2009年12月31日木曜日

小説『18のときの恋』(20091231)


 藤倉信夫は農業を営む藤倉家の跡取りであるが家督は弟に譲り、自分自身は建築設計家として東京三鷹市に事務所を構え、そこに住みついている。家督を実弟に譲ったのは親子2代で、信夫の父親も家督を末弟に譲っている。設計・監理の仕事が忙しく帰郷することは年に一度あるかないかぐらいである。しかし、このところ今年92歳になる母が入院騒ぎを起こしたりしたため、仕事の合間をみてできるだけ帰郷することにしている。弟に家督を譲ったときの条件で、信夫が帰郷したときの居場所として、2階の部屋を信夫専用の部屋とするようにしているので、信夫は帰郷したときでも気持ちよく過ごすことができる。

 信夫には郷里が同じ大分県日田郡山鹿地区で小学校時代・中学校時代同級の、いうなれば竹馬の友である佐藤芳郎・通称芳郎君と坂田泰治・通称泰さん(やっさん)がいる。もう一人樺山英雄がいた。樺山は善福寺というお寺の住職の息子であったが高校生の時肺結核で他界してしまった。信夫と芳郎と英雄が学んだ小学校には三人の父親同士も同じ小学校で学んだ。卒業生名簿の同じ年には三人の父親の名前が載っている。

 芳郎のことを‘君’づけして呼ぶのは芳郎の家柄に由来する。芳郎の家の紋は下がり藤で藤原の血を引いており地域で知られていた名家であった。戦前までは江戸時代から続く旧家で、江戸時代には名主をしていた家柄であり、戦前までは田畑を人に貸してその年貢で暮らす資産家であった。しかし戦後のマッカーサーによる改革で多くの土地を失った。芳郎のことを皆は小さい時から呼び捨てにせず‘君’付けして呼んでいたから、その習慣がその後もずっと続いているのである。

 芳郎君と辰ちゃんは信夫のことを藤君(とうくん)と呼んでいる。何故そう呼ばれているかと言うと、理由の一つは芳郎と信夫の父親同士が同じ年の親友同士であり、お互い相手のことを‘君’づけして呼んでいたのがそれぞれの長男にも及んだのだと考えられる。信夫の先祖は平安末期京都から下って来て山鹿の地区に土着したらしい。遠祖は藤原氏族で長和年間奥州黒河に居住し会津に知行を得たことが信夫の父親が遺してくれた系図に書かれている。多分信夫の遠祖は摂関家の荘園を管理する役目を負っていたのであろう。その嫡子は父親の働きぶりが良かったせいか民部大輔の地位まで昇り詰めている。

 面白いのは信夫の父親が藤君と呼ばれ、その長男である信夫も同じ藤君と呼ばれていることである。しかし芳郎の父親は信夫の父親から‘佐藤君’と呼ばれていたということである。芳郎の父親は戦後まもなく肺結核で他界している。

 信夫らは小学校2年のとき終戦を迎えたのであるが、そのころの担任の先生は荒っぽかった。ある日信夫たち男子生徒は未だにその理由は判らないのであるが教室の中で一列に並ばされ、平川という男の先生からスリッパでパチッパチッパチッとびんたを喰らったことがあった。その先生は軍隊上がりで戦後教職に復職したらしい。まだ9歳の男の子たちをまるで新兵のように考え、罰を喰らわせたのだと思う。別の先生は悪さをした級友に水を満たしたブリキのバケツを両手に持たせて廊下に立たせていたことがあった。今時の教師は口だけ達者な母親の剣幕を恐れ、体罰はしない、皆平等の扱いしかしていないが、終戦後何年もしない頃、保護者にとって先生はエライ人であったのだ。

 昭和25年に入った中学校では期末試験の成績の一覧表が廊下に貼ってあり、信夫はどの科目でも大概1位か2位であった。(続く)

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