2012年6月30日土曜日


ナンバー2は難しい立場である(20120630)

 壬申の乱の大友皇子は、既に叔父である大海人皇子が父・天智天皇の皇太子であった。その大海人皇子は兄・天智天皇が皇太子のころからずっと天智天皇の朝廷のナンバー2であった。天智天皇に大友皇子という後継ぎができて以降、ナンバー2といいながら大友皇子を立てなければならない立場であった。だから、天智天皇が病に臥し天皇から呼ばれて「後を汝に託す」と言われたとき、「自分は病気がちであるのでうまくやってゆけそうもない。皇后に天皇になって頂き、皇子・大友皇子太政大臣として政務を行っていただき、自分は出家したい」と願い出た。天皇から許されて出家し、所持していた兵器を国に納め、妃とともに吉野に下った。そして天智天皇崩御後の近江朝廷の動静を注視していた。

 天智天皇崩御後、既に東宮職を返上して出家しているとはいえ大皇弟(天智天皇の実弟であるので「大皇弟」と尊称されていた)である大海人皇子は、朝廷内ではナンバー1の立場である。一方、ナンバー2である大友皇子は天智天皇の御子とはいえ影の薄い存在である。悪しき取り巻きにより天皇に担ぎ上げられて、最後は左大臣・蘇我赤兄、右大臣・中臣連金に逃げられ、裸の皇子になってしまった。取り巻きの一人、右大臣・中臣連金は藤原鎌足の従兄弟である。彼は身の程も知らず、大友皇子を担いで朝廷内で権力を得ようとしたである。

鎌足は天智天皇が皇太子の時代から天智天皇の全幅の信頼を得ていた天下一の逸材であった。キラッと光る人材はたまにしか現れない。鎌足の従兄弟とはいえ鎌足に及ぶ人材はいない。中臣連金は右大臣にまで出征していたが、その資質は鎌足に遠く及ぶものではなかった。金は身の程を弁えず大友皇子について朝廷での権力を手中にしようとして失敗したと考えられる。友は類を呼ぶ。天智天皇崩御後、赤兄や金、特に金に、大友皇子に取り入って自分たちに都合の良い政治をやってもらおうとした勢力に利用されたに違いない。

天武天皇元年(673)八月二十五日、事件関係者が処分された。太宰府長官も歴任した赤兄は地方に流され、金は八虐の罪により斬刑に処せられた。赤兄の子、金の子らも地方に流された。金(中臣金連(なかとみのかねのむらじ)は天智天皇十年(670)春正月一日、大友皇子が太政大臣に任命されたときに神事の祝詞をあげている。そしてその日、赤兄は左大臣に、金は右大臣にそれぞれ任命されている。

 持統天皇元年(686)十月、謀反の罪で処刑された大津皇子も天智天皇の朝廷でナンバー2の地位にあった。大津皇子も天武天皇が崩御直後、謀反が発覚した。大津皇子は皇太子・草壁皇子よりも目立っていた。其処が問題であった。大友皇子の場合は大皇弟・大海人皇子が出家したので取り巻きが大友皇子を利用しようとした。大津皇子の場合は、皇子自身が目立つ存在であったので、これにすり寄って来る者がいた。その中に新羅人・僧行心がいた。

ナンバー2は自らの立場や状況をよく弁えていないと失敗する。聖武天皇の御世、太政大臣として剛腕を振るっていた長屋王も無位の中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)らの讒言により謀反とされ、一家無理心中のようにして死んだ。ナンバー2は公人中の公人であり、自分一人ではない。自分の言動が常に利用されることを警戒し、常に謹んで目立たないように振る舞わなければならない。もし、そのナバー2が、天下無双の逸材であり、しかも全く無欲で決して表に出ようとしないならば、時機が到来すれば自然のうちに上に立てられあるものである。

ある人物の自然体が「地位も名誉も金も要らぬ」といつも思っているような性格であれば、徳は自ずと現れる。天地の動きの中で時機が到来したら、自らは望んでいなくても引き出され、担ぎ上げられるだろう。「易経」の世界が其処にあるようである。