2012年10月17日水曜日


日韓関係の改善のために(58)「開化・独立運動の志士・金玉均(続)(20121017)

 東京の青山霊園の外人墓地に金玉均の墓が建てられている。その墓碑には「ああ、非常の才を抱き、非常の時に遭い、非常の功無く、非常の死あり。」意訳して「ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残さず 無情の死」という意味の漢文「嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)」が刻まれている。

日本は苦心の末、明治9年(1876年)226日、ようやく日朝修好条規の締結にこぎつけた。これは、明治元年1219日、日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが日本の国書を携行して、明治新政府の樹立を通告しに行って以来実に8年間かけてようやく実を結んだものである。この日朝修好条約が明治9322日に発効して6年後、金玉均は自ら国王に申し出て近代化の道をまっしぐらに走る日本の実情をつぶさに視察した。福沢諭吉は金玉均を積極的に支援した。
本ブログ関連記事:201294日火曜日『日韓関係の改善のために(15)(20120904)』、2012926日水曜日『日韓関係の改善のために(37)「日朝修好条規の締結」(20120926)』及び2012927日木曜日『日韓関係の改善のために(38)「日朝修好条規の締結(続)」(20120927)』。

しかし、その後李朝は自らの力で近代化と自主独立の道を歩むことは出来ず、シナ(清国)の介入を招き、結局は日本の保護国とならざるを得なかった。日本は金玉均ら開化派若手官僚たちに期待し、さまざまな支援を行ったがリーダーの金玉均は志半ばで李朝を牛耳っていた閔氏一族が差し向けた刺客によって暗殺されてしまった。以下呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

“金玉均は一八五一年一月二三日(陰暦)、忠清道公州郡正安面広亭で、父金炳台(キムピョンテ)、母宋氏の長男として生まれた。・・(中略)・・金炳台はかねてより漢城華開洞に住む従叔父の金炳基(キムピョンギ)から、金玉均を養子にもらいたいとの要請を受けていた。・・父は息子の将来を思い、金玉均が五歳のときに金炳基家に養子に出した。・・(中略)・・金玉均は、早くから開国開化の思想をもっていたが、思想的な目覚めは一九歳の頃、劉大致(ユデチ)(大致は号で本名は鴻基(ホンギ))との出会いによると言われる。劉大致は訳官(通訳・翻訳を職務とする実務官僚)出だったが、医業で生計を立てていた。両班階級ではなくその下の中人階級に属していた。”

“劉大致の盟友に呉慶錫(オギョンソク)という訳官がいた。呉慶錫は毎年の朝貢使など使節の通訳としてたびたび中国との間を行き来した。呉慶錫は中国に行くたびに、列強の動きを中心として刻々と移り行く世界情勢の知識を得、・・(中略)・・日本との条約交渉の際には、李朝側の接見大官の通訳を務めている。”(続く)