2012年10月19日金曜日


日韓関係の改善のために(60)「実学思想から開化思想へ(20121019)

 日本人は竹島問題やいわゆる従軍慰安婦問題などで韓国に対する心証を悪くしている。韓国人は誤った歴史教育を受けている影響で、日本人に自分たちの歴史認識を押し付けようとする。それは「克日」、つまり韓国は・韓国人は、常に日本・日本人の上に立たなければならないという感情の表れである。一方、日本人は韓国人に対して軽蔑の心を持っている人たちがいる。これでは日韓両国の間の溝は決して埋まらない。

明治の初期、日本は本当に真剣に、韓国(当時、李氏朝鮮)自身のため韓国に近代化を促していた。一方、李朝の下級官僚層の人たちの中にも自国の近代化を真剣に推進しようと行動した若い人たちがいた。日本人は日本と韓国の間の近代史について、正しい知識を持つ必要がある。一方、間違った歴史認識を押し付けようとする韓国人に対しては、日本人は毅然とした態度かつ紳士的で冷静な態度をもって接しなければならない。以下、 善花著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

“劉大致と呉慶錫のほかにもう一人、すぐれた開化思想の持ち主がいた。高級官僚の朴桂寿(パクキュス)である。朴桂寿は英仏連合軍が北京を占領した翌年の一八六一年、慰問副使として中国熱河を訪れ、西欧列強の文化・技術に接して触発されたという。・・(中略)・・朴桂寿は、明治維新勅語の日本政府が国交を求めてきたときには、拒否することなく国書を受理して修好を結ぶべきだと主張している。”

“朴桂寿は一八七三年には右議政(副総理)にまで昇進したが、日本と門戸を開き親交を結ぶことが国家にとっていかに重要であるかを一貫して主張した。また、すでに述べたように、日本の李朝への国書のなかに「皇」の字があることについて、日本は隋や唐の時代から朝廷、天皇を称しており、「皇」の字を用いることは、いまに始まったことではない、他国の者が干渉すべきではないと、御前会議の席上で説いたと言われる。朴桂寿は一八七七年に七〇歳で亡くなったが、彼のもとに出入りして影響を受けた青年官僚は多く、金允埴、金玉均、徐光範、洪英埴(ホンヨンシク)、朴泳孝、朴泳教(パクヨンギョ)などがいた。”

“朴桂寿は実学者・朴趾源の孫であり、祖父の学統を継承していた。・・(中略)・・朴桂寿の祖父朴趾源・(中略)・らは、北方の清国の首都燕京(北京の古称)から文物や技術を学ぶ」という意味から「北学派」と呼ばれた。北学派は商業の発展と技術導入を重視し、外国との貿易の必要性を説いたが、李朝末期に至ってもなお主流を形成することはできず、儒生の中でも政権内部でも少数にとどまっていた。・(中略)・北岳派の学者たちは、世界を「華」と「夷」に区分けして、日本人を「倭夷」、西洋人を「洋夷」として蔑視する固陋な朱子学者たちの排他的な世界観を批判し、諸国との対等な交流を求めた。・・(中略)・・実学は一種のプラグマティズム、功利主義的な立場に立つ学問だと言われるが・・(中略)・・実学は中人たちの技術的な学問に大きな可能性のあることを示すものであったため、実学を支持する中人知識人は少なくなかった。・・(中略)・・劉大致や呉慶錫もそうした実学の影響を強く受けた中人知識人であった。”(続く)