2018年7月26日木曜日

20180721「渡来氏族」について(5)



日本人のY染色体DNAは、日本人に特有のY染色体DNAハプログループD1b(注:その占有率は沖縄で55.6%・九州で26.4%・青森で38.5%・北海道日高アイヌで88%)の他、上記「渡来系弥生人」及び中国大陸・朝鮮半島から移動してきた人々のY染色体DNAであると考えられるY染色体DNAハプログループO系統が現代の日本人のY染色体DNAの殆どを占めている(Wikipedia)。

縄文人の特徴は二重瞼・えくぼ・シミ・湿った耳垢・ちぢれ毛・彫りの深い顔立ち・酒に強いなどである。日本人は混血の多さゆえに人々は色々な容貌・体つきをしている。何世代にも亘って血が混じり合って来たのでたとえ縄文人の特徴が無い容貌であっても日本人は身体の何処かに縄文人の要素を持っている。上述「渡来氏族」の人たちの長など主だった人たちは、縄文人の要素を持っていた人たちであったに違いない。

戦後特別永住権を得ている在日の人たちでも二重瞼の人たちがいる。その人たちの血にはもしかして古代朝鮮半島で「倭人」の血が混じっていたかもしれない。朝鮮半島には僅か4%という低頻度であるが、Y染色体DNAのハプログループD1bの人々が存在している(Wikipedia)。

この4%と言う数字には朝鮮半島に遠征した秀吉軍の一部の残留者や、明治時代以降韓国に渡り其処で没した日本人のDNAによるものが含まれていると考えられる。また白村江の戦いの後日本に帰れずやむなく朝鮮半島に残留した人たちも居たであろう。その人たちのDNAも含まれているに違いない。上述のとおり科学的な説明は出来ないが、生物学的な「群れ」の現象により戦後朝鮮半島から日本に移住した在日の人たちがいたかもしれない。

 頼山陽は詩集『日本楽府』の中で、西暦663年に白村江において42千人の日本軍が唐・新羅連合軍に大敗し、百済を復興させることが出来なかった史実をもとに『百済を復す』と題する詩を収めている。その詩の最後の行に「唐と日本とどちらが得をしただろうか。百済から天皇を慕い、天皇に忠義を尽くす人たちが海を渡って日本にやってきた。彼らは天皇の臣民となって何世代にもわたり皇室を護ってきたのだ」という趣旨の言葉を述べている。

 翻って戦後の日本には日本に残留した元日本国籍の外国人や、不法に入国した外国人が非常に沢山いる。それらの人々の多くは日本で特別永住権を得ている。一方で労働力不足を補うため、日本政府はブラジルなどから非常に多くの日系人の「出稼ぎ」を歓迎している。このため日系人の血を引く子孫も含め日本には非常に多くの日系外国人が居住している。上述頼山陽の詩にあるように彼らも何世代か後には純粋の日本人になり、皇室を護る力になることだろう。日韓・日中の間には愛国心教育の影響もあって両国家間にしこりがある。しかしこれは両国政府の確固たる未来志向により乗り越えられなければならない。(続く)


2018年7月25日水曜日

20180721「渡来氏族」について(4)



ではなぜこのような現象が何故起きるのだろうか? 私はそのことを考えるキーワードとして「量子のもつれ」・「マヨナラ粒子」・「生体間シグナル」・「細胞間シグナル伝達」・「生体シグナル伝達」・「コロニー」のどの科学的用語と仏教用語の「縁」などを挙げる。しかしその用語を挙げてみたところで「群れ」が起きる確たるメカニズムは分からない。

人間とイルカの間、飼い犬と飼い猫の間などように、異生物間でも互いに親和することが出来る。この異生物同士はお互いに何かのコミュニケーションが出来ている。なぜそういうことができるのであろうか? 私は、両者の間で何か量子力学的なメカニズムが作用しているに違いないと思っている。

縄文人の骨100体の奥歯からY染色体DNAを取り出すことができた。その結果縄文人はチベット人・アンダマン諸島人の祖先と共通のY染色体DNAハプログループD集団に属していることが分かった(Wikipedia)。

 縄文人の祖先は人類の分岐系統の中で韓国・中国の人たちの共通祖先より1万年ほど前にヨーロッパ人の祖先と分岐していた。自然界では同一種類の生物の中で後に分岐した生物つまり「後発」の生物の方が、特定の環境下ではその分岐以前の生物つまり「先発」の生物より生き残る力が強い。しかし「先発」・「後発」両生物共にそれぞれ新たな環境に適応しながら進化を続けている。生物は他の生物を捕食しながら繁殖し、自分の種を遺す力の強い方、或は自分の種を遺すことが容易な環境にある方が生き残ってゆく。

縄文人の祖先の集団は自分たちより1万年ほど後に分岐した人々の祖先の集団に圧迫され、チベット・アンダマン諸島などの辺地に追いやられた。中国では現在でもチベット人やウイグル人たちの自由が奪われている。縄文人の祖先たちがカザフスタン南部から旅立って大陸を移動中、1万年ほど後に分岐した人々の祖先の集団に圧迫されたに違いない。その結果チベット・アンダマン諸島などのその辺地以外では父系の遺伝子であるY染色体DNAハプログループDは途絶え、大陸には母系の遺伝子(ミトコンドリアDNA)のみ残っているのである。日本列島に辿りついた縄文人の祖先たちは幸運であったのである。

縄文時代末期以降、散発的に少人数ずつ日本列島に渡って来た「渡来系弥生人」と縄文人との間では衝突はなく両者の間で混血が進み、後に「倭人」と称せられる人々の集団が現れた。初期の「渡来系弥生人」は、元は長江中流域で漁労・稲作(ジャポニカ種)の長江文明を築いていた人々であった。紀元前400年から紀元後100年までの間、長江中流域の山岳地帯にある滇池のあたりに築かれていた滇王国や現在のミャオ族の文化・習俗に似たものがある。このことは彼らが「渡来系弥生人」と同じ種族であることを裏付けるものである(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』)。(続く)



2018年7月24日火曜日

20180721「渡来氏族」について(3)



弥生時代に九州北部から「倭人」と呼ばれた人たちが朝鮮半島に進出して行った。「倭人」とは縄文人と「渡来系弥生人」が混血した人々である。それは前述「渡来氏族」と呼ばれている人たちが日本に渡って来た時から何世紀以上も前のことであった。

初期の「渡来系弥生人」は長江中流域で漁労・稲作の文明を築いていた民であった。彼らは4200年前に起きた地球の気候の寒冷化の影響を受けて北方から日本に南下してきた狩猟・畑作の民に圧迫されて一部は中国雲南省の山間部に逃れ、一部は長江河口から海を渡って九州南部に、一部は長江河口から海岸伝いに北上し、山東半島・朝鮮半島南部を経て九州北部にやって来た。縄文人たちは彼らと争うことなく混血した。彼らは島伝い・海岸伝いで徐々に島根県の淀浜・福井県の鳥浜・紀伊半島南部辺りまで移動して行った。(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』)。

時代が下がって日本列島側では弥生時代以降大和王権が確立されるまでの過程にあったとき、上記「倭人」や未だ縄文人のままであった人々と古代中国の春秋・戦国時代戦乱から逃れて朝鮮半島・中国大陸方面から移動してきた人々が居た。彼らも「渡来系弥生人」である。こうして縄文人と「渡来系弥生人」の間で数世紀以上にわたり混血が進み、縄文人は「倭人」に変わって行ったと考えられる。「倭人」は「渡来氏族」として渡来した古代朝鮮人・古代中国人との間でも混血して行った。江戸時代までに中国の呉越地方から日本にやって来た有能な人々が沢山いた。戦前も戦後も日本に来て日本人と結婚した外国人は多い。

戦後ヨーロッパ系やアフリカ系の人たちとの結婚が増えている。日本に帰化したスポーツ選手や力士も多い。これが日本人のDNAの非常な多様性を示す理由となっていると考えられる。将来その傾向は加速されるだろう。将来の日本人のDNAはさらに多様になるだろう。日本人は雑種である。雑種は生き残る力が強い。

私は、「渡来氏族」は元「倭人」が多い集団であるとしている。そうすると古代における「渡来氏族」は現代における日系ブラジル人など日本に出稼ぎに来ている日系人たちと似ている。日系ブラジル人たちは日本人の血を引いているが、言語・文化・習慣が日本人と全く違っている。彼らは国籍上でも「外国人」である。「渡来氏族」も同様である。しかし両者の違いは、日系ブラジル人の日本への入国は一世紀以内の「里帰り」であるが、「渡来氏族」の「里帰り」は数世紀を経た「里帰り」であると言う点である。

「渡来氏族」は「外国人」であっても、海を隔てた「倭人」同士お互いに惹きあうものがあったに違いない。生物は同じ「種」同士で群れる。野鳥もイワシも大きな群れになり、方向を変えるときは一斉に動く。人の手によって駆除されているアリたちは駆除により次第に少数になってくると一か所に集まり大きな群れを為す。後漢の末期前後朝鮮半島が平和で無くなってきたとき、非常に多数の元「倭人」やこれに所縁がある人々が平和で将来への希望に満ちている母国日本に「里帰り」したと考えられるが、これは上述の生物学的「群れ」現象であるということではないだろうか? (続く)



2018年7月23日月曜日

20180721「渡来氏族」について(2)



当時の総合商社は古代中国からも機織りの人材を引き入れ、ある豪族の保護下に入れた。そのことがうかがえる短歌が『万葉集』に載っている。それは巻七・一二七三の柿本人麻呂の歌「住吉(すみのへ)の波豆麻(はづま)の君が 馬乗衣 さひづらふ 漢女(あやめ)を据(す)ゑて 縫へる衣ぞ」である。「さひづらふ」とは異国の言葉をしゃべっていることである。

 古代中国の歴史書で「倭人」とされている人々は、縄文時代末期以降に縄文人と「渡来系弥生人」が混血或は混血しつつあった人々のことである。「渡来系弥生人」の第一陣は紀元前1000年前後に長江中流域から九州南部に渡って来た人々であったであろう。その後古代中国の春秋・戦国時代に戦乱から逃れ、自分たちの生き残りをかけて九州北部に渡ってきた人々が居たと考えられる。「渡来系弥生人」は数百年間にわたり少人数ずつ九州や本州西部にやって来て、徐々に日本各地に移動し縄文人たちとの間で次第に混血して行き「倭人」になって行ったと考えられる。

 日本人の先祖は縄文人である。縄文人は北方系(樺太経由)・中央系(朝鮮半島経由)・南方系(かつて存在していたスンダランドから丸木舟に分乗して台湾・沖縄など島伝い経由)の三方面から日本列島に辿りついた人々が、何千年以上と言う非常に長い年月の間に互いに混じり合って成立した人種である。その元は約5万年前に中央アジアカザフスタン南部からマンモスなど捕食対象の動物を求めて複数のグループに別れ、大陸を移動して行った人々である。上記3ルートの先祖は同じであるが話す言葉は長い年月の間に違って行ったであろう。

縄文人の先祖たちは日本列島に辿りつくまでの間に動物の骨で縫い針や釣り針を創作し、石器を改良して丸木舟を作るため丸型石斧を創作し、煮炊きのため大釡の土器を創作した。彼らはものづくり・協同作業・意志疎通のため様々な創意工夫を凝らし、ノウハウを蓄積し、社会的な進化を遂げることができた。その結果彼らは上述のように3方面から「エデンの園」のようなこの日本列島に辿りつくことが出来た。そして混じり合いながらお互い知識を交換し、個々の能力を高め合い、社会的に進歩することが出来た。

日本列島という大陸から離れた孤立の島々に辿りつくまでの過程で、人類として社会的に進化した人たちが縄文人の先祖であった。互いに協力し合い、新たな道具を創り出すことが得意な人々が縄文人であった。縄文人は16000年前から3000年前までの13000年間もの長期間、この日本列島で平和に暮らしていた。日本列島だけにしか存在していなかった縄文人という人種は世界的に観て稀有であり、特殊な人種である。このような縄文人の特質がDNAに深く刻み込まれていて、現在の日本人に受け継がれているに違いない。(続く)



2018年7月22日日曜日

20180721「渡来氏族」について(1)



 古代に東漢氏・西漢氏・秦氏など「渡来氏族」と呼ばれている人たちが朝鮮半島から海を渡って日本にやって来て、朝廷に仕え、学問・芸術・産業の発展に貢献した人たちが居た。これはあくまで素人の思い付きであるが、私は、彼らの長を含む一部は当時の日本から見た純粋の「外国人」では無く、「倭人」であったのではないだろうかと思っている。但し当時の人たちはそのことを認識することは出来なかったに違いない。そういう観点で私がこれから書くことは恐らく嘲笑され、無視されるだろう。或は怒りを買うかもしれない。

東漢氏・西漢氏・秦氏などは自分達の先祖が中国の後漢の霊帝・献帝・秦の始皇帝であるとか、或は百済王・高麗王であるされている。近年の歴史研究結果では、出自をそのように見せることは自分達の存在が日本で認められるようにするためであったとされている。

しかし彼らの力なしでは『日本書紀』は完成されなかった。蘇我氏の滅亡など政変も彼らの武力が背景にあった。私は、「渡来氏族」とは一体何者かと想像をたくましくして考えた。私は、「渡来氏族」は現代の全国展開の商社のようであったと思う。その本社は京都にあり、営業分門は学問・芸術・産業・警備保障などの分野別に複数あって、末端組織が全国に展開していた。そのような管理運営形態で各地の豪族のニーズに応え、朝廷の政治に貢献した。そのように私は考えている。

『日本書紀』には「渡来氏族」が「人夫(たみ)百二十県」や「党類(ともがら)十七県」を率いて来日したと書かれている。しかし実際は「渡来氏族」の長が知識・技能を有する人たちを連れて日本に渡って来て、各地の豪族の下に配置し、豪族配下の民を教育・訓練して自分たちの組織に組み入れた結果が、『日本書紀』に記述された「人夫(たみ)百二十県」や「党類(ともがら)十七県」であると考えられる。しかも日本に渡って来た彼らの多くは元々「倭人」や「倭人」の血を引く人たちであったに違いない。

もし実際に何千人・何万人もの「外国人」が大挙して日本に渡来してきたら、日本人との間で衝突が起きたであろう。そういうことは起こらなかった。以前私は、後漢滅亡後何千人・何万人もの人たちが大挙して日本に渡来して来たと思っていたが、そうでは無かったのだ。

なぜそういうことが出来たのか?当時の日本では大伴氏・佐伯氏が天皇の親衛隊として「渡来氏族」に睨みを利かせていた。一方で、地方の豪族たちは朝鮮半島の元「倭人」たちと交流して利益を得ていた。朝廷が「渡来氏族」と手を結び日本の発展に利用しようとしたとき、その仕組みに乗ることが地方の豪族たちにとって好都合であったに違いない。だから地方の豪族たちは朝廷の指示に従い「渡来氏族」による事業に協力した。私は、部民という知識・技能集団はそのようにして生まれ、『日本書紀』に上述のように書かれたのだと思っている。(続く)



2018年6月26日火曜日

20180626人と人の間・国家と国家の間における対立・紛争の根本原因



 夫婦の間・親子の間・人と人の間・国と国の間などでいろいろ争いが起きるのは何故だろうか?争いの原因には色々あるが、私は次のことが争いの根本原因であると考えている。
 一 自分を自分以外の人と見比べること
 二 甘えの気持をもつこと
 三 自分の世界と自分以外の人の世界の境界を尊重しないこと

 人は「欲」があるから自分を自分以外の人と見比べて、自分の優位を確保しようと思う。人は「欲」があるから「甘え」は許されると勝手に思う。人は「欲」があるから自分の世界と自分以外の人の世界を混同させてしまう。

 ある日私は上司から「人は他人を差別したがる」と言われたことがあった。これは真理である。「人は他人を差別すること」によって自分自身を満足させている。例えば自分の持ち物を他人に見せて自慢する気持ちは、「自分を自分以外の人と見比べること」から起きるし、自分を他人に認めてもらいたいから起きるのである。

 例えば遺産相続について、法律に則り自分の分け前を主張するのは、「甘えの構造」から来ている。兄だから・弟だから・姉だから・妹だからという気持ちで自分の主張は許されると思うと兄弟姉妹間で軋轢が起きる。これは世界観の違い・社会への関わり方の違い・経験の違いなどにより起きている。

 国家と国家の間でも上記三つのことは対立・紛争・軋轢の原因となっている。国家は一つの生物のような存在である。国家は国際社会の中で存続し・繁栄・発展の願望を持っている。このため法の支配を無視して武力で隣国の領土を奪取しようと試みたり、自国と敵対する国の中に住んでいる自国民を利用して、その敵対する国の中に自国に都合がよいような土壌を醸成させるように工作をしたり、敵対する国を貶めるような世論を醸成させるために国際社会の中で宣伝活動・ロビー活動を行ったりする。

 微生物・動物・植物・あらゆる生物には「自存力」が備わっている。「自存力」は利己的な力である。人にも国家にも「自存力」が作用する。人と人の間・国家と国家の間における対立・紛争・軋轢は決して無くならない。これが現実である。現実は寒々としている。

 しかし人間は理性と愛の精神をもってこの対立・紛争・軋轢をなるべく小さくするように努力している。対立・紛争・軋轢の現実と向き合いながら「共通の利益」を見出せば、その現実は暖かいものになるだろう。夫婦の間・親子の間・人と人の間・国と国の間などで。

2018年6月18日月曜日

20180618 Facebookで思ったこと



 初め私は「情報収集」・「友人との触れ合い」・「旧い友人との連絡」を目的としてFacebookを始めた。ところが私の思想信条に関することを投稿するとき、その「投稿に好意を持つ人」・「その投稿を嫌悪する人」・「その投稿への対応に苦慮する人」がいる。私が誰にでも受け容れられるようなことを投稿するとその投稿内容は全く無味乾燥になる。自分が人生の晩期にあるので何か教訓的なことを投稿しようとするとその材料選びに悩む。そういうFacebookは私にストレスを与える。

 思想信条に関することを投稿することができるものは、公開しているブログである。私はFacebookで一部の友達の投稿に「いいね」をするが、今後私は花・風景などの写真・誰にも共通に有益であると考えられる情報だけを投稿することにする。

 私は携帯電話(スマートフォン)の番号をFacebookのアカウントに利用していた。ところが携帯電話(スマートフォン)でFacebookを開こうとしたとき、「ウイルスに侵されている」という警告のメッセージが出た。そこで私は携帯電話(スマートフォン)のFacebookアカウントを削除した。友達申請をしていない人について「リクエストが承認されました」とメッセージあり、その人が実際に友達になっている。その人の基本データや投稿などを見ると別に問題がなさそうだ。しばらく削除せず様子を見ようと思う。勿論私はその人の投稿にはリアクションをしない。今後携帯電話(スマートフォン)ではFacebookを利用しないことにした。

 Facebookは誘惑に満ちている。最近Facebookで個人のデータが第三者に知らされる、というプライバシーに関することが問題になっていた。今後はFacebookに深入りせず、友達の投稿の閲覧だけをFacebookの主目的とする。現に、私の友だちの中にはそういう人が何人かいる。Facebookを再開して何人かの旧い友人と連絡を取ることができた。それで十分である。

2018年5月21日月曜日

20180521女流漢詩人江馬細香の作詞『自画に題す』


 私はある詩吟教室で月二回詩吟を教えている。「教えている」と書けば「上から目線」のように聞こえるが実はそうでない。私は19年前、この教室の前身である「詩吟を楽しむ会」というサークルを発足させ、詩吟の「指導者」としてその会を主宰していた。その会が始まったのは放送大学の同窓会で知り合ったIさんという一人の女性に、私がそういう会を作りたいと相談したのがきっかけである。その会は2年前私の希望で解散していた。

ところが元メンバーの中から「続けて欲しい」という希望が出た。1年前正式の詩吟教室として名称を私の雅号「信風」を冠した会が再開された。私は「信風会」の「先生」となり、これまで詩吟についてそれまで学び身につけてきたものすべてを伝えるためいろいろ工夫・努力している。私は「先生」と呼ばれることを認めているが、それは私の肩書ではない。私は肩書を全く必要としていない。「先生」はその会の中での通称である。

今月は教える吟題を江戸時代の女性漢詩人・江馬細香の『自画に題す』にした。従来詩吟といえば男性の作によるものばかりを教えていたが、今回初めて女流漢詩人の作による詩の吟詠を教えることにした。ただ、漢詩の詠い方の節・調べについてはメンバーが個々に考えて独自のものを作ってもらうことにした。勿論私はメンバー個々にそれぞれ主体性を持ってもらうように注意を払いながら、メンバーが困惑しないように手助けしている。

「江馬細香(天明744日(1787520日)〜 文久元年94日(1861107日))。江戸時代の女性漢詩人、画家。美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。本名は多保。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の愛人であったことでも知られる。」(以上、ウイキペディアより引用。)

江馬細香は頼山陽の恋人であり弟子であった。二人の出会いは江馬細香が27歳、頼山陽が34歳のときであった。頼山陽はそのとき離婚して独身であった。頼山陽は美濃を遊歴中江馬細香の才媛ぶりを知り、細香を自分の妻にしたいと思って細香に会った。しかし細香の父親・江馬蘭斎は自分の細香が山陽の妻になることを望まなかった。しかし彼は自分の娘が山陽の弟子になることは許した。山陽は細香を自分の妻にしたいと申し出ることなかった。その後京都に居た山陽と岐阜の大垣に居た細香は何度か行き来していたらしい。

先日テレビで桑名から大垣に至る鉄道の旅の番組が放送されていた。山陽はその大垣から舟で桑名まで行く情景を『舟大垣を発し桑名に赴く』と題する詩にまとめている。当時も川幅は広くなかっただろうし、舟もせいぜい2、3人しか乗れない小さな舟であったと思われるが、きっと楽しい川下りであったに違いない。

 江馬細香は後に以下の詩を作った。私はこの詩を教室のメンバーがそれぞれ自分なりに節をつけて詠うことを求めた。皆はそれぞれの思いを籠めてこの詩を吟じよう、良く詠おうと努力している。こういうことは普通の詩吟教室では行わない。私は「先生」であるので一応範吟を示し、URL http://takaban.seesaa.net/article/458969184.html
 でインターネット上に公開している。

題自畫 江馬細香

孤房弄筆歳年移
一誤生涯何可追
聊喜清貞與渠似
幽蘭痩竹寫寒姿

自画(じが)(だい) 江馬(えま)細香(さいこう)

孤房(こぼう)(ふで)(ろう)して歳年(さいねん)(うつ)
(ひと)たび生涯(しょうがい)(あや)まる(なん)(お)(べ)けんや
(いささ)(よろ)こぶ清貞(せいてい)(かれ)(に)たるを
幽蘭(ゆうらん)痩竹(そうちく)寒姿(かんし)(うつ)

 この詩の意味は次のとおりである。(公益社団法人関西吟詩文化協会がインターネット上に公開しているものを引用させて頂いている。)
「孤独な生活の中にあって絵筆を握り幾年かの歳月が過ぎ去ってしまいました。生涯にひと度、普通の婦人とちがう道をえらんでしまったからには、どうして取り返しがつきましょうか。
 私がわずかに喜びとするのは、ひとすじに志を守り通してきたことが、ちょうど蘭竹の清らかさに似ていること。ですからひっそりした蘭や痩せた竹の冷たいまでに純粋な姿を好んで詩や画に描くのです。」

 人の一生は長いようで短い。私たちは今から190年ほど前に生きていた男・頼山陽と女・江馬細香の交流に思いを馳せながら、今を生きているのである。

2018年5月1日火曜日

20180501長く王臣と為りて王室を護る



 「長く王臣と為りて王室を護る(長爲王臣護王室)」は頼山陽の作詩『百済を復す(復百濟)』の最後の句である。渡部昇一の『古代史入門』(PHP研究所発行)に、「頼山陽は日本の通史を一人で書いた最初の人である」「頼山陽は日本の歴史の中で詩になるような事件を六十六取り上げて、これを見事な楽府体の詩にした」とある。

 下記URLはその詩の吟詠である。

 
 西暦663年、日本が百済(朝鮮半島の南西部の国)を救おうとして800隻・42千人の大軍を派遣して、百済軍5千人と共に唐(当時の中国)と新羅(朝鮮半島の南東部を支配していた国)連合軍と白村江で戦い、惨敗した故事にちなんで、頼山陽が上記の詩を書いた。

 国が敗れた百済から何千人という数の人々が日本に渡航し、学識・経験を有している者は当時国政を担っていた朝廷に仕えて朝廷を支えた。彼らは氏姓制度の中で天皇から氏姓を賜り、その子孫は沢山の名字の家々に分化していった。それらの事実は日本の歴史書『日本書紀』に記録されている。頼山陽はそのことを詩にしたのである。

 人々のそれぞれの出自の多様性は弾力あり、活力あり、柔軟性がある社会と文化を育む。日本では神武天皇以来の男系の皇統が維持され、第36代孝徳天皇の御世、西暦645年に初めて元号が定められ現在に至っている。この天皇を中心とする伝統が日本の社会と文化を一層豊かで安定したものにしている。

 ある特定の思想・信念のもとにそのような日本の有り様を好まず、外国の勢力と連携してでも今の政権を打倒し、自分たちが理想とするあらたな日本に作り替えたいと考えている人たちがいるようである。しかしそれは日本の社会と文化の弾力・活力・柔軟性がもたらす一つの現象である。もし其処にいろいろと矛盾が大きくなれば、中庸に向かって自然に修正されることだろう。其処が日本の良いところである。

 「偽装保守」と批判されている籠池氏に影響を受けたのは一時名誉校長になった昭惠夫人だけではない。籠池氏の理想に共鳴し小学校建設のため多額の寄付をした人たちだけではない。籠池氏側だけが「正義」であり安倍政権側を「不正義」であると一方的に決めつけ、メディアの報道だけが正しいとして安倍政権打倒の為だけにエネルギーを費やしている野党の国会議員たちも同様である。

 男は『安岡正篤 易経講座』を書棚から出して再び読み始めた。今日本に求められるのは「中庸」である。元来日本人は「中庸」が好きである。天命に照らして「中庸」を得るため矛盾を正す必要が生じれば、日本人は命を懸けてでも矛盾を正すため「折中」しようとする。白村江の戦いも、戦後「太平洋戦争」と呼称変更された「大東亜戦争」も長い時間軸の中で評価すれば「折中」の動きであった。良かった部分がある一方で悪かった部分も必ずある。これからもそのような「折中」の動きが表れるかもしれない。そのときメディアによる報道に流されることなく、易経による正しい判断が先ず下される必要がある。



2018年4月15日日曜日

20180415 A beautiful landscape in Japan.


My friend is posting a beautiful landscape of Japan with a Facebook. This was linked to You Tube on the left column. He is shooting with a 4K camera as a hobby.



2018年3月21日水曜日

20180321自然葬


  
 自然葬に大変興味がある。親鸞聖人は九十才にて命終し、遺言で「某(それがし) 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」と言われたそうである。ところが親鸞聖人のお弟子さんたちやご子息たちは当時の習わしに従い親鸞聖人のお墓を造った。お墓に関し真宗の教えの根本は自然葬である。

 そもそもお墓は先祖の祭祀を行う務めがある者にとって宗教的精神の拠り所である。仏壇も同様である。自宅に仏壇がない人は帰郷したとき墓参する。人々は仏壇やお墓や慰霊碑などの前で手を合わせ、この世をこの世を去った人の魂と交流する。

 親鸞聖人は自分がこの世を去ったら京都の鴨川に入れて自分の身体を魚に与えよ、と遺言された。その親鸞聖人の教えを伝える団体・真宗では、手を合わせる的の第一は「南無阿弥陀仏(Na Mu A Mi Da Butsu」の六文字が書かれている紙面であるという。その的の第二は阿弥陀如来が描かれている図の掛け軸であり、三番目は阿弥陀如来の彫像であるという。これらはキリスト教の礼拝のシンボルである十字架と同じようなものであろう。人々はこれらシンボルを通じて絶対的な存在と自分の心が繋がっていると信じるのである。

 我が家にも実家にあった仏壇の中から持ち帰った様々な仏具を収めた仏壇がある。その仏壇はガラス扉付きの書棚の一角を改造してその一角の内側全面に黄金色の紙を張り詰めたものである。燈明はロウソクの形をしたLEDで光るものである。阿弥陀如来の掛け軸は天井に取り付けたLEDの明かりで照らされるようにしている。香炉の香りは火をつけない線香の束で代用している。その仏壇の中には読経の時叩く鐘その他の仏具を収めてあり、側面に故父母の法名軸(Ho Myo Jiku)掛けてある。奥に「先祖の霊」と書かれた厨子もある。本願寺(Honganji Temple)の僧侶たちが唱える読経をBGMのように流しながら、これらの「的」に向かって合掌し、この世を去った肉親たちと魂の交流をする。

 親鸞聖人の遺言のように、自分がこの世を去った後火葬にされた遺灰は自然に還すことが理想的である。自然葬を行った場合、初七日とか四十九日とか一回忌・三回忌などの年忌は仏教の儀式と僧侶による仏教講話の両方の意味があるが、これらの行事を執り行うことについての考え方を変える必要が出て来る。

 自分がこの世を去る前に、これらのことについて考え方を整理し、遺言として残しておく必要がある。自分の家系について系図とその中に埋め込まれた写真とともにコンピュータ上に遺されれば、子孫は自分の心の拠り所をしっかり持つことが出来るに違いない。

2018年3月13日火曜日

20180313森友文書改ざんの本質



問題の本質は何処に在るのか?

安倍総理・明恵夫人・日本会議所属政治家たちが、当初、森友学園の理念に共鳴した。これは全く「正しい」。

しかし国家観の貧弱・欠如した政治家たち・左翼系メディアがこれを攻撃した。これも民主主義国家の中では全く「正しい」。

しかし、しかしである。一般国民には「正しい」ことが必ずしも「分かりやすい」とは限らないのである。

森友決裁文書から政治家名・明恵夫人名などが削除されていた、という「文書改ざん」の事実は、一般国民には「分かりやすい」。

反安倍政権・倒閣を旗印に掲げる勢力はこの「分かりやすい」ことにほくそ笑み、一般国民を扇動している(かのように見える)。彼らは「分かりやすい」言葉で、「もっともらしい」ことを主張している。

今こそ、日本国民は「お花畑」での快い眠りから目覚める必要がある。特に若い人たちは、「自らの生存と安寧と繁栄」のために、この一点だけの為に、

国家観貧弱・欠如の野党若手政治家たちや朝日新聞などの左翼系メディアに対して、大いに批判の目を向けるべきである。

万世一系の天皇がいる「国体」・「君が代の国歌」「日の丸の国旗」あってこそ、「自らの生存と安寧と繁栄」が保たれているのである。このことはなかなか「分かりにくい」が、確かな事実である。

私のこの言論は、いずれ遠くない未来にこの世を去る「年寄り」のたわごとだろうか?