2016年3月26日土曜日

20160326「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(14)―― 『田中角栄100の言葉』 ――


 石原慎太郎氏著『天才』には、ロッキード事件で罪に落とされた田中角栄は、自分が信頼する秘書の元妻による偽証によるものであると書かれている。その事件の背後に、アメリカの陰謀があったとされている。当時アメリカは、日本が中国と国交を回復することを非常に不愉快に思っていたようである。

 アメリカの次期大統領候補の一人として有名になっているトランプ氏は、「アメリカは昔と違って貧しい国となっている。アメリカは日本を守るが日本はアメリカを守らない。日本に駐留しているアメリカ軍の経費は、日本が全額負担するべきである」というような趣旨のことを主張している。

 国家とはそもそも何か? ISのようなテロリスト組織体はそもそも何か? 国家を「地球上のあらゆる生物の頂点にある」と己惚れている人間中心の視点で把握することは間違っていないか? そもそも人間は生まれつき「善人」なのか?

国家を‘ヒトの集合的超個体’としての‘超生物’のようなものであるとし、そのような‘超生物’は大小様々な‘ヒトの集合的超個体’が幾つかのグループごとに群を成しているとして把握するならば、そのような‘超生物’や‘超生物’群たちが、それぞれ生存競争に勝ち抜くため、どのような戦略のもとに、どのような戦術を用いているのか観察することができるであろう。

現状において、日本国という‘超生物’は、アメリカ合衆国という‘超生物’と共生関係を維持しなければ生存競争に勝てないだろう。しかしそのような状況が未来永劫続くとは限らない。日本国という‘超生物’は、遠い未来まで生き残ってゆくためにどうあるべきか?

田中角栄は“世の中は白と黒ばかりではない。敵と味方ばかりではない。その間にある中間地帯、グレーゾーンが一番広い。真理は常に「中間」にある”(宝島社『田中角栄100の言葉』より引用)と言った。その中間地帯には、「集合知」、すなわち「ものごとを理解し、是非・善悪を弁別する心の作用の集合」がある。


本を書いたり、テレビに出て話をしたり、新聞記事を書いて主張したりしないが、日常の暮らしの中で、天皇や日本の伝統・文化・仏事・神事・古典などを大切に思う大多数の一般庶民の心の赴く方向に真理がある。“必要なのは学歴ではなく学問だよ。学歴は過去の栄光。学問は現在に生きている”、と上記『田中角栄100の言葉』にはある。

2016年3月19日土曜日

20160319「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(13)―― 「昨日の敵は今日の友」「今日の友は明日の敵」 ――


 今、NHKドラマ『真田丸』が好評を博しているようである。
 このドラマは日本の戦国時代の歴史に題材を求めて作成されたリアリスティックな演劇である。このドラマは時代考証もよく為されていて、観客をしてその当時の情景の中に引き込ませ、今を生きる者が当時の状況を目の当たりに見ているような気持にさせている。

 歴史ドラマは何でもそうであるが、劇作家の意図によって、断片的な史実を基にいろいろな肉付けが行われ、一言で表現するとすれば“「作られた歴史」の舞台を展開する”ものである。

 観客は、その舞台が「歴史的に真実の場面である」と錯覚する。国民を何とか惹きつけておきたい為政者と為政者に与する人々の集団は、意図的にそのような舞台を創り上げる。件のドラマの中で、共通の敵を欺くため、かつて離反した者同士が共通の敵に立ち向かうため大芝居を演じた。かつて離反した者同士は敵味方に分かれて戦闘の場面を作り、一方(A)が勝ち、一方(B)が負ける芝居を演じる。それを観たAとBの共通の敵(C)は、Aが自分たちに立ち向かって来ると思いこみ、Bを責めていた戦場から去る。これによってAも、「次は自分たちが攻め込まれるに違いない」という危機的状況から逃れることができた。

 真田丸が生きた時代にあった「昨日の敵は今日の友」「今日の友は明日の敵」という状況は、この日本の狭い国の中で行われていた。現代では日本を取り巻く地政学的環境の中で、それに似たような状況が起きている。かつては狭い国の中で、今は世界の中で、互いに‘自存・自衛’のため起きている。植物の世界では光合成が行われる環境をできるだけ多く獲得できた群集優勢種として生き残る。似たような状況は、世界の中で生き残って行くための資源を、できるだけ多く確保できる国・国家群優勢‘種’となる。

 日本国憲法前文に、「(前略)・・日本国民は・・(中略)・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(後略)・・」とある。現代の世界の情勢では、そのような理想を掲げ、国家として崇高な理想と目的を達成することを誓っていても、決してそのようにはならないだろう。その理由は、人間は煩悩を断ち切って生きることは絶対できないし、人間の集合である国家も同様であるからである。この地球が地球外の生物などによって、人類が絶滅させられそうにならない限り、戦争は決して無くならないであろう。

 しかし、理性と武力の調和によって、「昨日の敵は今日の友」「今日の友は明日の敵」という状況の中で、ある国・国家群が優勢‘種’であり続けることができるに違いない。日本は国家の中心、それは2000年以上男系の皇統が続いてきた天皇を守り抜くことによって、国家として益々進化を続けることができ、過去・現在・未来に亘って、平和で安全であり続け、繁栄し続けることができるのである。私は、志ある政治家・官僚・学者・一般市井の人たちはこのことをしっかり自分の心の中心に置き、物事を進めて欲しい、と切に願っている

 仏教は、煩悩の中にある人々が、欲望を抑え、他者を殺さず、他者を傷つけず、騙さず、盗みをせず、阿弥陀仏の慈悲にすがり、心正しく生きるならば、「この世」において浄土に住むことができ、「あの世」においても浄土に住むことができ、必ず幸せになれると説いている。

しかし上述の志を達成する過程で、やむなく争い、敵となる国の人を殺し、傷つけることが起きる。志を達成するために殺されるということも起きる。兵士は国家という組織体の中の、ヒエラルキーの最下位・最少の単位、即ち細胞のような存在であるから、そういうことは避けられない。

 しかし、理性と武力の調和によって、そのような悲劇が起きることを最小限に抑えることができるであろう。「戦争反対!」「平和!平和!」と叫ぶが、武力を忌み嫌う人々は偽善者である。そのような人々は、結局自分たちの祖国を危機に陥れ、自分たち自身が不幸に陥るのである。人間でも国家でも‘自己(self)’を自覚できない場合は、はなはだ不安定である。‘自己(self)’は心に深層にあるのであって、積極的にその存在に気付こうとしない限り、自ら気付くことは絶対できないものである。まして、特定の思想的グループの中にいる者は、他人の話をよく聞こうとする耳を持っていない。

「耳を洗う」ことをしない限り、自分の心は開かれない。「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す」(良寛『意に可なり』)のとおり、欲のために万事窮する状況になっている人は世の中に多い。地獄極楽は現世にもあり、来世にもある。我欲を満たすためのみに行いを為す人たちの子孫は決して幸せになれないだろう。何故ならエピジェネティックな変異が世代を超えて伝わるからである。

国家も同様である。この日本国家に仏教を定着させる礎を築かれた聖徳太子と、現代の総合大学に匹敵するほどの教育機関でもあった東大寺と、各地にその地方の教育機関でもあった国分寺を建設された聖武天皇のご事績により、今日、日本国民はそのご恩をこうむっている。志ある政治家・官僚・学者・一般市井の人たちには日本の歴史を良く学び、このことをしっかり自覚して、未だその恩徳に気付いていない人たちを啓発してもらいたい、と一市井の老人は切に願っているのである。


2016年3月12日土曜日

20160312「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(12)―― 虐待児ら一時保護2万2000件 ――


 仲野徹著『エピジェネティクス』と太田邦史著『エピゲノムと生命』の2冊の本を読み終えた。Newtonムック『現代科学も決してつくれない“超精密機械”細胞のすべて』など図解でわかり易く書かれている雑誌を読んだ人や、高校・大学等で生命科学関係の予備知識を得ている人なら、上記の本に書かれていることは大変理解しやすいと思われる。

 親から虐待を受けた子どもらが施設で一時保護されるケースが増えていて、都市部の保護施設は飽和状態であることが讀賣新聞で報道された。相談・通報を受けて一時保護所が保護した件数は、一昨年度(2014年度)に過去最多の22005件になったそうである。最近、子育てを満足にできず、自分たちの子供を虐待し、故意的に死なせてしまう親が多い。このことは大変憂慮すべき社会的現象である。

一方で託児所があまりにも足りないため、働くこともできず、結婚することも、子供を産むこともためらう若い女性たちがあまりにも多すぎる。女性が適齢期に結婚し、子供を産むことが難しい社会は決して良い社会ではない。官僚も政治家も学者もこのことについて強い問題意識を持つべきである。若い女性たちが子供を産みやすい環境を、国家として是非整えるべきである。その環境としての一つの案は、「子育ての半分は国家・社会が全面的に負う仕組み造り」である。その仕組みの中で、女性は出産適齢期に結婚し、23人子供を産み、その子供を保育園に預けたら、女性は本格的に働き始め、その職場に接近した場所に必ず安心できる託児所があることである。その職場と自宅の間を子供連れで往復する交通手段も、快適なものを国家が提供することである。そういうことが国家としてできているならば、男と女は権利が同じである、と初めて言える。現状は決して男女同権ではない。

上記の本に書かれている学術的な部分は省略するが、上述の問題にかかわる部分を上記の本から一部をランダムに「である調」で下記のとおり引用する。マスコミ関係者には、「生命科学・分子生物学・進化生物学・遺伝学などは専門外である」と敬遠せず、是非、上述の問題の解決のためエピジェネティクスと社会の関係について、積極的に、かつ継続的に取り組んでもらいたいものである。

    最近になって環境によって獲得された形質の一部が、エピゲノムの記憶を介して次世代に引き継がれることが少しずつわかってきた。つまり「環境」と「遺伝」は相互作用する。
    親世代のストレスが、子の人生にも影響を及ぼしている可能性がある。このような状況が、昨今の育児放棄の増加や、児童虐待の連鎖に結びついているとしたら、大変憂慮すべき状況であると考えられる。加えて、社会的遺伝という生物学的現象が、社会の階層化や格差の固定化や拡大に、人知れず貢献している可能性も捨てきれない。
   エピゲノム修飾の大半が生殖細胞で消去されるものの、一部は世代を超えて伝わるという問題点が生まれた。これにより、育児放棄の連鎖、社会階層の固定化などの、負の側面が生じる可能性も出てきたことになる。
    生まれたての赤ちゃんがどう扱われるかによって、この視床下部―下垂体―副腎系の機能が影響を受けるということが、50年以上も前に行われたラットの実験から判っていた。同じ系統のラットであっても、毛繕いをしたり、体をなめたりして子供をよく可愛がる親と、そうでない親がいる。どちらの親に育てられるか。乳児期における育児の仕方が違うだけで、成体になってからのストレスに対する反応が異なる。
    胎児期における環境因子が成人後の疾患発症と関係するという報告は数多くなされており、事実としては確実である。長い年月にわたり、何らかの形で、体の中のどこかの細胞に記憶が残っているはずであるから、そのような現象にエピジェネティクスが関係している可能性はきわめて高い。
   生命科学は進歩すればするほど複雑化して、専門外の人にはわかりにくくなっていく。


仏教は、因縁・因果応報・輪廻転生を説いている。現代は、そのことを科学的に説明できるようになりつつあるのではないだろうか?

2016年3月9日水曜日

20160309「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(11)―― 志ある政治家・官僚・学者・一般市井の人たちよ、目覚めよ! ――


 今朝の讀賣新聞一面中央に、「皇室典範見直し当初要求 国連女子差別委 政府が反論、記述削除」という見出しで重要な記事があった。その要旨は、日本国政府が当初案にあった「皇室典範が女性天皇を認めていないことに懸念を表明し、見直すように」ということに反論し、削除を求めた、というものであった。関連記事には、「国連女子差別撤廃委員会の報告書のまとめ役は中国人」であるとある。

 いわゆる従軍慰安婦問題について、従来彼女らが「性奴隷」として表現されていたが、それは「従軍慰安婦」という言葉に改められた。このことについて、韓国の連合ニュースが「日本政府は慰安婦問題の合意後も責任回避と否定を続けている」と批判的に論評した、と報道されている。

 朝日新聞・毎日新聞など他のメディアはどういう報道をしているであろうか?新聞の購読者の殆ど多くは、それぞれ個人の思想信条は別として、新聞店とのつながり等により継続的に購読しているはずである。だから新聞の報道姿勢によりそれぞれ個人の主義や主張は左右されやすいだろう。新聞が特定の思想信条のもとに報道すると、多くの国民は「そうだったのか」と納得し、政府に対して批判的になる。勿論、批判精神は絶対必要である。特に権力に対する批判精神を失ったら民主主義は滅びる。しかし特定の思想信条を持つ者たちによって、「ペンの力」(マスコミ)によって、決して扇動されてはならないのである。

 日本と中国・韓国・北朝鮮の関係は千年前と同じような緊張関係にある。この状態は今後千年経っても変わることは無いだろう。日本人はそのことを「何故なのか」と考えてみる必要がある。勿論、日本はそれらの国々に軍隊を派遣して大変迷惑をかけたことは事実である。しかし、その背景には16世紀以降西欧人による侵略という脅威があったのである。ただ、そのことだけが日本と中国・韓国・北朝鮮の間の緊張関係の根本原因ではない。

その根本には、5000年も前から7世紀ごろ、さらに戦後現在に至るまでの間の日本民族の生い立ちにある。日本民族は、縄文人を基層集団として長江中流域から稲作・漁労文明をもった渡来系弥生人たちとの混血、その後大陸の政情不安により朝鮮半島から渡って来た漢族・朝鮮族の技能集団との混血、戦後は在日韓国・北朝鮮人との混血、さらには欧米系・アフリカ系などとの混血により成り立っている。日本の歴史書『日本書記』には、7世紀ごろまでに日本にわたって来て帰化した人たちのことが数多く書かれている。

因みに縄文人の遺伝子は大陸・朝鮮半島に殆ど残っていない。しかもY染色体遺伝子・ミトコンドリア遺伝子のあるタイプのものは世界中に例が見つかっておらず、日本人独自のものである。朝鮮半島に僅かに残っている日本人特有の遺伝子は、古代に倭人が朝鮮半島に進出していた名残であろう。また豊臣秀吉軍の兵士の一部は朝鮮半島に残り、その子孫たちが居る。逆に豊臣秀吉軍の引き揚げとともに、日本に渡って来た朝鮮半島の陶工たちの子孫もいる。その中には外務大臣になった人も居る。江戸末期の漢学者・歴史家であった頼山陽は『日本楽府』で白村江(はくすきのえ)の戦いのことを書いている。その終わりの部分に「忠義の孫子海を踏みて来たり。長く王臣と為りて王室を護る」と書いている。

天皇陛下はそういう日本人・日本民族の統合の象徴として、皇后陛下とともに世界の平和と人々の幸せを常に祈って下さっているのである。

 豊臣秀吉が政権を執っていた時代には当時のスペイン・ポルトガルによる侵略や日本人が奴隷にとして海外に連れて行かれたという事実があった。日本が近代化された後、ロシアや西欧列強による侵略という脅威があった。日本は大東亜戦争に敗れたが、東南アジア諸国やインド・ミャンマー・ヴェトナムなどは独立することができた。

 中国・韓国・北朝鮮の国民の深層心理は、千年前と同じように日本を中華の下に置かれるべき国であるというものであろう。その心理は今後千年経っても変わることはないだろう。ただ、日本はそういう状況にあってもそれらの国々とできるだけ仲良くし、共に富を生み、共に分かち合うことが重要である。欲望があれば摩擦を生む。人間でも人間の集合である国家でも、煩悩を断つことはできないが、理性と武力的力関係で調和を作り出すことは出来る。

 戦後、アメリカの政策によって日本人の魂は抜かれ、日本人は平和を愛好するが武力は忌み嫌うようになった。そのように日本を導いたのは、アメリカ大統領の側近であったソ連のスパイであった。戦後、日本は共産化される危険があった。東条英機元首相は遺言に「現在の日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本の米人に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。また、日本人が赤化しないように頼む」と書いている。

 日本人は海外からどのような圧力があろうとも、2千年以上も続いた男系の皇統を絶対に守り抜かなければならない。女性の天皇について「女系」と「女性」の二通りがある。女性天皇はこれまで何度もあった。それは男系の皇統を繋ぐための一時的なものであった。遺伝学的にみれば、ピンチヒッターとしての女性天皇の次の天皇は必ずY染色体遺伝子を受け継ぐ男性であった。

 女系である場合は、その女性の子孫である女性だけがルーツの女性のミトコンドリア遺伝子を受け継ぐ。しかもY染色体遺伝子を受け継ぐ男性は居なくなる。つまり皇統はそこで途絶えるのである。日本がもしそのような状態になったら、世界に類例のない2千年以上も続いてきた皇統が途絶えてしまうことになる。

 唐王朝時代の中国にあった薫り高い文化は日本に伝わり、現在に生きている。儒教・道教が重んじられた一方で仏教が弾圧を受けて廃れ、マルクス思想の中国共産党が支配している現在の中国にはどういう文化が根付いているのだろうか?

日本では奈良・平安の天皇親政の時代以降、政治は武家が行ってきたが、その武家は天皇に位階を授けてもらっていた。明治憲法下では天皇は日本国の統治者と定められていたが、国政への関与は殆ど形式的なものであった。現憲法下では天皇は日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であると定められている。

日本では二千年以上皇統が続いており、そのお蔭で薫り高い文化が持続してきたのである。武家が政治を行っていた時代でも武家は古来の文化を大事にしていた。日本は本当に素晴らしい国である。深層心理において日本を何とか見下げたい国々の為政者にとって、日本に男系皇統の天皇が居なくなり、夫婦別称が行われるようにうなることが望ましいに違いない。日本人は、断固、男系の皇統がある国体を守り抜かなければならないのである。


志ある政治家・官僚・学者・一般市井の人たちよ、目覚めよ!

2016年2月21日日曜日

20160221「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(10)―― エピジェネティクスに関する本 ――


 横浜市立図書館でエピジェネティクスのことが書かれている科学関係雑誌を読み漁り、仲野徹著『エピジェネティクス』と太田邦史著『エピゲノムと生命』の2冊の本を借りて帰った。エピゲノムのことは今のところマスコミには難しい話と受け止められているらしい。しかしこれは医療の面のみならず社会や民族の面でもこれに焦点を当てて研究されるべきことであるように私は直感している。

 今日は天気が良かったので運動も兼ねて野見山公園近くの横浜市立図書館に行くことにした。途中おにぎり専門の店「権米衛」で一番安いがボリュームがあって栄養価も高そうなものを三個選んで買った。一つは生姜味噌を付けたもの、一つは玄米入りでゴマをまぶしたもの、もう一つは鰹節を中に入れたものである。飲料は自宅から冷ました湯を持参した。交通機関は敬老パスを利用するのでその都度切符を買う必要はない。昼食は野見山公園のベンチに座って取る。最も安がありで最も健康的で最も知的である。

 公園のベンチに座っておにぎりを食べる様子をスマートフォンで撮ってLINEで家内に伝える。スマートフォンでの撮影は‘自撮り’モードである。このような時間を過ごすことができるのはとても幸せである。80に近い年寄りとは言え、現役の人たちに支えて貰っていることを思い、私は「有難し」とつぶやく。

 しかし、このような幸せを感じることができない心の貧しい人たちは大勢いる。町を歩くときすれ違う高齢者は皆が皆穏やかな顔をしているわけではない。私は阿弥陀仏に完全に帰依し、阿弥陀仏にすべてを任せ切っている感じでいるので、今のところ穏やかな気分である。しかし、何時私に不幸が降りかかるか分からない。そのとき私は穏やかな気持ちでいることができるだろうか?私はそのような時でも穏やかな気持ちでありたいと願っている。

 エピゲノムは日常の精神活動の持続によって現れる。ストレスがたまり続け、それを消化できない状態が何年も続けば、ある遺伝子が発現してエピゲノムとなる。それはその人の精神を不安定にし、病気の原因を作り、その人がそのような状態で持った子供にエピゲノムとして‘遺伝’するのだろう。その逆の場合もあるであろう。


 社会は人の集合である。民族の精神文化的な面はその民族の精神的な集合である。社会や民族にエピジェネティクスが作用していることは間違いないと思う。私はそう思いながら上記2冊の本を徹底的に読み、何か哲学的な思索のきっかけをつかみたいと思っている。

2016年2月18日木曜日

20160218「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(9)―― エピジェネティクスの面から考える子供の養育 ――


 エピジェネティクスの面から見た‘遺伝’は因果応報・輪廻転生を説いている仏教と何か関係がありそうであり、また社会・国家の在り方にも影響がありそうである。私は、前者は仏教の指導者が考えるべきことであり、後者は政治家や社会学者などが考えるべきことであると思っている。

私は、女性の晩婚化は社会や国家の大問題であると思っている。私は女性が適齢期に結婚し、子供を産むことが出来ない社会は決して良い社会ではないし、そういう国は決して良い国ではないと思っている。このことに着目し、活動してくれる優れた政治家や学者や活動家が現れることが期待される。

近年、離婚や貧困や男女関係の乱れなどにより、幼児や赤ちゃんが児童養護施設や病院で保護されていて、その児童や赤ちゃんの実の親でない夫婦に引き取られ、養育される状況がある。かつて旧満州に残された児童が中国人の夫婦に養育され、成長後日本に帰国した中国残留孤児がいた。

このように血縁関係がない子供はエピジェネティクスの面から見た場合にどのような‘遺伝’をその育ての親から受けるのであろうか?下記括弧(“”)で括るように、エピジェネティクスは麻薬により精神疾患が生じた場合について研究されている。しかし、私は、エピジェネティクスは社会や国家の在り方や仏教の布教活動の在り方を考える場合についても研究されるべきテーマではないかと考えている。

環境要因がどのようなメカニズムで精神疾患につながるのかという疑問が浮かび上がってくる。簡単にいってしまえば答えは明白で、「生まれ」と「育ち」の両方が脳の精神細胞に作用するということだ・・・(中略)・・・経験を通じて染色体上に化学標識が付いたり取れたりすることが精神疾患症の一因となっているようだ。こうした「エピジェネティック」な標識は、遺伝子の配列ではなく遺伝子の活性を変える・・・(中略)・・・DNAは細胞核にでたらめに詰め込まれているのではなく、糸巻きに巻かれた糸のように、「ヒストン」と呼ばれるタンパク質複合体の周りに巻き付いている。このヒストンとDNAの複合体を「クロマチン」といい、そのクロマチンが折りたたまれて染色体を構成している・・・(中略)・・・クロマチンが折りたたまれていると、遺伝子を活性化する装置が近づけず、遺伝子は不活性のままだ。・・・(中略)・・・個々の遺伝子が活性化するかしないかは、クロマチンの化学修飾によってきまるのだ。このようなエピジェネティックな変化は、化学標識を付けたり取り除いたりする様々な酵素によって生じる・・・エピジェネティックな修飾がほかの多くの遺伝子にも生じており、それが養育のような行動における反応プログラムに関与し、ゆえに行動様式の親から子への‘遺伝’をもたらしていることが、今後明らかになっていくだろう。こうした状況においては、ある世代のある遺伝子に生じたエピジェネティックな変化が、生殖細胞を介さずに事実上次の世代に伝わっていくような現象が起きる”(『日経サイエンス誌20123月号』より引用、本稿においてアンダーライン・赤字表示により強調)。

 脳細胞の中のエピジェネティックな変化の状況は精神疾患のみならず、そのほかのことについても起きるのではないだろうか?海外に移住した日本人たちの子孫は容貌や形質が日本人であっても思考や性格や行動はその土地の人たちと同じ様になっているようである。それは正しく「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化」(『ウイキペディア』より引用)である。

 ここに私は次の通りエピジェネティクスの三つの側面に着目して思索を進めたいと思う。その一つは、女性が適齢期に子供を産める社会の実現の方策、その二つは子供を授かったが離婚した女性のその子供の養育が最も良く行われる社会の実現、その三つはエピジェネティクスの面から見た国家の特性と進化、である。


 私が最も関心があるので上記の三つ目のことについて一言触れる。国家は国民一人一人の集合体である。国民の意識は国家の意識となって顕れる。その国の伝統や文化はその国家の品格となって顕れる。個々の国民の資質や能力はその国家の資質や能力となって顕れる。為政者が対外的にどのように取り繕うと、その国の本質を覆い隠すことは出来ない。その国の有り様は、その国の民の個々のエピジェネティクスによる変化の集合である。己の欠点に気付かず、気づこうとせず、他を見下す国家は、その内包する矛盾のため進化が遅れ、崩壊の危機に見舞われる。謙虚で賢い国民が大多数を占める国家はますます進化してゆくことになるだろう。日本国は永遠にそういう国家であって欲しい!

2016年2月15日月曜日

20160215「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(8)――エピジェネティクス――


 “エピジェネティクス(英語: epigenetics)とは、一般的には「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域」である”(『ウイキペディア』より引用)。

“遺伝子と環境の間。氏と育ちの隙間。そこにエピジェネティックスが作用する。そして環境からの情報を取り込むことで生じた一部のエピジェネティクスは、なんと次世代へと遺伝することが明らかになってきた”(『WIRED』より引用)らしい。

 私という個人は、私の先祖の遺伝子の一部を受け継ぎ、私の父母からそれぞれ半分ずつ、遺伝子を受け継ぎ、私の子孫には私と私の妻の遺伝子の一部がそれぞれ受け継がれてゆく。一方で私や妻の先祖のそれぞれの家庭環境やそれぞれの育てられ方も、エピジェネティックに私たちの子供たちに遺伝している。

 私や私の妻のDNA塩基配列やエピジェネティックな遺伝要素は私たちの子供たちの子孫にも一部が確実に伝えられるに違いない。そのとき私も私の妻も私たちが生きている間に見ることがないその子孫に生まれかわることになるかもしれない。

 仏教では「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」という六つの道への「転生」を説いている。それは仏教で説いている「因縁」という概念につながるものであろう。この世において悪い行いをした者は、あの世においてその報いに応じて生まれかわるに違いない。

 誰でも煩悩の身であれば数々の過ちをしてしまうことがあるだろう。その過ちの中には法律に触れることであったり、道義上許されないことであったりするものがある。それが公に明らかになったとき、公人や有名人であれば、そのことがマスコミの話題になる。


 やがて草木が枯れて朽ちて土に還ってゆくように、私もこの世を去ることになる。後世に生きる私の子孫のために、私は自分が経験し学んできたこと、身に着けてきた善いことが、確実に伝わるようにしなければならない。それが私の余生の大事な仕事である。

2016年1月30日土曜日

20160129「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(7) ―― 天皇・皇后両陛下のフィリピンご訪問 ――


 天皇・皇后両陛下は、太平洋戦争の激戦地であったフィリッピンに戦死・戦没者の慰霊の旅に行かれた。フィリッピンにおける日本軍とアメリカ軍との間の戦いで命を落とされた人の数は、フィリピン人約120万人・日本人約52万人・アメリカ人約17万人であった。両陛下はフィリピンの「無名戦士」の墓にお参りされ、ルソン島中部のカリラヤにある日本人戦没者を悼む「比島戦没者の碑」にお参りされ、それぞれの御霊を追悼・慰霊された。

 両陛下がカリラヤの「比島戦没者の碑」を訪れられとき、不思議なことに朝から降っていた雨は止み、日差しが現れるようになっていた。両陛下が「比島戦没者の碑」のある場所にご到着になられたちょうどその時、一陣の風が吹き木々が揺れていた。その風は数秒間吹いていただけであった。両陛下は日本から持って行かれた白い菊の花を供えられた。両陛下は碑の前で深々と頭を垂れられ、深々と礼拝された。私もその間テレビの前で合掌し、「南無阿弥陀仏」と小声で唱えた。

 両陛下は「比島戦没者の碑」にご参拝後、その碑の前に参列していたご遺族の方々の前に歩み寄り、一人一人にお声を掛けられ、ご遺族の方々との会話にかなり長い時間を割いておられた。約100名の参列者は非常に感激していた。

 私は何故テレビの前で「南無阿弥陀仏」と唱えたのか。その理由をここに書いておきたい。その前に幾つかの仏教の用語の意味を確認しておきたい。

「南無」はサンスクリット語のナマス(namas)およびナモー(namo)の音写で、「敬意・尊敬・崇敬」をあらわす感嘆詞である(Wikipedia』による)。「阿弥陀仏」は(Amitāyus)の音写で、「その説法は時間的には三世にわたって無限(無量寿)であり、空間的には十方にわたって無際限(無量光)であり、その誓願に従ってあらゆる衆生を救済するとされる(『仏教要語の基礎知識』(春秋社)による)」ものである。「三世」とは「過去・現在・未来、また前世・現世・来世(『広辞苑』による)」である。「誓願」とは「誓いを立てて神仏に祈願すること(『広辞苑』による)」である。

阿弥陀仏のお姿に向かって合掌し、阿弥陀仏に誓願して「ナムアミダブツ」と唱えることは「念仏」である。「念仏」とは「心に仏の姿や功徳を観じ、口に仏名を唱えること(『広辞苑』による)」である。そのようにすれば誰でも浄土に行くことができるとされる。「浄土」とは「五濁・悪道のない仏・菩薩の住する国(『広辞苑』による)」である。

これは、現世においても自分の周り・自分の家族など身近なところでは修羅も憎しみも恨みもない穏やかな平和な状態として現れる、と考えることができるであろう。もし、自分の現世が自分の身内の誰かの来世であるとし、自分の現世が自分がこの世を去った後、身内の誰かの新しい命として生まれかわるとすれば、「浄土」は阿弥陀仏・阿弥陀如来への信仰心次第であると言えるであろう。

両陛下は太平洋戦争で多くの命が失われた激戦地を回り慰霊の旅を続けておられる。私は、両陛下が日本国民を代表して国の別なく戦死・戦没者を慰霊して下さっていることは非常に大きな供養である、と思っている。釈尊は供養が足りないとその人の来世は良くないし、供養が十分であるとその人の来世は素晴らしいという趣旨のことを説いておられる(『新訳仏教聖典』六法輪閣版、386ページ、「増一阿含経」より)。

日本国民は天皇・皇后両陛下がそのような形で供養をして下さっているお蔭で、良い状況の中にあるのである。厩戸皇子・厩戸王(=後世の諡である聖徳太子)と聖武天皇の御事績により、仏教が日本に定着した。太平洋戦争に敗れて日本は大きなダメージを受けたが、仏教のお蔭で日本は平和と繁栄を享受している。私はそのように思っているので、両陛下がフィリッピンで慰霊碑の前で深く頭を垂れられたとき、私はそのご様子がテレビに映っているのを見て、テレビの前で合掌し、「ナムアミダブツ」と唱えたのである。

2016年1月7日木曜日

20160107「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(6) ―― ギリシャの古代円形劇場で能を舞う/「修羅」を語り継ぐ ――


 ABSの番組を録画しておいた『世界遺産で神話を舞う』を再生して視聴した。アテネの南西約65㎞のところに今から約2400年前のエピダウロス遺跡というものがあり、そこで古代の円形劇場が発掘され往時の姿のまま保存されている。その円形劇場でギリシャ人演出家マルマリノスと人間国宝・能楽師梅若玄祥とのコラボレーションにより、ギリシャ最古の大英雄叙事詩『オデュセイアー』第11書「冥府行ネキア」を新作の能として演じるまでの経緯と、その劇場で行われた能の様子がその番組で紹介されていた。ネキアを題材とする能の脚本を書いたのは笹井賢一であり、舞台監督はギリシャ人ヴァ・マニダギである。プロデューサーは日本側が西尾知子、ギリシャ側がヨレブスであった。

ギリシャ神話の叙事詩が能で演じられたが、装束も所作も舞台も音響も全く古来の能と変わらない。上演は夜9時から行われたが、文化大臣も含め殆どアテネからやって来た1万人以上の、ほとんどがギリシャ人である観客のために、左右両側のギリシャ語による字幕が表示されている。能が始まるとそれまでざわついていた会場は静まり返り、観客は息を凝らして舞台に見入っていた。

口上は「オリンポスの神々よ 見そなわせ 我らは東の果て 日の出る国 日の本の能の一座」であった。能の終盤にオデュッセウスが冥界にいるアイアースに「アイアスよ 我に敗れたこと 未だ許さぬか アイアスよ (アイアスからは返事が無く亡霊をかき分け死者の国を去る) 鎮魂の芸能者 語り舞え 命たぎらす修羅の戦いを 敗れ去りし者の修羅を 勝ちし者の修羅の道 我らは鎮魂の芸能者によりて 永久(とわ)に語り継がれるであろう」と語る場面がある。能は舞なのであるが、演劇的な見せ場になっている。これは演出家マルマリノスが最もこだわった部分であった。

120分間の舞台が終わると観客は総立ちで大拍手を送り、拍手がなかなか鳴りやまなかった。主演者梅若は能面を外し、観客に応えた。観客の中には感激のあまり、「鳥肌が立った」と言った人も居た。これはギリシャ人の心の深奥に日本人と同じ八百万の神々への信仰心があるからであろう。演出家マルマリノスは「日本に来ると、まるで過去にここで暮らしていたような感覚になる」と言っていた。そのとおりであろう。今を生きる人の意識が、過去に生きた人の意識と共鳴・共振する。意識(無意識を含む)は、時空を超越し広大無得に融通無碍に、自由自在に延伸するものである。私は蔵書の『オデュッセイアー』(呉 茂一 訳)を読もうと思う。

多神教の国々は平和である。ギリシャは5世紀ごろキリスト教により多神教の偶像崇拝が禁じられた。修羅は一神教の国々の間や儒教の国々で起きている。あらゆる物に神を見、仏教行事を行い、キリスト教の風習も広がっている国、わがニッポンはなんいうと幸せな国であろうか!その中心に天皇様がいらっしゃる。日本人の意識(無意識を含む)は、天皇様に収斂して、縄文時代・弥生時代・古墳時代に生きた人々と交流する。『古事記』がそれを媒介する。有難いことである。共産党は批判するが、国会の開会式において天皇様の御座が高いところあってもいいではないか!


天皇はヨーロッパや中東や東アジアにおけるような支配者としての‘王’ではないのだ。皇太子が天皇になるとき「天下る」のであり、天皇が崩御されたときは「かむあがる」のである。科学的には霊界から「天下り」、霊界に「かむあがる」ものではないのだが、神話に先祖がいるのは天皇であるのだから、国会での議場という‘舞台’の開会式という‘儀式’においては、天皇が座す椅子は高いところにあってもいい。共産党がそれを目くじらを立てて批判するのは大人げないことである。

2016年1月5日火曜日

20160105「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(5) ―― 義理と人情、理想主義と合理主義、朱子学と陽明学、原理主義と実用主義 ――


 上記副題は、それぞれ一部重なる部分もあるが対立する概念である。いずれも一方がその正当性を強く主張すれば、他方はそれに対して反発する。仏教で説く天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界のうち、「修羅」の状況になる。「修羅」は争い・闘争の状態をいう。

 人は一切の我欲を無くすれば、「修羅」の状態で無くなるだろう。相対立する両者がそれぞれ我欲を全く無くした上で、お互いに中道・中庸を願うならば、争いは収まり、最終的に争いが無くなり、お互いに平安な状態になるだろう。一方に我欲がある場合、安易な妥協は後世に禍根を残す。これは真の中道・中庸ではない。

 ここにABが居てAは我欲がありBは我欲が無いとする。そのAが自覚できない、或いは自らは絶対知り得ない深層の心理(=無意識)にある我欲・怨念・妄信のためBを屈服させようとするならば、Bは自らの存続のためにAと戦わざるを得なくなるだろう。仏教が国民の間に根付いている国は一般的に平和な国である。これをBとする。「善」について独断的な観念をもっている国は一般的に国内的にも対外的にも「修羅」の状況にある国である。これをAとする。ABに対して心理戦・思想戦・サイバー戦・或いは武力挑発を仕掛けてきたときは、Bは自存・自衛のために武力を用いてAに対峙し、あらゆる手段を用いてAによる攻撃を防がなければならない。このとき仏教が国民の間に根付いている国であるBもやむを得ず「修羅」の状況に置かれる。

「煩悩」は人間のみならず人間の集団である国家にもある。これが平和を乱す原因である。平和を維持するために、仏教が国民の間に根付いている国Bは我欲・怨念・妄信の「修羅」の国Aに勝る強い力を保有していなければならない。安倍総理が掲げる「強い国・日本」を目指す諸政策の実行は、決して野党の政治家たちが非難している「暴走」ではない。安保関連法案は安倍総理が口酸っぱく何度も言っているように、日本国民を守るための法案である。

父が用明天皇の第二皇子であり、母が欽明天皇の皇女・穴穂部皇女である厩戸皇子(=聖徳太子)は仏教を厚く信仰し、日本国内に仏教を興隆させることに努めた。聖徳太子が推古天皇の御世に制定した『十七条憲法』は、日本の「和」の精神の真髄である。その後、聖武天皇の御世、日本では各地に国分寺・国分尼寺が置かれ、東大寺が建てられ、その東大寺には今でいう土木工学部も含めた総合大学とも言える教育機関が置かれて国中に仏教が広められ、人々の教育水準が高められた。

私は『十七条憲法』の中で特に、「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ること無きを宗とせよ。(後略)」「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(後略)」などの条文が好きである。今から1410年ほど前に制定されたこのような憲法を持っている国は日本だけである。

日本を取り巻く東アジアの情勢は厳しいものがある。私は、日本は聖徳太子の時代・聖武天皇の時代に築かれた精神を大事にすることにより、東アジアの中で生き残ってゆくことができると確信している。日本は、自らは望まなくても、やむを得ず「修羅」の状況の中に置かれることもあり得るだろう。先の大戦で自らの命を投げ出して戦って死んで逝った先人たちの思いに、今を生きる日本人は意識を向ける必要がある。

『易経講座』(安岡正篤著、致知出版社)には次(“”で示す)のことが書かれている。この本には、物事を判断し実行に移す場合の知恵について書かれている。「無我無私」の重要性について説かれている。そして安易な妥協を戒めている。

 “(前略)・・単に歩み寄りなんていうものは居中であって折中ではない。易は中庸である。中庸は複雑な現実に処して勇敢に折中していくことである。・・(中略)・・安価な穏健中正等は一番くだらない誤魔化しである。・・(後略)”

 日本は安倍総理が掲げるように「積極的平和主義」を推し進めなければならない。日本は自らの領土・領海・領空・排他的水域を守り、平和と繁栄を維持するために必要な力を備え、これを常に高めてゆかなければならない。憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するだけでは、日本を守り抜くことは絶対出来ないのである。「平和!平和!」と叫ぶだけでは平和は保たれないのである。私は、一部の人々が安保関連法案を「戦争法案」と信じ込んでいるのは、人情・理想主義・朱子学・原理主義の表れとして理解できるが、日本を危うい状態に置きかねない心情であると思っている。

2015年12月31日木曜日

20151231「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(4) ―― 日本 国家として懸念を払拭するための精神文化 ――


 日本の仏教は、6世紀の半ば、欽明天皇(在位:西暦539571年)の御世、百済から伝えられた。その韓国では西暦1393年に李氏による王朝時代(期間:西暦13921910年)に入ると、儒教の一派である朱子学のみが統治・支配のため崇拝され、仏教が弾圧された。近代に入ってキリスト教(カトリック)も弾圧された。

 日本においても仏教は、過去に時の政権によって弾圧された歴史がある。但し、それは時の政権による国家運営に大きな障害となっていた過激な武装集団としての仏教集団に対するものであった。信長による延暦寺焼き討ち、秀吉による寺院の武装解除、江戸幕府による日蓮の教義を信じない日蓮宗の一派の不受不施派に対する厳しい弾圧、明治新政府による神道重視の政策の結果行われた全国規模の廃仏毀釈や虚無僧が在籍する普化宗を廃止などがそれである。日本においても朱子学が統治・支配のため必要な学問として、各藩の学校で教育されていたが、一方で実用主義的な学問である陽明学の教育も私塾で行われていた。

 韓国における仏教は、儒教を国家運営の中心に据えていたため仏教は弾圧されたが、日本では過激派や異端の仏教団体のみが弾圧されただけである。日本では聖徳太子や聖武天皇が日本国内における仏教の普及に大きな影響を与えた。日本では仏教が国家運営の中心に置かれ続けた。江戸時代に入ると一般市民は皆、檀家制度により寺門に組み込まれ、仏教の寺院は行政の一端を担うようになった。国家の運営に関わる仏教の扱われ方が、日本と韓国におけるそれぞれの国民性の相違に大きな影響を与えたことは確かである。

 このたび、いわゆる従軍慰安婦問題が完全に解決する方向に向かった。しかし、日本人の間ではこの問題が再び蒸し返されるかもしれない、という懸念を払拭することができないでいる。この問題が再び蒸し返されないようにするためには何が必要か?もし万一、この問題が蒸し返されたとき日本人はどういう態度で臨むべきか、日本人はしっかりした心構えを持っておく必要がある。

 後者について、心構えの一つは仏教の精神文化を維持・増強させることである。仏教では、「死後の世界に目を向ければ、人生はより豊かになる」ことを教えている(『人間(ひと)は死んでも、また生き続ける』大谷暢順著・幻冬舎)。

 死後の世界を現世の者は誰も経験していないので、それがあることを信じるほかない。しかし、死後の世界は現世の生き様次第であると信じ、憤怒・激情を抑えきれずに他人の尊厳を平気で傷つけるような人たちの死後は、必ず修羅・餓鬼以下の存在となることを信じて、現世を正しく生きるならば、その人は現世できっと幸せになれるだろう。

 国家は人々の集合体である。個々の人々のそれぞれの心の持ち方次第で、国家の品格が定まる。日本人は、昔に帰って孟子の教えや「知行合一」を説く陽明学の教えを学び、仏教の教えを学び、和服を愛して畳の上の生活を大事にし、礼儀作法を学び、茶道の一期一会の精神を学ぶなど、いわゆる「和」の精神文化の世界に日本人の精神を再発見する必要がある。

 そうすれば、日本の周辺の国々が日本に対してどのように振る舞おうと、何も気にすることはなくなるであろう。欧米・東南アジア・大洋州諸国・印度・中央アジア・モンゴルなどの国々は、そういう日本を大切に思い、陰に陽に日本を助けてくれるであろう。

 ただ、日本の周辺の国々が日本を親しく感じない原因が過去の日本にあることを、日本人は深く自覚し、その因縁を解消させるため最善の努力を未来においても継続してゆく必要がある。『反日・愛国の由来』(呉 善花 著、PHP新書)に「日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使」という項がある。そこには “・・(前略)・・(朝鮮通信使の)申維翰の主張は「豊臣秀吉が朝鮮を侵略したから日本人を蔑称してよい」というものだ・・(中略)・・韓国・北朝鮮人はいまでも、同国人どうしで日本人の悪口をいうときには「日本奴」「倭奴」「猪足」・・(中略)・・などの蔑称を用いることが珍しくない・・(中略)・・現代韓国・北朝鮮人もまた、「日本人はわが国を侵略したから」という理由で、日本人に対する侮辱的な言葉や行為を正当化している・・(後略)”とある。私もかつて韓国を旅行したとき、バスガイドの韓国人女性から「豊臣秀吉と伊藤博文は韓国で最も嫌われている」と聞いたことがある。韓国人の間で「自分たちの国が日本に侵略された」という怨念は、世代が変わっても遺伝や教育によって決して変わることはないであろう。

 日本人は上記のことを深く自覚しつつ、上述のように「和」の精神文化の世界に日本人の精神を再発見する必要があるのである。


2015年12月21日月曜日

20151221「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(3) ―― 「煩悩」と「輪廻転生」。それは国家でも同じである。 ――


 ここに、昭和36年(1961年)初版発行の『正信聖典』(浄土真宗 親鸞会)という小冊子がある。これは、昭和54年(1979年)に他界した父が所持していたものである。この本には上段に親鸞聖人が作った七言絶句の長詩『正信偈』、下段にその訓読が書かれている。今までこの小冊子のことをすっかり忘れていたが、『正信偈』を持ち帰った筈だと書棚を探していたらそれが見つかった。私は、このお経は大変素晴らしいお経であると思っている。

 僧侶はお経を上げ、葬儀や法要の参列者はただ手を合わせて黙って聞いていて、そのお経の意味は分からずに、その厳粛な雰囲気の中でただ有難がっている。その儀式が終われば、人々は再び煩悩に満ちた日常に戻る。

 「煩悩」とは広辞苑によれば、「衆生の心身を煩わし悩ませる一切の妄念。貧・瞋・慢・疑・見を根本とし、その種類は多い」とある。因みに「瞋」とは「いかる・いからす」「目をわくいっぱいに開く・かっと目をむく」ことである。『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、「煩悩」には根本煩悩として六種または十種あり、“中でも貪欲・瞋恚・愚痴(貧・瞋・痴)の三つはもっとも基本であり、この中でも愚痴すなわち無明が最も根本とされる。”この「無明」とは“無知であって、四諦や縁起の道理を知らないこと”である。“四諦は人々の苦しみや悩みをいやすための原理を説いたもの”である。“縁起とは「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」である。なお、「瞋恚」とは『学研 漢和大辞典』によれば「①自分の心に反するものを怒り怨む。②目をむいて怒る」ことである。

 私自身も「瞋恚」であり、なかなか改まらない、但し「怨む」ことは全くないのであるが、人々は如何に「貪欲・瞋恚・愚痴」の日常を送っていることか!これが時に言葉による暴力・切傷・殺人の基になっている。良寛は「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す」と詠っている(『意に可なり』)。欲が無ければ怒ることも少なくなるだろう。

 煩悩は遺伝・教育・内省によりその顕れ方が異なるであろう。私は、煩悩の顕れ方は遺伝によるものが一番大きいと思っている。人の性格は生まれつきのものであるから絶対変わらないが、人の行動は教育や内省により変わり、一見その人の性格は変わったように見える。しかし、何かの折に突然その人の地が顕れて周囲の人を驚かすことがある。

 人は生きている限り煩悩を捨て去ることは絶対にできない。しかし、家庭や学校や社会による教育と、その結果身につく自己内省に基づく努力により、煩悩の顕れ方が変わってくる筈である。

 『人間(ひと)は死んでもまた生き続ける』(大谷暢順著、幻冬舎)に、“仏教には「輪廻転生(りんねてんしょう)」という思想があります。・・(中略)・・この輪廻思想は、仏教が開かれる前からインド人のなかにしみ込んだ教えです。・・(中略)・・キリスト教の場合は、人生は一度きりで、死者は最後の審判の日に復活して神の裁きを受け、神の国に受け入れられるか、地獄に落ちるかのどちらかとされています。イスラム教もほぼ同じで、ユダヤ教のほとんどの宗派は、死者は土にかえると考えられているそうです”とある。

 輪廻転生の思想では、人は死んだら地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の何れかの世界に生まれ変わるとされている。この思想では、「前世→現世→来世」の繰り返しは死後も続くものであり、今生きている人は前世の宿業を負って現世を生きているとされている。現世で畜生と同じような生き方をした者は、死後、畜生に生まれ変わることになっている。

人間は死んだら何かに生まれ変わるが、この生まれ変わりは「意識(または自分自身では気付くことが出来ない意識(=無意識)」の継承と前世・現世の意識・無意識の共鳴・共振である、と私は考えている。意識・無意識は時空を超越し、広大無辺に自由自在・融通無碍である。これは霊魂でもあるが、意識・無意識は人間だけが持っているものである。

私は、意識・無意識について前世・現世間の共鳴・共振があるゆえに、畜生以下に堕ちた人も現世の人との間で意識・無意識と共鳴・共振して上位に引き上げられることもあり得ると考えるものである。大本山永平寺が出している『修證義』には「設(たとい)天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、感應(かんのう)道交(どうこう)すれば・・(中略)・・帰依(きえ)し奉(たてまつ)るが如(ごと)きは生生世世處處に増長し、必ず積功累徳し」とある。

 ところで、私は人間の集団である国家も意識・無意識を持っており、それは政府が変わるたびに生まれ変わるものであり、国家にも煩悩と輪廻転生があると考えている。国家としての煩悩ゆえに国家は他の国家を見下したり、他の国家に対して攻撃的になったり、利害を調整して協調的になったりする。


 日本人(但し、日本では人が死んだ場合、仏式の葬儀を営む人が圧倒的に多いと思われるので、集合的に「日本人」と言う。)は古来、輪廻転生の思想をもって後世へと命を繋いできた。日本人は「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つの最も基本の煩悩を遠ざけつつ、これまで歩みを進めてきた。日本は明治維新・大東亜戦争の終結・政権の交代のたびに大変化或は小変化で生まれ変わったが、私は、日本人が聖徳太子や聖武天皇について正しい教育を受け、日本が神武天皇以来の皇統を守り続けるかぎり、日本は生まれ変わるたびに「天上界の上位」に上って行くことだろうと固く信じている。