2016年7月28日木曜日

20160728知的障害者福祉施設で19人を刺殺したその施設の元職員


 一昨日(26日)の深夜、神奈川県相模原市緑区の知的障害者福祉施設で同施設の26歳の元職員が刃物を使って熟睡中の知的障害者を次々刺し、19人を殺し、26人に重軽傷を負わた後、警察に出頭し、逮捕された。

 この元職員は精神障害による不穏な言動があり、相模原市によって精神病院に入院させられていた。しかし、入院後その元職員の精神状態が改善されたとして退院していた。退院したその元職員に対しては、警察及びその施設により警戒・監視の措置がとられていた。

 それにもかかわらず凄惨な事件が起きてしまった。その元職員は日ごろ「障害者は生きていても仕方がない」と口走っていた。彼は勤め先のその施設でもそのような差別発言をして、 自ら退職を申し出て、退職していた。

 このような事件が二度と起きないように緊急に対策が講じられつつある。私はこの事件について、二つの側面を考えるべきだと思っている。一つは、いわゆる危険な「キチガイ」に対する社会全体の目による監視体制と、その「キチガイ」に僅かでも危険な兆候があった場合の法的拘束措置を強化することである。もう一つは「共生」という用語の定義を「お互いに相手に何かを与え合う」という意味にして、それを社会全体で共有することである。

 前者について、「キチガイ」にはテロリストやその予備軍も含めなければならない。この場合、社会全体の利益のため、当該者の人権は制限されるべきである。「性格は生まれつき変わることはないが、行動は教育により変わる。しかし、行動は環境と刺激によって変わる」という認識が社会全体で共有されるべきである。「キチガイ」の行動が良くなったとしても、いつそれが悪くなるか分からないのである。

 後者について、どのような障害者であっても、それぞれ何かについて社会に役立つ部分があるということを社会全体で理解し、共有する仕組みを作る必要がある。健常者が障害者に対して「障害者と共に生きる」と言うのは間違っている。それは健常者が意識していなくても、障害者に対して上からの目線で言っていることである。

 「人権の尊重」・「個人情報の保護」という言葉だけがさも重要であるかのように主張されることは間違っている。社会全体の利益のため、個人の権利はどういう場合にどこまで制限されるべきか、ということについて社会全体で議論し、認識を新たにして、それを社会全体で共有するようになれば、社会はより安全で強固なものになるのではないだろうか。