2012年10月19日金曜日


日韓関係の改善のために(60)「実学思想から開化思想へ(20121019)

 日本人は竹島問題やいわゆる従軍慰安婦問題などで韓国に対する心証を悪くしている。韓国人は誤った歴史教育を受けている影響で、日本人に自分たちの歴史認識を押し付けようとする。それは「克日」、つまり韓国は・韓国人は、常に日本・日本人の上に立たなければならないという感情の表れである。一方、日本人は韓国人に対して軽蔑の心を持っている人たちがいる。これでは日韓両国の間の溝は決して埋まらない。

明治の初期、日本は本当に真剣に、韓国(当時、李氏朝鮮)自身のため韓国に近代化を促していた。一方、李朝の下級官僚層の人たちの中にも自国の近代化を真剣に推進しようと行動した若い人たちがいた。日本人は日本と韓国の間の近代史について、正しい知識を持つ必要がある。一方、間違った歴史認識を押し付けようとする韓国人に対しては、日本人は毅然とした態度かつ紳士的で冷静な態度をもって接しなければならない。以下、 善花著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

“劉大致と呉慶錫のほかにもう一人、すぐれた開化思想の持ち主がいた。高級官僚の朴桂寿(パクキュス)である。朴桂寿は英仏連合軍が北京を占領した翌年の一八六一年、慰問副使として中国熱河を訪れ、西欧列強の文化・技術に接して触発されたという。・・(中略)・・朴桂寿は、明治維新勅語の日本政府が国交を求めてきたときには、拒否することなく国書を受理して修好を結ぶべきだと主張している。”

“朴桂寿は一八七三年には右議政(副総理)にまで昇進したが、日本と門戸を開き親交を結ぶことが国家にとっていかに重要であるかを一貫して主張した。また、すでに述べたように、日本の李朝への国書のなかに「皇」の字があることについて、日本は隋や唐の時代から朝廷、天皇を称しており、「皇」の字を用いることは、いまに始まったことではない、他国の者が干渉すべきではないと、御前会議の席上で説いたと言われる。朴桂寿は一八七七年に七〇歳で亡くなったが、彼のもとに出入りして影響を受けた青年官僚は多く、金允埴、金玉均、徐光範、洪英埴(ホンヨンシク)、朴泳孝、朴泳教(パクヨンギョ)などがいた。”

“朴桂寿は実学者・朴趾源の孫であり、祖父の学統を継承していた。・・(中略)・・朴桂寿の祖父朴趾源・(中略)・らは、北方の清国の首都燕京(北京の古称)から文物や技術を学ぶ」という意味から「北学派」と呼ばれた。北学派は商業の発展と技術導入を重視し、外国との貿易の必要性を説いたが、李朝末期に至ってもなお主流を形成することはできず、儒生の中でも政権内部でも少数にとどまっていた。・(中略)・北岳派の学者たちは、世界を「華」と「夷」に区分けして、日本人を「倭夷」、西洋人を「洋夷」として蔑視する固陋な朱子学者たちの排他的な世界観を批判し、諸国との対等な交流を求めた。・・(中略)・・実学は一種のプラグマティズム、功利主義的な立場に立つ学問だと言われるが・・(中略)・・実学は中人たちの技術的な学問に大きな可能性のあることを示すものであったため、実学を支持する中人知識人は少なくなかった。・・(中略)・・劉大致や呉慶錫もそうした実学の影響を強く受けた中人知識人であった。”(続く)

2012年10月18日木曜日


日韓関係の改善のために(59)「「反日」の構造」(20121018)

 ジャーナリスト西村幸祐氏が書いた『「反日」の構造』という本がある。これを読むとシナ(中国)や韓国の立場に好意を寄せているメディア人・メディア番組出演者たちが多いかということが分かる。日本の一般大衆の心情はそのメディアに影響を受けている。日本が生きのびる・生き残る「自存」のため、この状態を無くさなければならない。この状態を無くすためには、まず日本人が自らの手で新しい憲法を手にすることが必要である。

「心」を正すにはまず「形」を正さなければならない。日本・日本人が本来あるべき姿・形に戻ることを目的とした新しい日本国新憲法を制定すると同時に、戦後アメリカによって押しつけらえられた現行憲法を廃止する。終戦後衆参両院の議決で廃止した教育勅語を復活させる。皇統維持のため旧皇族の皇族復帰を実現する。周辺国を「夷」と見なす「中華思想」まる出しの国名である「中国」とわざわざ尊称していることを止め、「シナ」とカタカナ表記で呼称することを宣言する。このように先ず形を改めれば、日本人はメディアによる悪い影響を受けなくなることだろう。

日本の一般大衆は自分たちの身に何か危険が迫って来ないと、天皇がいて水資源・海洋資源・森林資源に恵まれた「豊葦原の瑞穂の国」の民であることの有り難さに気付かない。尖閣諸島周辺に石油が出るという話を聞いて、シナ(中国)は急に奄美・沖縄・八重山・尖閣は元々シナ(中国)の領土であるとしてこれを「復国」させるという国家戦略を定め、実際にその国策に沿った行動を起こしている。その国策の実現の手段として、琉球王がかつてシナ(中国)皇帝の臣下であったことを持ち出し、琉球独立の思想工作をしている。

韓国も竹島を「独島」と呼び、歴史的に韓国固有の領土であったと世界に宣伝している。日本海も「東海」と呼ぶように国を上げて工作している。いわゆる従軍慰安婦問題の解決を「天皇(大統領ですら未だに「日王」と呼ぶ)による韓国民への謝罪」という形で解決させ、韓国・韓国民が日本・日本国に勝ったという実績を得たいと願望している。ロシアは我が国の北方領土を手放そうとしない。

シナ(中国)も韓国もロシアも皆自国又は自分たち支配者層(特にシナ(中国)の場合共産党指導者の政府)は自ら生きのびることに必死である。特にシナ(中国)支配者層は必死である。日本とシナ(中国)は軍事衝突の危機にある。万物はそれぞれ「個体」として生きのびたい・生き残りたいという「自存」の行動をする。日本人はそういう「個体」としての「日本国家」の「自存」が脅かされていることを意識しなければならない。「心」は「形」で定まる。日本は周辺国の「自存」行動に負けずに日本・日本人も自ら生きのび・生き残る「自存」の行動を起こす「形」を作る必要がある。決して躊躇してはならない。

2012年10月17日水曜日


日韓関係の改善のために(58)「開化・独立運動の志士・金玉均(続)(20121017)

 東京の青山霊園の外人墓地に金玉均の墓が建てられている。その墓碑には「ああ、非常の才を抱き、非常の時に遭い、非常の功無く、非常の死あり。」意訳して「ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残さず 無情の死」という意味の漢文「嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)」が刻まれている。

日本は苦心の末、明治9年(1876年)226日、ようやく日朝修好条規の締結にこぎつけた。これは、明治元年1219日、日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが日本の国書を携行して、明治新政府の樹立を通告しに行って以来実に8年間かけてようやく実を結んだものである。この日朝修好条約が明治9322日に発効して6年後、金玉均は自ら国王に申し出て近代化の道をまっしぐらに走る日本の実情をつぶさに視察した。福沢諭吉は金玉均を積極的に支援した。
本ブログ関連記事:201294日火曜日『日韓関係の改善のために(15)(20120904)』、2012926日水曜日『日韓関係の改善のために(37)「日朝修好条規の締結」(20120926)』及び2012927日木曜日『日韓関係の改善のために(38)「日朝修好条規の締結(続)」(20120927)』。

しかし、その後李朝は自らの力で近代化と自主独立の道を歩むことは出来ず、シナ(清国)の介入を招き、結局は日本の保護国とならざるを得なかった。日本は金玉均ら開化派若手官僚たちに期待し、さまざまな支援を行ったがリーダーの金玉均は志半ばで李朝を牛耳っていた閔氏一族が差し向けた刺客によって暗殺されてしまった。以下呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

“金玉均は一八五一年一月二三日(陰暦)、忠清道公州郡正安面広亭で、父金炳台(キムピョンテ)、母宋氏の長男として生まれた。・・(中略)・・金炳台はかねてより漢城華開洞に住む従叔父の金炳基(キムピョンギ)から、金玉均を養子にもらいたいとの要請を受けていた。・・父は息子の将来を思い、金玉均が五歳のときに金炳基家に養子に出した。・・(中略)・・金玉均は、早くから開国開化の思想をもっていたが、思想的な目覚めは一九歳の頃、劉大致(ユデチ)(大致は号で本名は鴻基(ホンギ))との出会いによると言われる。劉大致は訳官(通訳・翻訳を職務とする実務官僚)出だったが、医業で生計を立てていた。両班階級ではなくその下の中人階級に属していた。”

“劉大致の盟友に呉慶錫(オギョンソク)という訳官がいた。呉慶錫は毎年の朝貢使など使節の通訳としてたびたび中国との間を行き来した。呉慶錫は中国に行くたびに、列強の動きを中心として刻々と移り行く世界情勢の知識を得、・・(中略)・・日本との条約交渉の際には、李朝側の接見大官の通訳を務めている。”(続く)

2012年10月16日火曜日


日韓関係の改善のために(57)「開化・独立運動の志士・金玉均(20121016)

自ら国王に申し出て日本を視察し、触発されて独立党を結成した金玉均らが1884年(明治17124日(甲甲1017日)にクーデター(甲甲クーデター)を起こした。しかしそれはシナ(清国)の介入によって失敗に終わった。126日清国軍は1300名の兵力で王宮に侵入しようとし、兵力150名の日本軍と戦闘になった。そのいきさつは王宮を警護していた李朝側の兵士たちがその任務を果たさず、逆に清国軍に加勢しはじめたからである。日本軍は清軍を撃退したのち竹添公使の命令で撤収した。竹添公使と金玉均らは王宮を脱出し、公使館を守っていた館員たちも翌7日一斉に脱出し、仁川港から長崎に逃れた。

金玉均は亡命先の日本で転々と移動し上海に渡った後、1894年(明治27年)328日、上海のホテルで李朝の閔妃の刺客にピストルで撃たれ落命した。その遺体は(以下Wikipediaより“”で引用。)
“本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。福澤諭吉は、上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺住職寺田福寿に依頼し、寺田はただちに福澤の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを福澤邸に招いて営んだ。遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。甲斐軍治によっても遺髪、衣服の一部が日本に持ち込まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。現在、同じ場所に甲斐軍治の墓もある。さらに、犬養毅、頭山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔(イ・ジュンヨン)の書で以下が刻まれている。嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)”

以下に呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。金玉均は朝鮮の開国と独立をめざして活動し、43歳のとき暗殺され、さらに凌遅刑という刑に処された。今から120130年ほど前の朝鮮における人々の非道な、感情的に激しい行為は人間の形質の何によるものなのだろうか?同様に先のシナ(中国)にける激しい反日デモ・破壊・略奪行為も、人間の形質の何によるものなのだろうか? 日本人はそのようなことはしない。

“日清戦争以前の李朝で、国家の本格的な近代化と独立の急務を唱えて活動した政治勢力は、金玉均をリーダーとする青年官僚を中心に組織されたグループのほかにはなかった。このグループは独立党とも開化党とも称されたが、一八七四頃、金玉均が二三歳のときにはすでに結成されていたようだ。主要メンバーはみな金玉均より年下という。”

“政変時の清兵と朝鮮暴徒による略奪・暴行には、すざましいものがあった。鐘路付近の商店のほとんどが破壊・略奪の被害を受け、日本人家屋からの略奪が相次いだ。また、各地にまとまって避難していた日本人集団が襲われ、あちこちで婦女暴行や、殺戮の惨劇が惹き起こされた。”(続く)

2012年10月15日月曜日


日韓関係の改善のために(56)「一国二制度(続)(20121015)

「一国二制度」は、シナ(中国)における香港やマカオのように、公用語はシナ(中国)語でシナ(中国)の主権の枠組みの中で一定の自治や国際的な組織や活動を認め、経済については経済特区のように自由な活動を認める制度である。シナ(中国)は、このブログ2012104日木曜日『日韓関係の改善のために(45)「何世紀も変わらぬシナ(中国)の国家戦略」(20121004)』に書いたとおり、「琉球国复国运基本纲领(琉球国復国運動基本綱領)」と「琉球臨時憲法九條(草稿)」で明確に尖閣諸島・奄美諸島・沖縄諸島・八重山諸島を占領後は其処をシナ(中国)の一国二制度下に置くことを明言している。

民主党はこのことを知っていたはずである。民主党は6年かけて沖縄を一国二制度の下に置くという考え方を整理し、200878、正式に「民主党・沖縄ビジョン(2008)」として発表した。そして翌年9月、総選挙で政権を取った。その後の民主党政権の外交・防衛政策はどうであったか?普天間の問題、尖閣の問題等沖縄で起きた問題の背景には、シナ(中国)による様々な工作があったと考えざるを得ない。下に“”で引用する「民主党・沖縄ビジョン(2008)」には、「島津侵略」」「中国語の学習」、「集団自決」など反日本・親シナ(中国)的文言がある。

かつて「琉球」と呼ばれていた沖縄の人々の形質は、元々日本列島の他の地域の人々と同じように縄文人の形質を多く残している。しかし古代、沖縄には大和朝廷の力が及んでいなかった。江戸時代、薩摩藩が徳川幕府の承認のもと琉球に侵攻し、琉球王をシナ(中国)皇帝の冊封下に置いたまま薩摩藩主の臣下にし、琉球の外交・軍事は薩摩藩の承認のもと行うようにしていた。これは日本とシナ(中国)との間の交流の利便のためである。沖縄は明治時代になるまで日本の一国二制度のもとに置かれていただけである。民主党は薩摩藩が沖縄を「侵略」したと言うが、それは古代、大和朝廷が為し得なかった国家統一を江戸時代になってようやく完了しただけのことである。

 “沖縄は、このような独特な自然的風土の上に「琉球」という独自の国家を成立させ、日本列島とは異なる歴史をたどってきた。17 世紀初頭、島津侵略(1609 年)、琉球処分=沖縄県設置(1879 年)という経緯を経て段階的に日本社会のうちに編成された。”
“沖縄の地理的、歴史的、社会的特性を踏まえて徹底した英語教育を行うと共に、中国語などの学習も含め、沖縄の「マルチリンガル化」を促進する。”
“、「集団自決」に関する教科書検定問題など、戦時中の事実を忌まわしいことと隠してしまうのではなく、検定審議会等で再度検討するなど、歴史をしっかり事実として認識できるように、”
“日米の役割分担の見地から米軍再編の中で在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化を踏まえて、国外への移転を目指す。”

2012年10月14日日曜日


日韓関係の改善のために(55)「一国二制度(20121014)

李氏朝鮮が近代化に踏み切る過程の中で「自主の邦」や「合邦」論があった。「合邦」は「一国二制度」のようなものに近い。元々これは幕末の1850年生まれで 大正11年(1922年)に没した明治大正期の政治運動家・樽井藤吉が唱えた『大東合邦論』(1893年著)に端を発する言葉である。「合邦」は、日韓対等で「大東」という一つの国家を形成し、シナ(当時「清国」)と同盟し、西欧列強による侵略からアジアを防衛しようというものであった。樽井は「大東」国の盟主は天皇であるとはっきり書いている。

「戦後レジームからの脱却」と「東アジア共同体」を唱える政治家・知識人・言論人らがいる。彼らはシナ(中国)や韓国・北朝鮮の国家の「性格」というものを考えず、親中・親韓・反米思想を持っている人たちである。彼らは「武力」を忌み嫌っているように見える。「武力」を重視しなければ決して国は守れない。「東アジア共同体」では「性格」が合わぬ国家同士でも同じ屋根の下に暮らすことになる。そうなると必ずいがみ合いが起き、喧嘩になる。そのとき必要なのは「武力」である。上述の人たちは「性格」が合わぬ国家に、日本国憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することができると確信しているのだろう。「東アジア共同体」の中どの国が盟主なのか?シナ(中国)を恐れるアセアン諸国はどうなるのか?日本が盟主であるならばよいが、アメリカを外し、シナ(中国)にすり寄る思想では、日本という国も天皇も無くなってしまうことだろう。

シナ(中国)が彼らの勝手な国策である「尖閣諸島領有」、さらにその後「奄美・沖縄・八重山列島領有」を目指して積極的に行動を始めた背景に民主党の政策があるに違いない。民主党岡田克也、武正公一、渡辺周、岩本司、ツルネンマルテイ各氏は2002826日那覇市の沖縄県庁で「沖縄ビジョン」を発表し、沖縄の「自立・独立」と、鄧小平がはじめて提唱した中華人民共和国の政策である一国二制度の実現を目指した。NCで内閣府担当相だった枝野幸男も「中心的役割を演じた」という。(参考:ウイキペディア記事)

樽井藤吉が唱えた『大東合邦論』の中に次のことが書かれている。(インターネット Yorozubampo より引用。)
「合邦の称を大東となす」
「朝鮮の利はすなわち日本の利、日本の利はすなわち朝鮮の利なりいやしくも合すればあに彼我の別有らんや。」
「日本は朝鮮に勝ること遠し。これまた朝鮮の利なり国政の良否に至っては、その懸隔また弁を待たず。ゆえに、合同すればその国民の幸福は枚挙すべからず。しかして朝鮮王、永世の尊栄を保たんと欲せば、また日本と合同するに如かず。日本の皇統はもとより万世一系たり、国民忠誠の実想うべきなり。今これと兄弟(けいてい)の誼(よしみ)を結び、彼此並立すれば、その王統は日本国民の擁護するところとなり、もってこれを万世に伝うること、なお麻の中の蓬(よもぎ)のごとし。」

2012年10月13日土曜日


日韓関係の改善のために(54)「開化派勢力の分裂(続)(20121013)

 『日韓関係の改善のために(52)「開化派勢力の分裂(続)(20121011)』に引き続き、呉 善花著『韓国併合への道 完全版』を読みながら括弧(“”)で引用する。今回は120年前ほど前の李朝の状況についてである。日本の歴史の中では、そのようなことは絶対起きなかった。日本が止むに止まれず明治27年(1894年)清国と戦端を開き、その10年後ロシアとも戦争をした根本的な原因がそこにある。

“金弘集らは、閔氏勢力と連携し、清国に依存しながらの斬新的確信を図ろうとした。それに対して金玉均らは、清国に依存する閔氏勢力を排除することによって、清国の干渉をはねのけ、自主独立国家の建設と、日本の明治維新に見習った革新を一挙に推し進めなくてはならないと考え、そのために彼らは、清国に対抗する日本の後押しを必要とした。・・(中略)・・

何よりもまず、閔氏勢道政治を追放すること、そこへ向けて開化派勢力が一丸となることが必要だった。しかし清国が直接内政に介入してきたため、政権打倒は同時に清国をも敵に回すことになり、開化派官僚は大きく二つに分裂してしまったのである。

閔妃は壬午軍乱時に、忠州の閔氏一族の屋敷にかくまわれていた。閔妃は閔氏政権の復活とともに王宮へ戻ったが、その際に一人の巫女を伴っていた。・・(中略)・・閔妃は彼女を大いに気に入り、王宮まで連れて帰ると宮中に祭壇を設け、自らの安泰のために祈祷をさせるようになった。閔妃はこの王妃安泰を祈祷する巫女を宮廷の賓客として優遇した・・(中略)・・

やがて閔妃は、北廟(宮殿の北方にある)に王家直属の祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈祷する祭祀を行わせるようになった。・・(中略)・・祭祀のために、北廟には毎日、山海の珍味や各地の名産品が山のように運び込まれ、祈祷所は常にそれらの品々であふれかえっていた。国家財政は窮乏の一途をたどっていたにもかかわらず、この祭祀のために、国費は惜しみなく費やされたのである。・・(中略)・・北廟はほとんどシャーマニズム宗教センターと化してしまった。・・(中略)・・

ただでさえ乏しい宮廷の財政は、いきなりはじまったこの祭祀のために、ほとんどやりくりつかない状態に陥ってしまった。そのための穴埋めとして利用されたのが、税関収入であった。当時、李朝の税関は釜山、元山、仁川の三港に設けられていたが、この税関を統括・監督していたのが、清国から派遣された外交顧問のドイツ人メルレンドルフだった。閔氏政権の重鎮である閔台鎬(ミンテホ)の長男閔泳翊(ミンヨンイク)が、メルレンドルフと謀って税関収入の一部を王妃のために支出するようにしたのである。あきらかな不正である。・・(中略)・・閔泳翊もまた、自らの権勢拡大のために閔妃に取り入ったのであり、メルレンドルフもこの国の政治体質を熟知して、閔氏一族のために便宜をはかったのである。”(続く)

2012年10月12日金曜日


日韓関係の改善のために(53)「サムライの国・日本(20121012)

 日韓関係の改善のためには、先ず日本人自身がしっかりした国家観をもつことが重要である。日本は大東亜解放戦争に敗れ、有史以来初めて日本の国土はアメリカ軍により占領された。その結果、アメリカによって日本人の精神構造を徹底的に変えられる試みが多面的かつ徹底的に行われた。しかし、日本を知る一部のアメリカ人の働きにより日本の国体は維持され、日本固有の精神文化も大事にされた。日本はアメリカの力に屈しはしたが、気持ちの上ではサムライが戦っている相手の力量を見抜き「参った!」と降参したに過ぎない。降参しただけであるから日本はアメリカの良いところを徹底的に学び取った。戦後紆余曲折はあったが、日本はアメリカとの同盟関係を維持・強化してきたお蔭で、東日本大震災・福島原発事故発生を契機に、ようやく「日本が日本として本来あるべき姿・形」に戻ろうとする動きが活発になってきている。

IMF総会にシナ(中国)の財務相と人民銀行(中央銀行)総裁が欠席する。人民銀行総裁は14日に東京都内で講演の予定があったがそれもキャンセルした。一方、北朝鮮は9日の国連総会第一条委員会(軍縮)で、“米国の「核の傘」の下にある日本の非核三原則は欺瞞(ぎまん)にすぎない」「日本は北東アジアの平和と安定を危うくする がん 」「日本はアジア近隣諸国との領有権争いを抱えている」”と日本を非難した。これは同委員会で天野万利・軍縮会議代表部大使が行った、北朝鮮の核ミサイル開発を批判する演説に反論したものである。東アジアの雲行きが怪しくなっている中、ファンロンパイ欧州理事会議長(EU大統領)は、EU首脳会議における議長総括案の中で日本との経済連携協定(EPA)の締結交渉開始で「速やかな合意」を目指す方針を打ち出す方向で調整をしている。議長総括の原案は英紙ファイナンシャルタイムズのウエブサイトに掲載された。(以上、1010日付け讀賣新聞夕刊より要旨を引用。)

一方、日本とインドはLNG価格の引き下げについて連係することを合意した。日本はインドネシアの3兆円を超える規模のインフラ整備事業に協力することになった。大東亜解放戦争終結後インドネシアには日本の軍人たちが残留し、インドネシアの独立の戦いに参加し多数の日本兵が戦死している。彼らはインドネシア各地の英雄墓地に葬られ、生き残った日本兵はインドネシア国籍を与えられ、独立後のインドネシアの発展に貢献している。

 日本が進むべき方向は明確である。「性格」が合わない国家とは表向き親密なお付き合いはするが、その国家に決して気を許してはならない。日本が「一定の水準」まで気を許して付き合うべき国家はアメリカであり、ヨーロッパ諸国であり、インドやアセアン諸国であり、オーストラリア・ニュージーランド等大洋州諸国やカナダである。「一定の水準」とは、「価値観を共有しあうことができ、お互いに尊敬しあうことができ、さらに総合的なGive & Takeが行われる」関係を保つことができるような水準である。

2012年10月11日木曜日


日韓関係の改善のために(52)「開化派勢力の分裂(続)(20121011)

 京都大学iPS細胞研究所長山中伸弥教授にノーベル生理学・医学賞が贈られることになった。山中博士はイギリスのジョン・ガードン博士と共同で銅賞を受賞する。ガードン博士はカエルの細胞の初期化に成功し、山中教授は2006年にマウスを使った実験で、わずか4種類の遺伝子を細胞に入れるだけの簡単な方法で、皮膚の細胞を受精卵に近い状態まで若返らせること(リプログラミング)に成功した。山中教授は翌年(2007年)には人間のiPS細胞の作製にも成功している。

 iPS細胞を使って既にマウスの精子と卵子が作製され、その卵子が使われてマウスの子や孫も誕生している。この原理は人間にも応用可能で、慶応大学の岡野栄之教授らの研究チームは人間のiPS細胞から人間の精子や卵子のもとになる「始原生殖細胞」みられる細胞を作製することに成功している。人間の身体は60兆個の細胞でできているが、例えば落ちていた自分の髪の毛から自分が知らないうちに自分の子供が誕生するというようなことが起きかねない。非常に厳重な倫理規定と罰則規定を定めた法律の制定が急務である。

 日本人が創造性に富んでいる一つの理由は、江戸時代まで日本国の中に66の国があったということが考えられる。この点はシナ(中国)や李氏朝鮮とは違い、近代以前のヨーロッパ諸国や州ごと独自の法律があるアメリカ合衆国に似ている。もう一つの理由は、日本には「作り手」と「使い手」の間に心が通い合う「ものづくり」の精神文化があるということである。日本で生まれた「茶の湯」も「おもてなし」の精神文化そのものである

NHKのBS放送の3時間番組で「にっぽん微笑みの国の物語」という番組があった。130年前、アメリカ人のエドワード・モースは日本が近代化の過程で失われつつあった伝統工芸品を非常に数多く蒐集してアメリカに持ち帰った。その蒐集品を通じて今の日本人は失われつつあった日本の「ものづくり」の精神文化をあらためて自覚する機会を得ている。山中教授がiPS細胞の作製に成功したのも、この「ものづくり」の精神文化とは無縁ではない。

「ものづくり」は、子は親に、弟子は師に、後輩は先輩に学ぶことによって行われる。「ものづくり」は富や名声を得ることを目的としない。その目的は良いもの、立派なもの、価値のあるものをつくることであり、その目的を達成するため努力する。辛抱する。失敗に失敗を重ねても成功するまで頑張る。心血を注いで素晴らしいものを作り出し、客に喜ばれ、人々に称賛されることに喜びを感じる。山中教授が学んだ中学校では後輩たちが山中教授を誇りに思い、山中教授のように失敗してもくじけず、辛抱強く頑張りたいたいと言っていた。再び呉 善花著『韓国併合への道 完全版』よりで引用する。

“こうして新たな閔氏政権内部では、二つの開化派グループの対立がしだいに深まっていった。先に紹介したロシア人は、この両派の対立を次のような観点で眺めている。
「朝鮮政府に政変(開国と近代化/筆者注)をもたらした栄誉は、私に言わせるなら、カトリックの宣教師らでも、また法外な利己主義により一貫して評判を落とし続けたアメリカならびにヨーロッパの山師らでもなくて、偏に自らの垂範で朝鮮人に目を開かせ、最善の生活を提示した日本に帰せられる。

 ともあれ、八〇年代の政変期には朝鮮国民が二方向へ分裂している。その一方は、祖国の安寧のために現行の孤立体勢を解体し、その事業で既に経験を積んでいる日本を手本とし、その指導の下に祖国へ改革を導入することを必須と見る。もう一方には、旧体制および中国との同盟を擁護する勢力がある。これら両勢力は自らの理想を成就するための権力闘争を、等しく精力的に緩みなく繰り広げている」(ゲ・デ・チャガイ編/井上紘一訳『朝鮮旅行記』東洋文庫/平凡社)”(続く)

2012年10月10日水曜日


日韓関係の改善のために(51)「開化派勢力の分裂(続)(20121010)

 『古事記』編纂の太安萬侶(安万侶又は安麻呂)の墓誌に1300年前の毛筆跡があることがわかったという。これは墓地購入の証明書「買地券」というものだったらしい。『日本書紀』天智天皇元年九月天皇は百済の王子・豊璋(ほうしょう)に最高の位に次ぐ位を授け、安万侶の祖父の妹を妻にさせ、軍兵5000人の護衛をつけて百済に送り届け、百済の王にしたことが書かれている。安万侶の祖父は神武天皇の皇子の一人の血を引いている。

その豊璋は百済の復興にとってなくてはならぬ忠臣・鬼室福信(くゐしちふくしに)を、部下の讒言を信じて処刑してしまった。百済侵略の機会を窺っていた新羅は好機到来と判断し、唐(当時のシナ)と結託して百済を攻めた。日本は百済を救うため42千人の軍兵を送り唐・新羅連合軍と現在のソウルに近い白村江で戦ったが663年大敗した。その結果、何千人という百済人が日本に引き揚げてきて今の大阪その他各地に居住地と耕作田を与えられ居住した。百済からの引揚者は百済での地位や役職に応じ日本でそれぞれ地位・役職が与えられた。王族の子孫は陸奥国司などになったし、土木建築の技術者は大宰府などの防衛拠点に城を建設したし、学者は皇族の教育に携わったり、大学の学長になったりした。

築城については朝鮮式の八角形鼓楼の遺跡が福岡や熊本で発掘されている。滋賀県蒲生郡日野町小野(この)には亡命貴族・鬼室集斯(くゐしちしふし)を祀る鬼室神社がある。鬼室集斯は鬼室福信の子である。このように古代の日本と韓国とは非常に密接な関係があった。朝鮮半島から日本には百済からだけではなく高句麗や新羅からも非常に多くの人々が渡ってきている。皆、日本人になっている。1000年以上も経てば、今の日本人の血には多かれ少なかれ古代の朝鮮半島から渡って来た人々の血が混じっている。大東亜解放戦争後日本に帰化した朝鮮半島の人々の子孫も、将来完全に日本人になることだろう。

歴史は過去から未来まで何十世紀という長い幅で観るべきである。目先のことに右往左往して大局を見失ってはならない。そういう意味で、130年ほど前、今の韓国・北朝鮮内で朝鮮が「自主の邦(自主独立の国)」となるか、日本と「合邦(日本と一体化した一国二制度のような国)」になるかで激しい葛藤があったことを、今を生きる日本人・韓国人・北朝鮮人は知るべきである。再び呉 善花著『韓国併合への道 完全版』よりで引用する。
“清国の干渉強化と、それにつき従っていこうとする閔氏政権を前にして、開化派官僚たちは大きく二つに分裂した。金弘集、金允植、魚允中ら開化派は、干渉が強化されたにしても、従来どおり清国の影響下で近代化を推進していこうとする立場を明確にした。一方、金玉均、朴泳孝、徐光範(ソグアンボム)ら独立党は、清国の干渉を容認した閔氏一族につき従う開化派を厳しく批判し、あくまで清国からの独立を目指す近代化を強く唱えた。また、彼らが清国軍を引き入れ、その結果清国軍の駐留を招き、なおかつ大君院の拉致を容認したことに対しては、彼らを国賊とまで罵るようになっていったのである。”(続く)

2012年10月9日火曜日


日韓関係の改善のために(50)「開化派勢力の分裂(20121009)

 日本維新の会・橋下徹氏が竹島や北方四島を日本固有の領土であるとしつつも、「領有と管理」は別であるとして、海洋資源などの共同管理を呼びかける発言した。彼のこの発言を聞いてロシアやシナ(中国)は喜ぶことだろう。韓国は竹島を不法占拠して実効的支配をしているので、早速反発した。こういうことは東アジアが緊張している今のこの時期に、一国の政党の代表者として言ってはならぬことである。

日本人のお人好しの「友愛の海」的発想は非常に危険である。国家と国家の間は同盟国と雖もビジネスライクの「Give & Take」の関係で考えるべきである。あくまで独立独歩を貫き、決して「依存心」があってはならない。日本が生きのびるため、日本の国家は一人の侍(サムライ)のようでなくてはならない。人は人を知るように、国家は国家を知る。日本は元々デモクラシーの国であった。それゆえ日本はアメリカを知り、お互い「性格」が合うが故にアメリカとは「Give & Take」の協力をし合える。その関係を、血を分けた兄弟の如くに強化することは日本が東アジアで生きのびる最良・唯一の道である。

人間と同様、国家の「行動」は変わっても「性格」は変わるものではない。日本はアメリカに「降参」したが日本の「性格」は古代からずっと変わっていない。日本はアメリカの力に屈し、アメリカの力に敬意を表し、アメリカに学んだだけのことである。日本は何百年という長いスパンで冷徹に東アジアの状況を概観し、上述の自覚をもって東アジアにシナ(中国)が朝鮮半島を支配下に入れた一国二制度の大国家連合が誕生する可能性があるということを考慮に入れて、常日頃から日本が生きのびるための準備を怠りなくしておく必要がある。

明治の日本はかつて侍たちであった人々が国家の指導者層を構成し、彼らが当時の世界の状況を概観し、小国日本が生きのびるため決死の覚悟と先手を取る能力と気迫をもっていた。だから日本はどうしても避けることができなかった日清・日露戦争を戦い、これらに勝つことができたのである。

 韓国は北朝鮮を牽制するため射程800キロメートルのミサイルを保有することになった。西日本の一部は韓国のミサイルの射程内に入る。日本も北朝鮮を牽制するため射程2000キロのミサイルを西日本に配備する準備をしておくがよい。将来韓国が北朝鮮と統一国家になる可能性や、シナ(中国)が朝鮮半島を影響下に入れ、一国二制度のような連合国家になる可能性は十分ある。理由は朝鮮半島の国々はシナ(中国)を恐れつつも人々の名前は二文字か三文字、夫婦別称で中華・小中華という共通の潜在的、ときに顕在的文化があるし、最近の韓国・北朝鮮の動向を観ずると矢張り彼の国々は同類項だと思わざるを得ないからである。

明治天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ(四方の海にある国々、世界中の人々は皆兄弟姉妹であると思う今の世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろうか)」と詠われ、昭和天皇もアメリカとの開戦前にこの歌を引用され、戦争とならざるを得ない状況に至ったことを悲しまれた。日本は古来言霊の国である。シナ(中国)・韓国・北朝鮮とは精神文化の面で非常に異なっている。その点では日本は特殊である。

人も国家も「生きのびる」ため他人・他国と争いを起こす。スポーツで競い合うのではなく、人間同士・国家同士の争いは減らすことはできるが、皆無にすることは非常に難しい。故に国家は他国との戦争が起きないように常日頃から怠りなく準備をしておく必要があるのである。日本は言霊を大事にしつつもサムライの心構えを決して忘れてはならない。

 橋本氏の発言にはその準備が欠けている。サムライとしての心構えに欠けている。「日本維新の会」が政党としての「弱み」をもっているためあのような発言をしたのだろう。「日本維新の会」が日本の国家の弱点をよく認識し、その弱点を克服する道筋を示し、国民に奮起を促すのであれば頼もしい限りであるが、それが無い。非常に残念なことである。

さて130年ほど前、朝鮮が「自主の邦(自主独立の国)」となるか、日本と「合邦(日本と一体化した一国二制度のような国)」になるかということで激しい葛藤があったことを、今を生きる日本人・韓国人・北朝鮮人は知るべきである。再び呉 善花著『韓国併合への道 完全版』よりで引用する。(関連:このブログ2012928日金曜日『日韓関係の改善のために(39)「日朝修好条約締結後の状況」(20120928)』)

“清国の干渉強化と、それにつき従っていこうとする閔氏政権を前にして、開化派官僚たちは大きく二つに分裂した。金弘集、金允植、魚允中ら開化派は、干渉が強化されたにしても、従来どおり清国の影響下で近代化を推進していこうとする立場を明確にした。一方、金玉均、朴泳孝、徐光範(ソグアンボム)ら独立党は、清国の干渉を容認した閔氏一族につき従う開化派を厳しく批判し、あくまで清国からの独立を目指す近代化を強く唱えた。また、彼らが清国軍を引き入れ、その結果清国軍の駐留を招き、なおかつ大君院の拉致を容認したことに対しては、彼らを国賊とまで罵るようになっていったのである。”(続く)