2011年5月6日金曜日

さて何から始めるか(続き)(20110506)

 男はこの新たな試みの参考にしようと思い、諸井 薫の『男の節目』を書棚から取り出して読みなおしている。こんな文章が目に止まった。男はそれを読みながら頷いた。特にその終わりの部分に、「そのとおりである!」納得した。

 “回想録というものがある。『私の履歴書』という功成り名遂げた人による追想起のコラムが新聞に載っている。

 もちろん他人に読ませるための人生記録である。これに触発されてか、近頃は「自分史」を書くことが流行っているとか。孫・曾孫に自分という人間がどのように生き、なにをどうやって成し遂げたかを書き遺すのが、どうやらその目的らしい。

 それも結構だとは思うが、私にはやる気になれない。いくら自分の子々孫々に遺すからといって、他人に読まれることを考えたら、人に知られたくない自分の劣等な部分を憚ることなく書くという勇気はまず持てない。現に偉い人の回想録や追想起のほとんどが、具合の悪いところは隠蔽糊塗しているではないか。

 そんな自慢話を、子孫を含めて世間に向けて書き遺すなんて気恥ずかしいことは、とても私にはできそうにない。それを振り返ってみて、これといって自慢するほどのことは何一つ浮かんでこないし、むしろ思い起こすのは、悔恨と慙愧のあれこればかりだ。

 人生たかが六十冊の日記帳というのが、かりにそれを続けていたとして、振り向けば、確かな実感は「ただ生きてきただけ」のことではないのか。

 だが、そもそも文学というものは、自分を抜きには成り立たないものであり、その自分も、人に誇る自分ではなく、ひた隠しに隠したい部分の表出でなければならない。”

 最近、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の夫人のことをドラマ化したテレビ番組「ゲゲゲの女房」が放映されていた。「ゲゲゲの女房」は「ゲゲゲの鬼太郎」の原作者・水木しげる氏の妻・武良布枝さんが、妻の目線から夫婦の半生を振り返った著作を原案としたホームドラマである。テレビドラマ化された本人がそのテレビに出て、そのドラマについて語っている。

 男は武良布枝さんのような文筆の才能はないし、なによりもこれまでの人生の生きざまが彼女のようにドラマチックではない。だからブログの記事をいくら文学的なものにしたいと思っても自ずと限界がある。

しかし上述諸井 ,薫の文章にあるように、「人に誇る自分ではなく、ひた隠しに隠したい部分の表出」に出来るだけ心がけようと思う。それも「男は」という主語によって・・。しかも諸井 薫が言うように「私の日付がない日記」として。

 先ずは、自分の女房を愛している気持ちを書こうと思う。そこで、このひとくくりの愛妻シリーズのタイトルは「冬牡丹」としてみょうと思う。後で変更するかもしれないがこれがラベルとなる。

 諸井 薫は本のタイトルを『男の節目』としたが、男はこのブログの一つのシリーズのタイトルは、一区切り付いてから考えることにしようと思う。