2010年1月4日月曜日

小説『18のときの恋』(20100104)


  写っている女性は信夫が10歳の時に他界した信夫の母親に良く似ていた。信夫の母親は終戦の翌年、昭和21年の暮れ、乳がんで逝った。信夫の父親は乳がんを患った自分の女房をよく看てやることもできず死なせてしまったことを終生悔やみ続けていた。信夫の父親は大野郡の田舎で間借り生活するという極貧の暮らしを陰に日向に支えてくれた信夫の今の母と再婚したが、後妻に内緒で死んだ前妻の墓石の欠片を秘かに所持していた。そのことがその父親の死後明らかになった。母は「隠さなくっても良かったのに。」と嘆いていた。

  信夫は父親が「お前はこのひと(女性)と一緒になれ。」と半ば命じるように言った。信夫自身かつて「結婚しよう」とまでいった同級の女性がいたことを父親には話していなかった。それに千賀子との付き合いはお互い手も握ったこともなく、今でいう「友達以上、恋人以下」の純愛を貫いていた、というよりは信夫は男女の関係については晩熟であった。

  信夫の父親はそういう息子に自分の死んだ女房、信夫の生母に良く似た女性を信夫に勧めたのである。信夫の生母は幕末の熊本藩士で船舶・港湾の行政を担うお船奉行の孫娘であった。豊臣秀吉の政策で今の大分県である豊後国は幾つかの藩に分割され、参勤交代の時の出入りの港があった鶴崎地方は熊本藩の所轄であった。信夫の父親が大野郡で教師をしていた頃、視学(今の県教育長)が信夫の父親を見込んでその熊本藩士の孫娘を妻合わせたのである。当時信夫の母親は父母とも死別し幼い妹を養いながら国東で教師をしていた。 

  信夫の父親が「お前はこの女性と一緒になれ。」と言った女性は信夫の父親の親友で教師をしていた人の娘であった。その親友は信夫の父親に「お前の息子なら俺の娘の千代を嫁にやってもよいぞ。千代は医者の免許も取ったので何かの役に立つだろう。」と言ったという。

  人物の判断は表面的なものだけで判断するよりも、表には見えないものを直感で判断する方が万事うまくゆくことがある。その直感の奥底にあるものは人智を超えた、ある意味では過去世、今生、来世を通じた永遠的な絶対的なものに委ねられているものである。そのような直感は生まれつき持っていた素質と生後親や周囲の人たちによる教育と本人の真摯な努力により身につくものである。千代の父親は信夫の父親から信夫のことをよく聞かされていたが、ある日信夫に初めて会って二言三言言葉を交わしただけで信夫の人物を見抜き、自分の親友がその父親にしてその子あり、と納得したのである。

  信夫の父親と同じ明治生まれのその人は「この男に自分の娘を合わすことは天命である。娘がこの男に尽くし、男子を産み、良く育てて世に送り出すことが娘の人生の役目である。」と直感したのである。歴史上そのような判断をした例は幾つかある。‘お役目’という言葉は、ただ単に現実世界の組織の中での職務を指す言葉ではなく、判りやすく言えば ‘特定の目上の人に仕え、そのお方が為すべき事業が成就するようにと常に心を配り、気働きをし、真心をもってお仕えする立場’であるということである。今時そのような古風な考え方をする女性は殆どいない。否皆無と言ってもよい。しかし千代はそれが自然にできる女性であった。

  信夫は余り迷うことなく「判りました」と返事した。見合い結婚話はトントン拍子に進み、信夫が25歳のとき、4つ年下の今の女房との結婚式を挙げた。千賀子は風の便りに音信のない信夫が結婚したことを知り、大変ショックを受けた。(続く)

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