2011年1月6日木曜日

外交と防衛(続き)(20110106)

 日朝条約が成立し、大朝鮮国は開国・開化の道を歩むことになった。後年、清国も同様であったが、大朝鮮国は日本の近代化を学ぶことになった。大朝鮮国から大規模な視察団や多数の留学生が日本に派遣された。清国も多数の留学生を日本に送り込んだ。現在中国や韓国で常用されている学術用語など多くの用語は日本で造られた用語である。

 幕末の日本同様、大朝鮮国内にも国論が分かれ抗争が起きた。大朝鮮国内では従前通りあくまで清国(当時の中国)との宗属関係を守ろうとする復古派、斬新的に開化を進めてゆこうとする穏健派と、新しい文明を積極的に取り入れ、日本に見習って一日も早く近代国家を建設しようとする急進派の三つのグループが争った。急進派は独立党、開化党とも言われた。

 そのような状況下、大朝鮮国で反乱が起き、軍事訓練を担当していた日本の堀本少尉が殺害されたり、日本公使館を襲撃されたりした反乱が起きた。そして事態鎮静のためとして清国に北洋艦隊・兵員4000名が仁川港に到着した。これに対抗して日本からも清国との衝突を覚悟の上で軍艦3隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1500名を仁川港に送り込んだ。

    日本と清国間の交渉結果、朝鮮は日本に損害賠償金を払うこと、日本に謝罪団を送ることなどの条約が締結された。しかし清国は朝鮮の高宗国王の要請に便乗し、4000人の兵隊を漢城に駐留させ、漢城を制圧した。これは今から1350年前の663年に、日本が百済救援に向かった白村江の戦いで当時の唐軍が漢城を制圧していたのと同じ状況である。

    清国の朝鮮に対する宗主権が強化され、朝鮮国内で清国兵士による乱暴狼藉が頻繁に発生した。前掲「独立党」は日本の支援を得てクーデターを起こし、新政権が樹立された。その政権の政策は国王の稟議を経て発表された。しかし新政権は3日間で崩壊した。復古派が清国軍を引き入れたからである。この時清軍により日本の磯崎大尉が殺害された。

    この後、日本と朝鮮の間で「漢城条約」(日本の全権大使・井上薫)、日本と清国の間で「天津条約」(日本の全権大使・伊藤博文)が結ばれた。

 「漢城条約」では朝鮮から日本への謝罪、賠償金の支払いなど、「天津条約」では日清両国軍の漢城からの撤退、両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しないこと、将来朝鮮に重大な変乱が発生した場合、日清両国もしくは一国が出兵する時は、互いにその旨を通告して、事が収まれば直ちに撤兵することの3項目が定められた。

    この第3項目目で日清戦争が起きた。復古派のトップ、李王朝の高宗もその妃で穏健開化派の閔妃も、朝鮮に対する日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第に親ロシア政策を打ち出すようになった。大朝鮮国の王や王妃がロシアに保護を求める秘密協定を結ぼうとする動きがあり、これを察知した清は仁川に北洋艦隊を派遣してそれを阻止した。

    朝鮮とロシアの秘密協定の動きが起こると1885年(明治18年)4月、英国東洋艦隊はロシア極東艦隊の通路を遮断するため突如として朝鮮半島南方沖海上の巨文島を占領した。

    このような動きの中、儒教・仏教・道教を一本化した「東学」を提唱するグループの軍が出現した。朝鮮の政府はこれを鎮圧するのに清国軍を引き入れた。清は日本との条約に従い日本に通告してきたが、その文の中に「属邦保護」という語があった。