2011年1月5日水曜日

外交と防衛(続き)(20110105)


前掲の『大東亜解放戦争』に明治維新後の日本と朝鮮の外交のことが書かれている。これを読むと日本が粘り強い交渉の末樹立させた大韓帝国が、それ以前何世紀もの間、清(当時の中国)の柵法体制下に慣れきっていたため独立国家としての自立はできず、日韓併合に至らざるを得なかった事情がわかる。また後年韓国初代大統領となった李承晩が日本を誤解していた事情も分かる。以下、その本に書かれていることを引用しながらこれを書く。

明治維新政府は朝鮮に対し、新政府の樹立を通告するため明治元年(1868年)12月19日、日本使節対馬藩家老樋口鉄四郎一行が釜山港に入港した。しかし大院君政権下の李朝は日本の使節が持参した国書の受け取りを拒否した。その理由は第一に文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第二に署名、印章ともにこれまでのものと異なっていることであった。李朝の言い分は「皇」は中国皇帝のみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味するものである。朝鮮王は中国皇帝の臣下であるというものであった。

    当時、朝鮮はアメリカ、ロシア、ドイツ、フランスそれぞれが朝鮮に武力攻撃を加えたとき、犠牲者を出しながらも相手側にも犠牲者を出させ、欧米・ロシア列強の侵攻を排撃し、自信をつけていた。しかし、日本は朝鮮の開国にこだわった。その理由は朝鮮がいつまでも開国を拒否したならば、欧米やロシアなどによっていずれ侵略されると思っていた。それは既に清国を含むアジア諸国が欧米列強の侵略を受けて植民地になっているところが多いのを見ても明らかであったからである。もし朝鮮も欧米列強の植民地になったら、日本としても重大なことになると思ったから、日本は朝鮮の開国にこだわったのである。

    前掲の本には日本、清国(当時の中国)、李氏朝鮮の三者の関係、李氏朝鮮から大韓帝国に政治体制が変わってゆく状況など非常に詳しい歴史が書かれている。それを読むと日本は、なかなか開国に踏み切らない李氏朝鮮を開国に向かわせるため、かつてペリー艦隊が徳川幕府に対して行った同じような手法を李氏朝鮮に対して行っていたことが分かる。

    それは軍艦・雲揚を江華島 に派遣したことである。ここで後に江華島事件と言われる小規模の戦闘が行われ、この戦闘で李朝側の戦死者35名、捕虜16名、日本側は戦死1名、負傷1名だけという犠牲者を出している。

    朝鮮側は雲揚に対して江華島砲台から激しく砲撃したが、その弾丸は雲揚には届かず、逆に応戦した雲揚からの艦砲射撃で草芝鎮台は甚大な被害を受けた。雲揚は草芝鎮台の南にある永宗島の永宗鎮台に陸戦隊を上陸させ、そこを占領し、大砲38門などの兵器を捕獲して長崎に帰着した。

    この事件を転機として対朝鮮問題は解決の方向に向かった。日本は「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。日本は参議・陸軍中将黒田清隆が全権大使となり、兵員乗組員総勢800名乗せた艦隊が江華島に上陸した。「大日本」の「大」など紆余曲折を経たのち日朝修好条約批准書に「大朝鮮国王之宝」という玉璽(ぎょくじ)が捺印され、大日本国天皇の批准が行われ、条約は成立した。しかし条文中の「自主の邦」の理解が日朝双方で異なっていた。日本の理解は大朝鮮国が清国の柵法下でなくなるということであったが、朝鮮はその言葉を日朝対等の意味であると理解していた。