2017年2月17日金曜日

20170217(臨時投稿)「財政ファイナンス」「国家は一種の生き物」


以前、フェイスブックで私が支持しているある政治家の投稿にコメントしたら、その人の「友達」から“「政府発行の国債は日銀が買い取り貨幣化」は財政ファイナンスであり、許されない。○○内閣補佐官は経済・財政・金融分野ではド素人である」”という趣旨の反論をされたことがあった。私は“「財政ファイナンス」とは何か”と反論したが、返事は無いままであった。その後暫く経った後、私は故あってフェイスブックから永久的に退出した。

 我が国は橋本政権以来、「財政規律」を問題にするようになったらしい。財務省のホームページによれば、平成28年度末でわが国では凡そ844兆円の累積債務があるとしている。財務省はその844兆円の債務を「国の借金」とは言わず「財政赤字」という言葉を用いて、その赤字額は「国民一人当たり669万円である」と言っている。おまけにその赤字額を「勤労者世帯の平均年間可処分所得約508万円」と比較して示している。さらに「財政赤字の累増は、①利払い費の増加に伴い政策の自由度の低下、②金利の上昇による経済への悪影響、③世代間の不公平拡大の三つをもたらす」、その結果「活力ある経済社会の実現に大きな足かせとなる」と結論付けている。

 財務省は「現在の年金・医療・介護の各サービス水準を維持するだけでも、税金投入を毎年1兆円以上増加させる必要がある」と言っている。財務省はその財源を消費税の増税により賄おうとしたが、消費者が我が国の先行きに不安感を抱いたため、消費支出が減り、結果的にGDPが上がらず、税収が増えない結果を招いてしまった。

私は、景気を良くするためには税収の不足分を国債の増発により補って公共投資を活発に行い、日本国中の隅々まで交通・通信・電気・水道等のインフラ(infrastructure)を整備し、国防関係予算を増額して我が国の防衛能力を高めたりして国(政府)による消費や国民による消費を増やし、一方で革新的な生産性向上の方策を編み出し、それを適用してGDPを底上げし、結果的に税収を増やすことを考える必要があると「ド素人」なりに考えるが、「財政フィナンス」という言葉に縛られてそのような思い切ったことは実行されていない。

一般国民は「財政ファイナンス」と言われても何のことかさっぱりわからない。一般国民は国債の発行により「財政赤字」が「国民一人当たり669万円」であると聞かされ、自分の家計のことを念頭に描いてできるだけ倹約的な暮らしをしなければならぬと考える。一般国民は「財政ファイナンス」という用語の意味に関心が無いのである。

「財政ファイナンス」とは「国債の貨幣化(monetization)」のことだと金融関係用語集には出ている。「財政ファイナンス」とは国(政府)が発行した国債等を中央銀行が直接引き受けることである。EUの諸国と違って我が国やアメリカや中国などは自国の通貨を持っているので、わが国の場合、国(政府)が発行した国債を日本銀行が買い取ると、国(政府)は投資に必要な資金を手にすることができる。これは日本銀行が国(政府)に資金(money)を供給(finance)することである。

「財政ファイナンス」を行うと「財政規律」が乱れるおそれがあり、急激にインフレが進行する「悪性のインフレ(Hyperinflation)」を引き起こす恐れがあるため、わが国においては財政法第五条に「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。」と規定されている。因みに明治政府は戦費を賄うため公債を発行し、インフレ率が14%にまで跳ね上がったそうである。それでも我が国は公債発行により危機を乗り越えることができた。

「財政ファイナンス」は、政治家が決断し、実行して結果責任を取れば出来ることである。ところが国家の運営について見識が薄い政治家たちは「財政ファイナンス」の意味すら理解せず、これまで長年財務省の言うなりになっていたに違いない。その結果、安倍首相が幾ら「アベノミクス」と強調してもデフレからの脱却は出来ず、GDPは低迷しているのである。

一方で、政治家も国民も「グローバリズム」・「リベラリズム」という呪文に縛られ続けて来た。アメリカに異色の大統領・トランプ氏が現れ、わが国の政治家も国民も意識が変わりつつあるように見える。我々は長年、善人面をしたインテリゲンチア(intelligentsia)(=知的生産をする社会層・知識層)・リベラリスト・又はこれらの層に自分が所属していると思いたがっているマスメディア従事者たちが用いる言葉を無抵抗に受け容れて来た。

しかし私のような無学の一市井の80歳になる老人でもこうしてネットを通じて発言している。言論が極めて自由なこの日本国であるからこそ、そういうことができる。国防の強化のため憲法を改正する必要があるが、この「自由」の権利が規定されている条文だけは断固守られなければならぬ。わが国は憲法を改正して自衛隊を国防軍にし、名実ともにわが国の軍隊(armed forces)にしなければならぬ。その一方で周辺の国々がお互いに「win win」の関係となるように、お互いの政府間で外交・経済の努力が粘り強く継続されるべきである。



わが国の国民は人種的に歴史的にも文化的にも周辺国とは異質である。国家は「一種の生き物」である。「一種の生き物同士」としてわが国は周辺の国々との間でお互い一定の秩序を保ちあうことを意識し合うようにしなければならぬ。その為にはわが国も「一種の生き物」であることを、我々は国民として強く意識する必要がある。その「生き物」の背骨となるものが正に軍隊(armed forces)である。これはリベラリストたちが好まないことであろう。

2017年2月7日火曜日

20170207『仏説阿弥陀経』について(10)


放送大学の講座に『博物館学』というものがある。この講座の講義内容はテレビ受信装置のハードディスクに収められているのでいつでも見ることができる。その講義の中で北海道の白老町にあるアイヌ民族博物館のことが紹介されていた。

アイヌの人々は独特の言語・文化を持っていたが明治政府による同化政策により日本人としての名字・名前を名乗り、和人(昔、大和民族の人々が自分たちとアイヌの人々を区別するため付けた自称)との混血が進み、現在ではアイヌ語を母語のように話すことが出来る人は全く居なくなってしまっているのではないかと思われる。しかしアイヌ語由来の地名は北海道・東北地方などに多い。

日本人は元々北の北海道から南の沖縄までの日本列島だけに暮らしていた縄文人という人種と、4200年ほど前以降長江中流域から徐々に、東シナ海を直接横断するルート、及び山東半島から朝鮮半島南部に渡り、其処からさらに北九州に渡るルートで、それぞれ日本に渡って来た渡来系弥生人が混血して生まれた人種である。縄文人たちと渡来系弥生人たちとは争うことなく混血して日本の古墳時代人になった。その中から後に大和民族を束ねる天皇(神武天皇)が現れ、今年皇紀2677年になるまで男系の皇統が続いて来ている。

白老町にあるアイヌ民族博物館の学芸員の方々の容貌はアイヌの血を引いているようで彫りが深い。その人たちと一部の沖縄の人たちの容貌は似たところがある。縄文人のDNAとアイヌの人々のDNAには同じ部分が多いことが分っている。一方アイヌの人たちと沖縄の人たちのDNAにも同じ部分が多いことも分っている。これは大和朝廷があった近畿地方から離れた地域では混血の度合いが少なかったということを示すものである。

2012年の秋私が妻と二人で北海道に旅行したとき、阿寒湖ある店で『アイヌ語を覚えちゃおう!』と題するリーフレットと『マンガ版アイヌ語辞典』を貰った。その店で私は豊岡キイチ著『邪馬台国を見る』と言う本を買った。豊岡キイチ著『邪馬台国を見る』には日本各地の地名の中にアイヌ語との関係が深いと考えられるものが沢山あることが紹介されている。

『マンガ版アイヌ語辞典』には、昔アイヌの人々が和人と戦ったことや、江戸時代に松前藩による支配を受けて絶対的な服従を強いられていたことなどが描かれている。アイヌの人々も「和人」もルーツが同じ縄文人であるのに、これは悲しい史実である。「和人」たちはアイヌの人々をひどく差別していたのだ。

アメリカインディアンやオーストラリアのアボリジニなどはそれらの国々ではヨーロッパ人に武力で征服され支配された少数民族と言うことができるが、アイヌの人たちや沖縄の人たちにはそういうことは無かった。アイヌの人たちも沖縄の人たちも天皇の下、皆同胞である。同胞とは同じ母から生まれた血縁という意味である。そのことを知らないか、そのことを無視している人たちが「琉球独立」を掲げて運動している。

国連の人種差別撤廃委員会などは200810月以降、日本政府に沖縄の人々を先住民族と認めるよう複数回にわたって勧告しているが、これは沖縄を日本から分断しようとしている某国による陰謀である。日本列島には先住民族など全く居ない。

釈尊は私たちが生きている娑婆世界を五濁悪世であると仰っている。五濁とは劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)の五つのことである。劫濁は「時代の穢れ」、見濁は「邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態」、煩悩濁は「欲望や憎しみなど煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態」、衆生濁は「心身ともに人びとの資質が衰えた状態」、命濁は「自他の生命が軽んじられる状態」である。(真宗大谷派東本願寺ホームページより引用)

アイヌの人々に対する固定観念や先入観を取り払い、アイヌの人々に寄り添った先住民政策を再構築するための全国組織を持つことは上述五濁から離れるために大変結構なことである。しかし沖縄の人々を先住民族をとするように国連に働きかける日本人は逆に五濁をつくる悪人たちである。

沖縄の人々を先住民族をとするように国連に働きかけることに理解を示す日本人や日本のメディアは、どう見ても奄美群島・沖縄諸島・宮古列島・八重山列島・大東諸島、八重山列島・尖閣諸島を自国の領土にしたいと思っている某国の野望に応えているとしか思えない。彼らは自らがこの日本国で恩恵と利益を得ている存在であるにもかかわらず、日本国の安全と繁栄・日本国民の安心と幸福を脅かそうとする悪い奴ら・非国民である。

しかしこのように彼らを「非国民」と呼んで蔑みたい気持ちも、私自身が娑婆世界に住んでいる以上絶対断ち切ることができない穢れである。私は和讃にある「法身の光輪・智慧の光明・解脱の光輪・光雲・清浄光明・仏光照曜最第一」と表現される阿弥陀如来の絵図に向かって「南無阿弥陀仏」と幾ら唱えても、その煩悩を断ち切ることはできない。私は娑婆世界に生きている以上、正義感に基づく怒りの気持も、本能的欲望とともに断ち切ることは絶対出来ない。それでも私は親鸞聖人に導かれたお蔭で、今生において既に阿弥陀如来に救われており、私の命終後も阿弥陀如来に救われる身である。


2017年2月2日木曜日

20170202『仏説阿弥陀経』について(9)


「五濁悪世」は『仏説阿弥陀経』に書かれている言葉である。「五濁悪世」は生物学上の生物である「ヒト」が必然的に作っている現象である。ところが善人面をして理想を追い求め、自分たちの知力・指導力で自分たちが理想とする社会の実現を目指すリベラリストたちも、「○○ファースト」と唱える政治家たちも、皆「五濁悪世」を作るのである。「五濁悪世」は人間社会の必然的現象である。

そういう中で現実を直視し、国民の最大多数の「安全・安心・繁栄」が実現されたかどうかは、歴史のみが審判する。現状を分析し、状況を的確に判断し、国民の最大多数の「安全・安心・繁栄」のため最善の方策を選択した国家のみ、未来における安堵が保障される。

「ヒト」以外の生物は「快・不快」の本能で行動する。彼等には「五濁悪世」は無い。「ヒト」以外の生物は生き残り、自分たちの種を残すことだけで行動する。ところが「ヒト」種生物の中でリベラリストたちが陥りやすいのは、自分が所属し、其処で恩恵と利益を得ている社会「最大多数」の人々の「最大幸福」である。彼らは善人面をした理想主義のゆえに、「少数」の人々の「最大幸福」のみに目を向けがちである。

リベラリストたちの発言はメディが喜んで取り上げる。一方で武力・経済力・宣伝力で国家の覇権を拡大しようとしている国々は、そういうメディアの動きを歓迎する。現に日本の国内・周辺でそういう現象が起きている。国民の「最大多数の最大幸福」の核心は、国家・国土・領土・領海・領空・排他的経緯水域・国民・社会の「安全と安心」であり、「繁栄」である。リベラリストたちはそういうことに十二分の注意を払おうとしない。

『仏説阿弥陀経』には「釈迦牟尼仏(shakamunibutsu)。能為甚難(nouijinnan)。稀有之事(keushiji)。能於娑婆国土(nouoshabakokudo)。五濁悪世(gojokuakuse)。劫濁見濁(koujoku-kenjoku)。煩悩濁(bonnoujoku)。衆生濁(shushoujoku)。命濁中(myoujoku-chu) 得阿耨多羅(tokuanokutara)。三藐三菩提(sanmyakusanbodai)。(釈迦牟尼仏は大変困難で稀有な仕事をやり遂げた。釈迦牟尼仏は五つの穢れに満ち溢れた人間世界で、最高に平等で正しい悟りの境地を得た。)」と書かれている。「釈迦牟尼仏」とは「仏(Buddha)になられた釈迦牟尼(Śākyamuni)シャーキャ族の聖者)」(=日本で言う「釈尊」)のことである。

「仏(Buddha)」とは「法(dharma)」を覚った人」の意味である。後世において「仏(Buddha)」は「如来(tathāgata)」と同じ意味になった。dharmaとはBuddhaによって説かれた教えである。それは人々をして現実の不安や苦悩から脱せしめ、苦しみの無い安穏な理想郷に向かわせる教えであり、社会全体を平和で幸福に導く教えである。(水野元博著『仏教要語の基礎知識』を参考として記述。)

『仏説阿弥陀経』には、“これより西の方の十万億のBuddhaの国を過ぎたところに「極楽」という国がある。その国に阿弥陀仏(Amitāyus buddha)という「量りしれない寿命を持つ者」がおられ、無量光(amitāba)(量り知れない光)を放っておられて、今現在も「法(dharma)」を説いておられる。その国には楽しみだけがあって一切の苦しみは無い。

そこではいろいろな美しい鳥たちが皆にBuddhaの教えの真実を知らせている。その鳥たちは罪の報いにより鳥の姿に変えさせられているのではなく、Amitāyus buddhaご自身がその鳥たちに変身している姿である。

その国の東方・西方・南方・北方・上方・下方にはそれぞれ数えきれないほど非常に多くのBuddhaや菩薩(Bodhi-sattvaの音写でBuddhaになるための修業者のこと)などが住んでいる国があって、それら数えきれないほど非常に多くのBuddhaたちがそれぞれの国にいて大いに弁舌を振るって真実の言葉を発している。(諸仏。於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言)という趣旨のことが書かれている。

「友は類を以て集まる」という諺のように、普段誠実で、謙虚で、他者を思いやる温かい心の持ち主の周囲・交友関係には同じような人がいる。そのような人たちはお互いの人柄の中に無意識にBuddhaを見ているのだろう。そのような人たちの間ではお互い無意識に「極楽」という国を見ているのだろう。

そのような人たちは五濁悪世の娑婆世界に生きていても、その人たちのところに自然に福徳が及んでいるのだろう。それは神通力が働いているようなものであろう。偶然の良い出来事は「起きるべくして起きた」必然の出来事なのだろう。

そういうことは国際社会では到底有り得ない。国家は「一つの生物種」と見なすべきものである。国家と国家の間では「Give and take」の関係のみで福徳があるかどうか定まる。これは言うなれば生物と生物の間の共生関係のようなものである。勿論、国家は一時的には人道主義と友愛精神に基づく「善」なる行動をとる場合もあるだろう。しかし国家としてのそのような行動が、その国民の「最大多数の最大幸福」を阻害するものになるならば、それを継続することは難しくなる。所詮国家は利己的な存在である。

 「国家」と一口に言っても、一人または一党独裁の国家もある。史実を捻じ曲げ偽りの歴史を国民に堂々と教えている国家もある。日本の周辺にある国々はそういう国家である。


2017年1月26日木曜日

20170126『仏説阿弥陀経』について(8)


 好意を受けることが続くと、それは自分の権利だと思うようになる。しかしそれは「Give and take」 の関係ではないので、好意を受け続けることは心地よいものではない。そこで、「相手の好意に対して感謝しなくても良い」、という論理を無意識のうちに自分の中で組み立てる。そのようにして自尊心を守ろうとする。

 国家と国家の関係においても同様のことが言える。トランプ大統領が現れて日本はアメリカの核の傘に守られていることをこれまで「権利」だと考えて来なかっただろうか?彼が大統領候補であったとき、彼は日本の核武装を容認する発言をした。

この発言は見方を変えれば、アメリカが日本に対して同盟国としての好意を寄せ続けた結果、日本はアメリカの核の傘に守られ続けることを当然の権利だと考えてしまっていることに気付いたことを示唆するものであったと言えないだろうか?同盟関係の軍事力の面の「Give and take」において、日本はアメリカと対等の関係にあるだろうか?

 ところで、日本が戦後好意を与え続けた国々が、今日本に対してどういう態度に出ているだろうか? 反日は彼の国々の自尊心の裏返しではないのか? 人と人との関係においても「Give and take」を重視しない関係が続くと何かのきっかけで必ず対立が起きる。

 「Give and take」は契約の世界の言葉である。トランプ大統領は自分が自分の支持者に約束したことを早速実行に移している。日本では「表と裏」「本音と建前」がまかり通っていて、トランプ大統領が大統領になる前に支持者に言っていたことは、必ずしもそのとおりにはならないだろうと楽観している雰囲気があった。しかし彼は自分の支持者に約束したことを着実に実行している。

 日本では、儀式仏教が流行(はや)り、人々は仏前・神前で神妙な顔をして現世利益・来世利益を求める文化があるので、「契約」と言う言葉に対する認識がピンからキリまである。その「ピン」の方では、日本には万世一系の天皇がいて、武士の時代もあって、公と私の別が明確であり、公において約束したことは必ず守られるべきことであるとする文化がある。しかし政府間の約束事を守ることができない文化が幅を利かせている困った隣国もある。

 「Give and take」は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教の世界で重要な言葉であるに違いない。契約は神との約束ごとである。 阿弥陀仏(Amitāyus buddha)・阿弥陀如来(Amitāyus tathāgata)を信仰の本尊とする真宗においても、我々衆生と阿弥陀仏・阿弥陀如来との「Give and take」がある。私は学者ではないので、衆生の一人としてそのように考える。

 阿弥陀仏の本願は、真宗大谷派がネット上で説明しているように、「自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになる」ことである。迷いの世界にある我々衆生は、阿弥陀仏・阿弥陀如来を心底から信じ、阿弥陀仏・阿弥陀如来に救いを求める行いをすることにより、「永久(とわ)の闇(やみ)より救(すく)われる」(『真宗宗歌の歌詞』)のである。私は、我々衆生が阿弥陀如来を心から信じ、阿弥陀仏・阿弥陀如来に救いを求める行いをすることは阿弥陀仏・阿弥陀如来への「give」であり、その「give」により我々衆生は「永久(とわ)の闇(やみ)より救(すく)われる」ことを「take」するのである、と考える。

ここで「如来」とはtathāgataの義訳であり、「如実に来れる者・如実より来れる者」という意味であり、「真如法界から来たって真如を語り、真如の教化活動などの生活をし、真如に去り行く者」のことであり、仏陀(Buddha)の同義語である。「真如」とは「あるがままの真理」である。「理体」とは「万物の本体」のことである。「衆生」とは「生きているものすべて」である。「一切の存在は、一心の理体から顕現する」という仏教上の縁起説がある。(用語の意味は春秋社刊水野弘元著『仏教要語の基礎知識』及び『広辞苑』による。)

「西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」(浄土真宗本願寺派龍泉山 吉祥寺がインターネット上に公表している『仏説阿弥陀経』の現代語訳を引用)。その西方・東方・北方・南方・上方・下方にはそれぞれ数えきれないほどの沢山の仏様がおられる。その仏様たちはそれぞれの国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆いて誠実の言を説き、不可思議の功徳を称讃している一切の諸仏に護念されている経を信じなさい、と言って聞かせておられる。

阿弥陀如来の本願に応えて仏様の教えを信じることは阿弥陀如来に自分を委ねるという、「give」である。この「give」により、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類序(教行信証・総序)』で述べておられる「阿弥陀仏の本願は渡ることのできない迷いの海を渡して下さる大きな船」に乗ることができるという「take を得る。

これは一神教における神との契約とは別次元の、阿弥陀仏と我々衆生の間の「Give and take」関係である。これは現世ご利益・来世ご利益を得るという「take」だけを求める儀式仏教とは全く違うものである。


初めに戻るが、日本は、「take」だけを求める国との付き合い方を考え直した方が良い。

2017年1月17日火曜日

20170117『仏説阿弥陀経』について(7)


2年ぶりに合気道の会の新年会に出た。いつもの仲間の一人と仏教について語り合った。私は儀式仏教・現世ご利益祈願の祈祷仏教を批判した。彼は「人々がそれを求めているからこそ日本の仏教は廃れなかった」と私の批判に反論した。私は確かにそういう部分はあると思う。初詣・七五三の行事・家内安全祈願・葬式・法事・神社の祭りなどこれまで日本人が古来続けて来た伝統的な行事は今後も続けられることだろう。従い仏教に対する親近感は失われず、日本の仏教は決して廃れないだろう。

しかし田舎であっても昔のようにお寺のお堂に集い、お坊さん(僧侶)のお話(講話)を聞く集いは無くなっている。特に田舎では昔は娯楽が少なかったし、農閑期があったので、僧侶の講話を聞くためお寺に行くことは人々の楽しみの一つであった。その機会に僧侶がお釈迦様(釈尊(Śākyamuni)の教えを広めることができた。しかし今はそう言う事は行われない。仏教が本来の目的から離れ、「儀式仏教・現世ご利益祈願の祈祷仏教になってしまっている」と言うのは極端であるが、昔と違う状況にあることは確かである。

特に都会では、葬儀は葬儀専用の施設内で、葬儀専門の業者のプログラムに従い機械的に進行する。そのプログラムには僧侶が仏教の講話を行う時間は組み込まれていない。葬儀の業者は短時間で利益を上げることに注力している。昔はそのような施設も無かったし葬儀業者も居なかった。特に田舎では葬儀は死んだ人が出た家で行われ、近所の人たちがお互いに助け合って葬儀を行っていた。法事でも同様であり、人々が僧侶の講話を聞く機会は度々あった。私が10歳のとき、私の母の葬儀はそういう状況で行われた。

人々が僧侶の講話を聞く機会は極端に少なくなったが、仏教に関する本は沢山出版されている。時々テレビや新聞等で高僧の法話が紹介されている。昔と状況が異なっていても、仏教は人々の間に根付いている。浄土真宗の僧侶になるため修業中の人は親鸞聖人が著した書物を読んでいろいろ善い知識を得ている筈である。しかし一般の人でもインターネットを通じて親鸞聖人の著作を読むことができる。しかしその人数は極少ないであろう。

インターネット上では真宗東本願寺が積極的に講話を行っているようである。東本願寺では親鸞聖人が教えておられる「往還回向」について『往相の回向と還相の回向』と題する講話を行っている。それによれば(以下“”で引用);

“私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土えどから浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです”とある。これは非常にわかり易い。

親鸞聖人の作『正信偈』には「天親菩薩論註解(TENJIN BOSATSU RON CHU GE)、報土因果顕誓願(HO DO INGA KEN SEI GAN)、往還回向由他力(O GEN EKO YU TARIKI)、正定之因唯信心(SHO JO SHI IN YUI SHINJIN)」という七言絶句がある。この意味は「天親(てんじん)の論(ろん)を釈(しゃく)しては 浄土(じょうど)にうまるる因(いん)も果(か)も 往(ゆ)くも還(かえ)るも他力(たりき)ぞと ただ信心(しんじん)をすすめたり」(『真宗 在家勤行集』より)である。

「他力」とは「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本願」であり、「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本願」とは「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本当の願い」のことである。親鸞聖人はこの「他力」によって「往還の回向」が為されると説いておられる。

親鸞聖人の著作『浄土文類聚鈔』の12に「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲ればすなはち大乗正定の聚に住す。(現代語訳:煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れたものが、 仏より回向された信と行を得ると、 ただちに大乗の正定聚の位に定まるのである。 )」とある。「正定聚」とは「阿弥陀仏の救いを信じて歓喜し、疑わない心によって現身に得られる如来に等しい位」のことである。

また『浄土文類聚鈔』の14に「還相回向といふは、すなはち利他教化地の益なり。(現代語訳:還相の回向というのは、 思いのままに人々を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、 他力によって恵まれることである。)」とある。

本願寺派・大谷派など真宗の古い教団が発想を大転換して、インターネットを積極的に利用して親鸞聖人の教えを広めるように活動しないとわが国における精神文化の芯が細くなってしまうことだろう。そればかりではなく精神的に不安定な人々の現世利益・来世利益を願う心理に付け込むカルト的な教団がはびこり日本の社会に緊張を走らせるようなことが起きる可能性がある。


私は親鸞聖人の教えを学びつつ、浄土真宗‘自分’派として特に本願寺派・大谷派の活動状況を調べて行こうと思う。

2017年1月14日土曜日

20170114『仏説阿弥陀経』について(6)


今日の朝日新聞3面に「僧の質を高めよ 世間知る研修」と題する記事が出ている。見出しだけを見ると研修の目的は「セクハラ・不祥事防止」だけが主眼かと思わされる。見出しの下のコラムに弓山達也東工大教授(宗教学)の話が出ている。彼は「無縁社会や孤独死が顕著になり、東日本大震災では慰霊や追悼の重要性が再認識された」として「これまでは葬儀や戒名などの宗教的儀式をやっていればよかったが、なぜ必要か問われる時代になった。過疎化や高齢化で信者は減り、宗教者に求められるのは伝統を守ることだけではない」と言っている。

手にぶら下げた振子が振れの中心に徐々に収まってゆくように、ある何かの状況により起きた矛盾は時間の経過とともに徐々に解消されてゆく。しかしその振子をぶら下げる手が不動の姿勢を保っていないと、振子の大振れは何度も起きることだろう。「不動の姿勢」は軍隊の教育における用語であるが、日常生活においても大事な徳目を表す言葉である。

これを国家として考察すると、日本の場合江戸時代が終わり幕藩体制から明治の新政府のもと新体制に変わったときその振子の大振れがあった。次に日本がアメリカとの戦争に敗れ大日本帝国が崩壊し、戦勝国アメリカからアメリカ流の体制を押し付けられたとき、再び大振れがあった。それでも日本には万世一系の男系皇統の天皇がいて、仏教や神道を中心とする文化が根付いていたから、これまでは日本は国家の体制が崩れることなく安定してきた。しかしその仏教がアメリカナイズされた世相に影響され、仏教関係者・団体の怠慢もあって本来の目的を見失ってきている。儀式第一の仏教が横行していることは否めない。

NHKEテレで『こころの時代』という番組がある。今日は原爆孤児を救った故谷本清牧師の長女・近藤紘子さんが出演していた。谷本清牧師は関西学院大学神学部を卒業後、1940年にアメリカのエモリー大学大学院を修了されたお方である。私は日本ではキリスト教徒の方が仏教徒より人々の心の問題を救うため積極的に活動しているように思う。

仏教は輪廻転生を教えている。その番組を見て私は谷本清が新渡戸稲造の生まれ代わりではないだろうかと思った。新渡戸稲造が書いた本『武士道』(奈良本辰也訳・解説、知的生き方文庫)に「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。・・・(中略)・・・仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。・・・(中略)・・・道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった」と書かれている。

善因善果・悪因悪果。地獄極楽も「この世」にある。しかし輪廻転生によって「この世」の行いの結果は「あの世」おける結果として必ず起きる。仏教はそのように教えている。このことは科学の知見として理解できる部分が少しはある。ただし「あの世」のことは誰も分らない。これだけは自分の身近なところで起きていることについて、自分自身で“これは多分(過去に生きていた)誰かの「あの世」を生きている状態に違いない”と思い込むしかない。しかし善因善果・悪因悪果は「この世」でしばしば起きていることであるので、誰でも分ることである。性根が悪く素直でない者はこの事実を素直に受け容れようとはしない。

『教行信証』で親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。(つつしんで、浄土真宗の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである)」と仰っている。 *衆生は一切の生類、生きとし生ける物全てを指している。

「往相」「還相」について私は今の私の勉強の結果では次のように理解している。即ち、「往相」とは、私たちが阿弥陀如来(Amitāyus Buddha)を心から信じて「南無阿弥陀仏(Namo Amitāyus Buddha)」と念仏を唱え、釈尊(Śākyamuni)シャーキャ族の聖者の教えを良く学び、行いを正しくして常に他者を愛し、他者の利益の為に働けば、自分の死後必ず浄土に生まれ替わることを言うのであり、「還相」とは煩悩に生きている「この世」にあって阿弥陀如来を心から信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、常に他者を愛し、他者の利益の為に働くことによって人々の心を救うことである。「阿弥陀如来は私たちに対して常に救いの手を差し延べて下さっている」と心から思っていることが何よりも重要である。この点、阿弥陀如来への信仰はイエスキリストへの信仰に似たところがある。

今の日本では仏教の寺院も僧侶も収入を得るため仏教の儀式に精を出しているような状況ではないだろうか?これでは日本人の美しい精神性も次第に失われてしまうことだろう。新渡戸稲造が「この世」に生きて居れば、彼は日本の現状を嘆くことだろう。日本の仏教界が「儀式第一」「現世ご利益願望を満たしてお布施を得ようとする仏教」の現状を改めることに真剣にならないと、日本人の精神文化は衰退してしまうことだろう。


仏教界の指導者たちが権威にあぐらをかいて、僧侶たちに「世間を知って貰うための研修を行う」という上から目線の考え方をしているだけでは駄目である。寺院も僧侶も霞を食っていては存続できないが、出版による収益や儀式によるお布施を得ることに注力しているようであれば日本の仏教は衰退する。仏教系の大学等は一般の家庭教育・児童施設における幼児教育・学校教育などを通じて、仏教の振興のため何らかの浄財が集まるようなシステムを考え出すように発想を大転換し、自らの意識を改革するべきではないだろうか?

2017年1月12日木曜日

20170112『仏説阿弥陀経』について(5)


 私の母(継母)は一昨年秋他界した。都会の葬式ではその葬式の同じ日に初七日の法要を行い、四十九日までの七日ごとの法要はせず、四十九日の法要すらもしない家がある。私は周囲の反対を押し切って七日ごとの法要も行い、四十九日の法要は盛大に行った。私の郷里の田舎では少なくとも四十九日・初盆・一周忌・三回忌の法要は盛大に行う。

「盛大」と言う意味は、その法要に親族等を招待し、法要の儀式とは別に「お斎」と言って食事を出し、法要にお参り頂いたお礼の品を差し上げることである。そのため招待された人は施主が負担するそういう出費に見合う程度の金額を香典として包み、仏壇にお参りするときその仏壇の前に供える。仏壇にお参りするときお線香代のつもりで100円玉一個、施主側とお付き合いが深い関係にある場合は1000円札一枚を仏壇の前の辺りに置く。

 私の郷里の田舎の家は売却されたので、私は仏壇等を都会地のこの質素な集合住宅の私の家の一室に移した。もともと私は少なくとも三回忌・七回忌・十三回忌の法要は田舎の家で行うつもりであった。しかし七回忌まではともかくも十三回忌まで私自身が生きていられるかどうかわからないし、諸状況の中、私は継母が他界するまで持っていたような気持の張りも失せてしまった。そこで三回忌以降の法要はこの私の家の一室で行うことにした。

 私自身浄土真宗の「自分派」として親鸞聖人の教えを独学で学んでいて、毎日読経もして自分なりのやり方で供養もしいている。しかし三回忌以降の法要は親族を呼び、然るべき僧侶(ご院家さん)にお越し頂いて経を上げて貰って、何処かで会食をしようと思っている。そのような行事を通じて親鸞聖人の教えが伝わり、さらにその先に伝わることを私は期待している。いくら私が浄土真宗の「自分派」であるからと言って、ご院家さんによる法要の儀式と真宗の布教活動に全く何も関わらないということは決して正しいことではない、と私は思っている。

その継母の実の娘である私の妻は、私の考え方に理解を示してくれている。私の継母は私の父が他界後長年独り暮らしをし、80歳を過ぎて病気になった。私は私の妻と二重写しにして継母を見ていて、私は継母を可哀想に思っていた。私が田舎でその継母の周辺の人たちから実の息子のように思われていたが、継母もそういう風に私を思ってくれていた。

さて、真宗には浄土三部経と言って『仏説無量寿経』と『仏説阿弥陀経』と『仏説観無量寿経』の三つがある。後世に浄土真宗の宗祖とされた親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』という)を著した。これらの経典や『教行信証』に関する知識はインターネットで得ることができる。我々は学ぶ気持ちさえあれば、親鸞聖人が苦労に苦労を重ねた末にやっと学び得たことを、いとも簡単に学ぶことが出来る時代に生きている。これは真に有難いことである。

『仏説無量寿経』は魏の康僧鎧が翻訳したものであり、『仏説阿弥陀経』は姚秦の鳩摩羅什が翻訳したものである。因みに「魏」は西暦220年から265年まで存続していた国であり、「姚秦」は384年から417年まで存続していた国で、牧民羌族が興した国である。この二つの経典に書かれていることは『教行信証』をよく学ぶことによって理解できそうである。

私はAmazonを通じて『教行信証』の現代語訳版を入手した。この本は本願寺出版社が出したものである。文語体の『教行信証』はインターネットに出ていたものを拝借している。このブログのラベル「阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)」の投稿おいてはこの二つの資料を引用して記述する。

『教行信証』の書き出しは「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」である。この現代語訳は「わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)は、渡(わた)ることのできない迷(まよ)いの海(うみ)を渡(わた)して下さる大(おお)きな船(ふね)であり、何(なに)ものにもさまたげられないその光明(こうみょう)は、煩悩(ぼんのう)の闇(やみ)を破(やぶ)ってくださる智慧(ちえ)の輝(かがや)きである」である。

『教行信証』の現代語訳版には用語の解説が示されている。ラベル「阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)」の投稿おいて、今後同様に引用するが、上記文中の用語の解説の要旨は以下の*印のとおりである。・印の部分はインターネットなど他のソースから入手したものである。
*本願・・・仏(ほとけ)が因位の菩薩の時に起こした誓願をいう。また衆生救済のためのまさしく根本となる願のことである。阿弥陀仏の四十八願中とくに第十八願を本願とする。
*煩悩・・・心身を煩わせ、悩ませる精神作用の総称。衆生はこの煩悩によって業を起こし、苦悩を受けて迷界に流転する。
・因位・・・仏道の修行中で、まだ悟りを開くに至らない位。菩薩 (ぼさつ) の地位。
・四十八願・・・法蔵菩薩 が仏に成るための修行に先立って立てた48の願の こと。
・第十八願・・・私たちの往生の直接の原因となっている至心(ししん 信楽(しんぎょう)の願」といわれる願。
・往生・・・仏の浄土に生まれること。
・菩薩・・・ボーディ・サットヴァ(bodhisattva) の音写。仏教において一般的に成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者のこと。
・法蔵菩薩・・・阿弥陀如来の 因位の時の名(修行時の名)。

・如来・・・大乗仏教における諸仏の尊称。