2010年1月3日日曜日

小説『18のときの恋』(20100103)


    70を超えた信夫は自分自身の実践はともかくとして、政治の動きや社会の動向について相手のことにおかまおいなしに友人たちとあれこれ議論するのが好きである。友人たちの中で女性たちは信夫がしゃべりだすと「またか」とあからさまにうんざりする顔をする。

  高校を卒業直前のある日信夫は千賀子と『荒城の月』で有名な豊後竹田城を日帰りで訪れたことがあった。周囲のうるさい目を逃れて親にも誰にも内緒で、初めて遠出のデートをした。そのときのムードに惑わされたのか、信夫は千賀子に「将来時期が来たら」という言葉を省略して、いきなり「結婚しよう」と言ってしまった。千賀子は信夫の急な話に驚いた。年を重ねて人生経験を積んだ今から考えると、千賀子は信夫からの愛の告白を本当は嬉しく思っていたはずである。しかし「まだ18ですよ!」と信夫は千賀子にたしなめられてしまった。信夫と千賀子の交際は豊後竹田への日帰り小旅行を最後に途絶えた。


  信夫と千賀子の交際が途切れた大きな理由がある。信夫は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊し厳しい新隊員教育を受けた。そして護衛艦の砲雷科に配置となり艦が居住する場所となった。艦とともに日本国内だけではなく幹部(士官)候補生たちを乗せた遠洋航海や砲術訓練などで海外にも出るなどして各地を訪れた。艦隊勤務が毎日楽しくて仕方かった。初めの頃は海上自衛隊で海曹(下士官)になり所帯を持てるだけの自信がついたら千賀子に改めて結婚を申し込もうと思っていた。しかしそんなことは忘れてしまっていた。自分には千賀子以外の自分にふさわしい伴侶が必ず現れるはずだと確信するようになっていた。今思えば信夫は千賀子に恋焦がれるほどに千賀子を愛してはいなかったのである。

  信夫は後で知ったことであるが、かつて信夫が高校生のころ千賀子との交際の噂が広まって、千賀子の母親が信夫の家を訪れ、応対に出た信夫の叔父の嫁に「うちの子と交際させないで欲しい」と申し入れられていたことがあった。信夫の母親は信夫が10歳のとき乳がんで他界してしまっていたので、信夫の母親代わりを祖母や同居している信夫の叔父の嫁が務めてくれていた。その嫁は「若い日の時の思い出として胸にしまっておきなさい。そして千賀子さんとは手を切った方が貴方の幸せになる。」と信夫を諭した。

  当時信夫の父親はかつて朝鮮で羽ぶりのよい校長職までしていたが、戦後米1升が教員の月給とほぼ同額であった時代であったので生きて行くために長く教職を離れ、保険の外交員などしていた。しかし教職への夢は忘れられず師範学校時代の級友の助力を得て、42歳にもなって初めは助教という資格で教師として再出発し、その後正教員に復帰することができて、大野郡の田舎の小学校の校長として頑張っていた。しかし安月給のため信夫を養育してくえている信夫の祖父母に信夫や信夫の弟妹たちのための仕送りはできずにいた。ともかく信夫は祖父母や叔父夫婦の援助で高校を無事卒業することができた。

  信夫がある日父親に「大学には将来働きながら進学する。先ずは独りで生きてゆける自衛隊に入る」と言ったら、父親は信夫に「済まぬ」と一言言って「自衛隊でまじめに精一杯頑張るんだぞ」と言った。信夫は陸海空どこに入るか考えた末、視野を広めるため海上自衛隊の入隊試験を受けた。無事合格し、海上自衛隊での人生が始まった。新隊員教育を受けたのち護衛艦きたかぜの砲雷科に配属され信夫の艦隊勤務が始まった。信夫は勤務成績が極めて優秀で昇任試験に合格してトントン拍子に昇進し、最短期間で下士官に昇進した。信夫が24歳になったある日父親から見合い写真が送られてきた。(続く)