2011年1月4日火曜日

外交と防衛(続き)(20110104)


1847年 (弘化四年)ロシア皇帝ニコライ1世はアヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激されて、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方侵出政策を行わせた。

1853年 (嘉永六年)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府は国書を正式に受け取り、翌年回答することを約束し、とりあえず日本を去らせた。

その直後、ロシア使節プーチャーチンも長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。

1854年 (安政元年)日米和親条約締結。この条約はアメリカに一方的に最恵国待遇を与える不平等な条約であった。

ペリーに次いでロシアのプーチャーチンも再び来日し、下田で日露和親条約を締結した。この条約では下田、函館のほか長崎も開港することを定め、国境については千島列島の択捉以南を日本領、得撫(ウルップ)島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地とし、境界を決めないことにした

ついでイギリス、オランダとも同じ内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に休止符を打って開国することになった。

1858年 (安政五年)日米修好通商条約締結。大老井伊直助は孝明天皇の勅許なしに独断でこの条約を結んだ。

1860年 (万延元年)安政の大獄。

この年、第二次アヘン戦争といわれるアロー号事件で清国(当時の中国)はイギリス、フランスに敗北し、北京条約が成立したが、ロシアはその仲介に入り、その北京条約の成立を口実に、その見返りとして露清北京条約を結び、ウスリー江以東の沿海州をロシア領とすることに成功した。そしてウラジオストック港を建設し、極東・太平洋方面への侵出の拠点とした。「ウラジオストック」とは「東方支配」を意味する言葉である。

1861年 (万延ニ年)対馬がロシア艦隊に占領されたが、幕府はイギリスに頼んで半年後ロシア艦隊を退去させた。

1867年 ロシアはアメリカにアラスカを売却した。価格は720万ドルであった。

1871年 (明治四年)日清修好条規締結。これは日本が外国と結んだ最初の対等な条約で、相互に開港し、相互に領事裁判権を認め合っていた。

1873年 (明治六年)ロシアはニコライエフスク鎮守府をウラジオストックに移した。

1875年 (明治八年)樺太・千島交換条約調印。ロシアによる南樺太への進出が始まるにつれて、日露両国人雑居の地であった樺太(現在のサハリン)全島はロシアに譲り、その代償として千島全島を日本領と定めた。

1876年 (明治九年)当時アメリカとの所属問題が未解決のまま残されていた小笠原諸島についても、アメリカ政府はそれが日本領であることを正式に認めた。
 
以上が幕末から明治初期にいたる日本の歴史であり、ロシアが日本海を経て太平洋に侵出しようとする明確な意思を証明する歴史である。また中国が西欧・ロシア列強の餌食となった歴史である。アメリカの現在に至る明確な意思を推察することができる歴史である。