2016年6月16日木曜日

20160617「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(最終章)


 国の為、社会の為、わが身を捧げて活動しようと志す者は、自分が幼少の頃より徳の高い環境の中で成長してきたか、特に父親または母親からどのような影響を受けて育ったのか、自ら省みることが重要である。人々が自分たちの指導者を選ぶとき、その候補者にどういう背景があるのか良く知る必要がある。

 「武士道」は、政治家・官僚・軍人(自衛官)の他、警察官・海上保安官・消防官等国家や社会の中で治安維持・安全・監視・監督などの役割を担う「官」のつく職業の人や、そういう職業につく人の教育指導に当たる人が心得るべき道である。これらの人たちの中には、立派な心がけの方たちが沢山いるが、そういう心がけが乏しい方もいる。

 上述のことが多くの日本人の間で何か暗黙の了解となっているならば、それはわが国の文化の一側面として非常に素晴らしいことであるが、そういうことは全く無い。かつて在った「教育勅語」のような、当時それを暗唱することが求められていたほど日本人の心に浸透していた規範的なものも全く無い。かろうじて皇室や国旗や国歌が、「自分は日本人である」ということを気付かせる機能を果たしているに過ぎないが、日教組に所属する教師たちの中には、それさえも否定する行動を示す人たちがいる。

 新渡戸稲造『武士道』奈良本辰也訳・解説(三笠書房刊)には、“仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした”と書かれている。大災害が起きたとき、多くの日本人は自然にそのような行動をとっている。

 青木照夫著『葉隠れの知恵』(三笠書房刊)“武士道といふは、死ぬ事と見附けたり”と「捨て身の章」冒頭に書かれている。政治家の中には、そのような心がけが無い人も見かける。

 仏教は「生まれかわり」を肯定している。『人間(ひと)は死んでもまた生き続ける』(本願寺法主 親鸞聖人直系の25世 大谷暢順著、幻冬舎刊)には“私はフランスで何度も「仏教はいいですね、輪廻転生という思想があるから」とうらやましがられました。キリスト教の場合は、人生は一度きりで、死者は最後の審判の日に復活して神の裁きを受け、神の国に迎え入れられるか、地獄に落ちるかのどちらかとされています。イスラム教もほぼ同じで、ユダヤ教の殆どの宗派は、死者は土にかえると考えられているそうです”と書かれている。

 自衛官の服務の宣誓は、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」という言葉で締めくくられている。先の戦争では、兵士たちは来世に生きることを信じ、靖国神社で会うことを信じて死んでいった。

 さて今度参議院議員の半数が改選される。野党は共産党も一緒になって連帯を組み、与党に過半数の議席を与えないように行動している。

 そのスローガンの一つに「安全保障関連法の廃止」が掲げられている。その理由は、同法では、「日本は戦争に巻き込まれる」というものである。彼らには武士の魂は無いように見受けられる。彼らは「国の為、社会の為」というよりも、自分たちだけの為に行動しているように見える。

 共産党の中枢の幹部は、我が国で科学的社会主義を実行したいと考えているに違いない。科学的社会主義の思想と仏教の精神や武士道の精神に基づく思想とは、全く相反するものである。科学的社会主義では皇室も神社や仏閣や、「南無阿弥陀仏」と書かれた紙や、阿弥陀如来が描かれた紙や、仏像なども否定される。科学的社会主義の実現の過程で大衆蜂起や武力による暴力的な革命も起きる可能性はある。

 マスメディアは公正中立の立場で、テレビの視聴者や新聞の購読者に対して正しい情報を提供するような姿勢であるべきである。

近年SNSが発達しているので、一般大衆も各政党やマスメディアの動きについて情報を共有するような行動を起こすことが期待される。国の為、社会のための行動は、一部の人・組織・団体等に任せきりではなく、全国民個々もそれぞれの手段・方法で連帯して行うようになることだろう。そうなれば、それはマスメディアに対抗する組織的なものとなるだろう。


      (終わり)