魏時代の訳経僧である。天竺(インド)出身の僧と伝えられているが、康の字から西域の康国・ 康居国の出身とする説もある。「訳経僧(やっきょうそう)」とは経典の翻訳に従事する僧のことである。特に、中国においてはサンスクリットの経典を漢訳する僧をさすことが多い。鳩摩羅什や玄奘三蔵などが代表的。霊仙三蔵のような、日本人の訳経僧もいる。「三蔵法師(さんぞうほうし、繁体字:三藏法師、簡体字:三藏法、拼音: Sānzāng fǎshī)」とは仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していうようになった。単に「三蔵」と呼ぶこともある。(以上、Wikipediaより引用。)

曹魏時代は西暦220年から265年の間である。古代中国の書物の内容を西暦2017年に生きている私が読んで理解しようとしている。古代の日本人は古代の中国から漢字を導入し、さらに平仮名と片仮名を発明したことにより、古代中国人が書いた物を読みこなした。この知的な蓄積があったおかげで、今を生きる日本人は1800年前の古代中国人が書いた物を読解することができる。この有難さを感じている日本人は多いだろうか?

阿弥陀仏はどういう仏様であろうか? 阿弥陀仏は宝蔵菩薩が四十八の願(がん)を立て、五劫、即ち一つの宇宙が誕生し消滅するまでの時間の五倍と言う極めて長い時間をかけて修業し、西方の極楽世界に成仏したお姿である。その阿弥陀仏は(Amitābha「量(はか)りしれない光を持つ者(無量光仏)」又はAmitāyus「量りしれない寿命を持つ者(無量寿仏)」) である。

阿弥陀仏は阿弥陀如来とも言われる。如来(tathāgata)とは「如実に来れる者」・「真如より来れる者」という意味であり、真如法界から来たって真如を悟り、如実の強化活動などの生活を為し、如実に去り行く者で、仏陀の同義語である。(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』より引用。)

 わが日本国には聖徳太子・聖武天皇らのお蔭で仏教が根付いている。またわが日本国には2000年以上にわたる万世一系の男系の皇統の天皇がいるお蔭で、このように秩序ある国体が持続されている。国家を「一つの人間」として観た場合、日本は心身ともに健全で、進化し続けている国である。このことを日本国民は自覚するべきである。

 皇位継承に関して「女性宮家」の設置を是とする議論が出ている。その議論の陰には日本国の弱体化を意図する勢力の深慮遠謀がないかどうか?私はそれがあると直感的に思っている。男系の皇統は何が何でも持続されるようにしなければならない。

天皇は日本国民の統合の象徴である。古墳時代人ともよばれる原日本人は縄文人と長江中流域からジャポニカ種の稲作文化を持ってやってきた渡来系弥生人の混血である。その原日本人の中から天皇の先祖が現れた。それが神武天皇である。原日本人は紀元後大陸側の政変等により大陸(主に朝鮮半島)から新たに流入した人々と混血し、現在の日本人の形質が出来上がった。日本人は多人種の混血種であるが、そのベースになるY染色体DNAのハプロタイプは大陸に存在しないD1b系統である。D1b系統をベースにした多人種混血種の日本人が一つの民族としてまとまりを見せている理由は、民族統合の象徴である男系の皇統の天皇がいるからである。もしこの皇統が途切れ女系天皇となってしまったら、日本人は民族としてのまとまりを欠くことになるだろう。

用明天皇元年(585年)に仏教の受容を巡ってわが国内に激しい対立があった。その対立を収め、国内に仏教を広めた立役者は聖徳太子であった。初の女性天皇であった推古天皇の御世に皇太子を務めたのは厩戸皇子、即ち後に聖徳太子と呼ばれたお方である。女性天皇は男系皇統の中継ぎである。女系天皇ではY染色体遺伝子は途絶えるが、中継ぎの女性天皇であればY染色体遺伝子の皇統は維持される。

聖武天皇(大宝元年701年)―天平勝宝8756年))は奈良に東大寺を建立し、全国各地に国分寺・国分尼寺を建立させた。東大寺は国分寺・国分尼寺の総本山であるとともに、今でいう総合大学の役割も担っていた。国分寺・国分尼寺は全国各地で仏教による国家の鎮護の役割を担っていた。

日本ではこのような背景があったから、シナ大陸や朝鮮半島で弾圧されて廃れた仏教が日本では盛んになり、法然上人とその弟子であった親鸞聖人により阿弥陀仏への信仰が広められたのである。日本国民は何と幸せな国民であろうか。もし多くの日本人がそのことを自覚しないならば、日本国民はきっと不幸になることだろう。

2017年3月1日水曜日

20170301『仏説阿弥陀経』について(11)


「五濁悪世」は現に生きている人間が創っている。一人の人間でも、夫婦でも、複数の人間の群れでも、団体でも、武装組織でもマフィア・暴力団でも、独裁者の国家でも、一党支配の国家でも、自由と民主主義の国家でも、皆「五濁悪世」を創る。人間は「人間」の仮面をかぶった動物以外の何者でもない。人間は自分が「動物」ではなく「人間」であると思いたがっているから、自分自身が「五濁悪世」を創っていることをなかなか自覚したがらない。

 理想主義者・博愛主義者が夢見ることは、国境が無く、世界の人々が自由に行き来して自分が住みたい土地に自由に移り住むことができるような世界の実現であろう。一方、動物たちは食べること・交配して種を残すこと・生存することだけを欲求して「自存の行動」をしている。人間は自分が「動物」ではなく「人間」であると思いたがっているが、人間も「動物」の一種であることに間違いはない。そういう「人間」が作っている国家は「動物」と同じように「自存の行動」をする。わが国の近隣にそういう国家が存在している。一部の理想主義者・博愛主義者たちはそのことからできるだけ目を背けようとする。なぜなら彼らは「自分は人間であって動物ではない」と思いたがっているからである。

 「五濁悪世」は「人間」の面をした「動物」が創っている。この世から「五濁悪世」は絶対無くならない。しかし、真理に触れる機会が多い人・②善良な人・③美しい物事に感動する機会が多い人や、そのような「人間」の集団は「五濁悪世」をなるべく減らすようにすることできる。仏教やキリスト教など普遍宗教を信仰している人や「人間」の集団は「五濁悪世」をなるべく減らすようにすることでき、現に「五濁悪世」からなるべく離れた世界に住んでいる。しかし一方で、人々に自分の霊感を信じ込ませ、現世や来世での幸せを信じ込ませる宗教が蔓延っている。わが日本ではそういう宗教も公益的な宗教法人として扱われている。それは憲法で「信教の自由」が保障されているからである。

 一部のリベラリスト・グローバリスト・これらに同感するジャーナリストやメディア・政治家・官僚が着目したがらないことは、次の七つのキーワードの中にある。
 ①国家は一つの生物である。
 ②最大多数の人々の最大幸福を目指すことが最善である。
 ③自由は規律と裏腹であり、両者は同等の重さがある。
 ④権利は義務と裏腹であり、両者は同等の重さがある。
 ⑤軍隊は国家の背骨である。
 ⑥人々の最大の関心事は自分及び自分の家族の安全・安心・繁栄である。
 ⑦最大多数の人々の最大幸福は上記⑥の関心事が確保されることである。

 移民の増加・永住権を得た特定の外国人の増加は社会に活力を生むと同時に、社会の不安定を招くだろう。カジノ・ホテル・商業施設などの統合型リゾート(IR)を造ることは社会に富をもたらすとともに、犯罪も増えるだろう。海外からの投資を自由にさせれば、経済が発展するが、一方で国家の防衛上重要な施設や機能が危険に晒されることになるだろう。そういうことが起きないようにするため、必然的に厳しい取り締まりが必要になる。しかし日本人は往々にして重大な事件が起きるまで呑気に構えている傾向がある。潜んでいる問題を発掘し、事前に対策を講じることは危機管理の要諦であるが、そのことについて声を大にして言う人は少ない。家庭・学校・社会・企業・行政機関等で問題解決のための教育・訓練は熱心に行われるが、潜んでいる問題を発掘し、事前に対策を講じるための訓練については無関心に近いのではないだろうか?

感情・知識・文化の三つは「問題の存在」に気付かない原因となり、問題の発見が遅れる原因ともなる。自虐史観に囚われている人・軍隊に対するアレルギーがある人・国家観が欠如している人・自由だけを希う人・権利だけを主張する人・自分だけが良ければよいと思っている人などは、「問題の存在」に気付かないか、「問題の存在」に気付こうとしない人たちである。テレビや新聞に出る一部のリベラリスト・グローバリスト・これらに同感するジャーナリストやメディア・政治家・官僚の中に、そういう人たちが居ないかどうか?

南京事件・竹島問題・日本海の呼称などについて、公立学校で子供たちに嘘を教え込んでいる国々がある。日本政府はそのことについて事を荒立てないようにしている。しかしそれらの国々が公立学校で反日教育のため嘘を教えていることについて、ある私立幼稚園の経営者が園児たちに「嘘を教えないで下さい。お願いします。」と言わせていることや、五か条の御誓文・教育勅語を教えていることについて、それは「行き過ぎだ」と非難する人たちがいる。これも、御誓文の内容や教育勅語の内容について知らない人、或いは感情的にこれらに反発している人たちが「問題の存在」に気付いていない現象である。これも「五濁悪世」の現象の一つである。

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  20170202『仏説阿弥陀経』について(9)