2011年1月3日月曜日

外交と防衛(続き)(20110103)


  ロシア・アメリカを含む列強の日本を巡る年表をここに書き留めておく。これはロシアを中心とした列強の日本及び清(当時の中国)、清の始祖の出身地・満州及び清の柵法体制下の朝鮮に関係する事項である。(記事は前掲『大東亜解放戦争』より引用)

1706年 ピョートル1世(大帝)のとき,ベーリング海峡を発見。アラスカはロシアの領有地となる。

1727年 ピョートル2世は清の雍正帝(ようせいてい)の時、キャフタ条約を結び、アルダン川よりアルタイト山脈に至るモンゴル方面での国境線を取りきめた。

1792年 (寛政五年)ロシア皇帝エカチェリーナの使節ラスクマンが根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光大夫らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は長崎に行けば入港許可証を与えるとの信牌を与えた。

1796年 (寛政八年)イギリス人ブロートンが蝦夷地室蘭に来航し、近海の海図を作成するという事件が起きた。

1798年 (寛政十年)幕府は近藤重三や最上徳内らに千島(得撫(ウルップ)島まで)を探査させた。

1799年 (寛政十一年)東蝦夷地を直轄地とした。

1802年 (享和二年)函館奉行を設けた。

1804年 (文化元年)ロシア使節レザノフがラスクマンが持ち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商を求めた。幕府は拒否した。

1806年 (文化三年)その年から翌年にかけてロシア艦隊が樺太や択捉を攻撃した事件(フヴォストフ事件)が起こり、特に択捉守備兵が敗走したことから日本国内は騒然とした雰囲気になった。

1807年 (文化四年)幕府は松前、蝦夷地をすべて直轄とし、松前奉行を置いた。

1808年 (文化五年)幕府は樺太も直轄にしたが、その周囲すら不詳のため、間宮林蔵らに探査を命じた。間宮は樺太が島であることを確認し、沿海州と樺太の間を間宮海峡と名付けた。間宮は対岸の沿海州に渡り、清国の役所があるデレンまで足を踏み入れた。

1811年 (文化八年国後島に上陸したロシア軍艦艦長ゴローニンを、彼が密かに国後を探査・測量した件で逮捕し、函館、ついで松前に計2年3ヵ月監禁した。

1812年 (文化九年)ロシア側も報復として択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を捕えた。

1813年  (文化十年) ロシア側は「ロシア軍艦による蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく。出先の軍人が行ったものである」という文書を日本側に提出し、ゴローニンは釈放された。

1840年 アヘン戦争が起きた。イギリスによるアジア侵略が始まった。

1846年 (弘化三年)アメリカ東インド洋艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。清国との貿易の船舶や捕鯨船の寄港地として開国を求め、国交と通商を要求してきたが、幕府はこれを拒否した。