2011年5月5日木曜日

さて何から始めるか(20110505)

 男はこれまでの自分の人生を振り返った。自分では気づかないが男は時々刻々時の流れとともに、全ての生物がそうであるように、老化し、枯れて、やがて土に還ってゆく運命にある。

 そのように自然に枯れて死んでゆくのなら良いが、全ての生物は天変地異・大災害・事故・殺戮などにより、その生物学的寿命を全うする前にその生命を失ってしまう。

 それも大自然の現象である。人間は知能が発達しているので動物にはない想像をすることができる。事故や災害や殺戮などで早死した人の心情や、その家族・友人などの心情を想像することができる。

 男が『日々是支度』と題して、2年前から毎日欠かさず記事を書き、一般公開してきたのは、自分自身のことを顧みるだけではなく、自分が死んだあと男が生きてきた証を特に自分の子孫に遺しておきたいと思うからである。

 女房はそのことにあまり意義を感じていない。それは男と女の脳の構造の違いに原因がある。あらゆる生物のオスは、自分の子孫を本能的に遺そうと行動する。一方、メスはオスによって遺された子を育て上げることに関心があるようである。オスによって自分の体の中に子が宿ればもやはオスのことには関心がなく、本能的にその宿った子のことに関心を向ける。そしてオスが居ても居なくても子育てに熱中する。オスが居る場合はその方が子育てに好都合な場合に限られるようである。

 男は一般に自分の家系のことに深い関心があるようである。しかし女は自分のルーツや子孫のことにあまり関心がないようである。これもオスとメスの違いである。

 女房は男の家に良く尽くしてきてくれた。そのことは女房の親友が女房に言ったという「あなたは、○○家によく尽くしてきたわ」という言葉で言いつくされる。男は女房にそう言われるまでもなく、女房はわが家に非常に貢献してくれたと感謝している。

 このブログの新たな記事の形をどうするか、それは考え続けることにして、とりあえずは、過去の記事の整理から始めようと思う。それに対して新しいタグ付けをしようと思う。

 過去の記事は、主語が「男は」になっている。これは『男の自負』『男の節目』などを書いた諸井 薫を真似たものである。これらの本は日本経済新聞社から出ている。

 勿論、男の力量ではいくら真似たからといても諸井 薫には足元にも及ばない。何事も習い事は「真似る」から始まる。「学ぶ」は「真似る」ことによって学ぶのである。

 明日からは、先ず、男の過去の記事を引き出してそれを推敲しながら、多少なりとも文学的作品になるように試みてみようと思う。

 ブログの記事にするのであるから、一回の記事は適度な長さが良い。そこで、一回分は石行40字、36行、つまり、1440字以内にしようと思う。これは、wordの一ページの標準である。この字数以内に書ききれなかったものは、次回のタイトルを同じものにして末尾に(続き)と書き入れることにする。