2010年1月1日金曜日

小説『18のときの恋』(20100101)


  坂田も大概2位か3位で時には信夫を抜き1位になることも何度かあった。信夫と坂田は小学校時代から仲が良く、喧嘩もし、ライバル関係にあった。だから70を過ぎた今でもお互い相手の名前を呼び捨てにしているのである。坂田は3男坊であるから、芳郎と信夫のように父親同士は同じ年ではない。坂田の父親は信夫や芳郎の父親より年長であった。

  信夫は坂田のことを‘坂田’と呼ぶのであるが、他の級友たちは坂田のことを敬意をこめて‘泰さん(やっさん)’と呼んでいる。そう呼んでいるのは、彼が中学時代野球選手として活躍し、チームのリーダー的存在であったからでもある。野球仲間で後輩が‘やっさん’と呼ぶようになり、それが皆に広まったのである。しかし信夫だけは坂田と呼んでいる。辰ちゃんや芳郎君と話すときは「‘坂田’に聞いた」などと言い、坂田と話すときは‘坂田’と呼び捨てにしている。坂田も同様に信夫のことを‘藤倉’ と呼び捨てにしている。

  信夫、芳郎、泰治らが中学校に上がったとき町村合併があり、二隈地区が山鹿地区と同じ行政区になった。そのとき旧二隈地区にあった西中から梶山辰夫や中村志乃や江藤千賀子らが移ってきた。先生たちが故意にそうしたのかどうか知らないが、中学合併後も信夫と芳郎と泰治は同じクラスであり、担任の先生は美人で独身で音楽を担当する阿部桃子先生であった。そのクラスに西中からきた千賀子もいた。

  千賀子は色白ではないが目鼻立ちのはっきりしたちょっとおませで利発な女の子であった。あるとき先生が「皆さん、新聞を読んでいますか?」と皆を見まわしながら質問したことがあった。そのころ信夫は先生が何故そのような質問を中学生にしたのか未だに判らない。がしかし信夫が印象に残っているのは、その時千賀子が「はいっ!」と手を挙げて「大分合同新聞を読んでいます」と答え、先生が続けて「何処を読みますか?」と問うたとき「社説です」と答えていたことである。信夫は社説などに目を通したこともなかったので、そのとき「へえっ?」と思ったものである。先生はまじまじと千賀子を見つめながら感心していた。信夫もクラスの皆も千賀子に注目していた。

  坂田も信夫同様東京近郊に住んでおり、郷里にはたまにしか帰らない。坂田は当時山鹿地区で手広く林業を営む旧家の3男坊であった。高校卒業後東京の野田塾政経大学を出て船舶機械輸出を業とする商社日東に入社し、大学時代の後輩と結婚し、海外生活も送っていたが40歳のとき自分で輸出入経営コンサルタント会社を興し、千葉の船橋に豪奢な邸宅を構え、すっかり千葉の住人になっている。奥さんは宮崎県の延岡の出身である。

  辰ちゃんは高校卒業後大阪電機大学を出て東京に本社がある東京電業という大手の電気部品メーカーに勤め、名古屋支店の支店長で定年を迎えた。管理職になって札幌や福岡など転勤が多かった。入社後間もなく建てた田無の住宅を人に貸したままの状態が続き、その家に落ち着いて住む期間は殆ど無い状態であった。そこで辰ちゃんは定年後は郷里で落ち着いた暮らしがしたいという思いが非常に強かった。奥さんを説得して田無の住宅を処分し、大分県山浦郡八田の丘陵地に家を新築した。其処は辰ちゃんの小学校・中学時代の級友、つまり辰ちゃんの竹馬の友・梶原信行がその丘陵地の南面傾斜地で豊後牛の大規模な牧場を経営している土地である。辰ちゃんは企業年金も沢山貰っているので働かなくても食べて行けるのであるが、生産を全くしない暮らしが嫌で自然環境の中で家庭菜園程度の農業と牧場の手伝いで余生を送ることにしたのである。(続く)

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