古代、記録に残っている渡来人の数(20120701)
日本列島にはもともと縄文人が住んでいた。縄文人の遺伝子は大陸に殆ど存在してないものがある。例えばミトコンドリア遺伝子タイプM7a型は朝鮮半島南部と沿海州にわずか残っているのみである。また男性にしか伝わらないY染色体遺伝子のタイプD型は日本のほかチベットに存在するが、日本の方はタイプD2型でこれは日本にしか存在しない。
環境考古学で判ってきたことは、日本の稲作文化は長江中流域に起源があるということである。長江中流域では黄河文明よりも千年古い稲作・漁労文化が栄えていた。5000年前から2500年の間に世界的に起きた気候の寒冷期に北方で畑作牧畜を行っていた漢族のルーツにつながる民が南下し、稲作漁労の民は雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われた。長江流域の一部の民はボートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本へ到達した。(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(青春出版社))
ボートピープルたちは二手に分かれたであろう。一つは大陸沿岸伝いに北上したであろう。朝鮮半島の南部に辿り着いた人たちはそこで自分たちの稲作・漁労文化を定着させただろう。やがてそういう人々が渡来系弥生人として日本にやって来た。もう一つは長江河口から太陽が昇る方向に進めば九州の鹿児島に辿り着く。渡来系弥生人たちは初め先住の縄文人たちと住み分けていたかもしれない。やがて共生し、混血していっただろう。彫の深い縄文人には美男・美女が多かったと考ええられる。彫が浅い渡来系弥生人の男たちは縄文人の女性に魅力を感じたに違いない。縄文人と渡来系弥生人とが混血して古墳時代の人々になった。縄文人と、渡来系弥生人と古墳人の容貌について、このブログ「発掘された人骨から復元した原日本人の顔立ち(20120505)」で紹介している。
古墳時代人はヤマト人である。ヤマト人がシナ大陸の漢人や朝鮮半島の人々と交流するうちに、日本には特に朝鮮半島から非常に多く人々が渡来して帰化した。彼らは天皇から氏姓を与えられ、居住地を与えられた。彼らは当時の日本人よりも進んだ技術や職業の能力を身につけていたので、朝廷は彼らの能力を大いに活用した。今の日本人は古墳時代の人々と朝鮮半島から次々日本に渡来して来たそういう人々と混血した人々の子孫であると言えるであろう。今の日本人は、1000年も経てば古墳人そのままの遺伝子の型を形質のすべてにわたり完全に残している人はいない筈である。父方のそして母方の系統をそれぞれ遡って行けば、必ずどこかで渡来帰化人とのつながりがあるはずである。日本民族は天皇がいることによって単一民族であり得ることを、すべての日本人は認識すべきである。
「日本書紀」に記されている渡来人は概ね次のとおりである。
応神十四年(283年) 弓月君(ゆつきのきみ)が百済より、民120県引き連れて帰化。弓月君は、後に秦の帝室の後裔とされることにより、秦氏の祖とされた。
応神十六年(285年)、百済から王仁氏帰化。王仁氏は書首連の始祖で本拠は河内国古市郡古市郷。河内在住の史姓諸氏の中心的地位。西文(かぶちのふみ)氏という。王仁氏は、それ以前に百済から帰化していた阿直伎(あちきに)が天皇から求められて百済王に人材派遣を要請。その結果渡来。阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖。子孫は朝廷で文筆専門の官人。
応神二十年(289年)、後漢霊帝の後裔とされる阿知使主(あちのきみ)がその子・都加使主(つかのおみ)と自分の配下の民17県を引き連れて帰化。倭漢氏の始祖。
応神四十年(306年)、阿知使主に遣わせられた都加使主、シナ江南地方の呉の王に要請。応神三十九年(309年),呉から衣縫専門の技術を持つ女性職人4(グループ?)を連れて帰国。そのうちの一つは筑紫国の御使君(みつかひのきみ)の祖。
雄略七年(462年)、新たに漢人の陶器製造・鞍造・絵・衣縫・通訳など専門技術者集団渡来帰化。今の奈良の今来郡(高市郡)に本拠を置く東漢氏によって管理された。
雄略十四年(469年)、呉より。
雄略十五年(470年)、秦の民、18,670人帰化。
663年の白村江敗戦、百済滅亡。この時帰化した人々は学術・兵法・築城・薬学・儒学・天文学など各分野で活躍したことが天智天皇十年(670年)春正月の条に出ている。
天智二年(662年)、百済の王族を難波に居住させた。
天智四年(664年)、百済の民男女400人余り、近江国神前郡に居住させた。
天智五年(665年)、百済の男女2000人余り、東国に居住させた。
天智八年(668年)、百済の貴族・男女700人、近江国蒲生郡に居住させた。
天武四年(676年)、渡来時期は不明な唐人30人、筑紫国から天皇に献上。
高句麗は新羅に攻められて668年に滅亡。
持統元年(686年)旧暦3月15日、高麗人56人、常陸国に居住。
持統元年(686年)旧暦3月22日、新羅人14人、下毛野国に居住。
持統元年(686年)旧暦4月10日、新羅人22人、武蔵国に居住。
持統二年(687年)旧暦4月8日、新羅人(人数不明)、下毛野国に居住。
持統四年(689年)旧暦2月11日、新羅人50人、帰化。
持統四年(689年)旧暦5月3日、百済人男女21人帰化。
聖武天皇御世、天平五年(733年)6月2日、「武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女53人を請願によって金(こん)の姓とした「続日本紀」。