2012年10月13日土曜日


日韓関係の改善のために(54)「開化派勢力の分裂(続)(20121013)

 『日韓関係の改善のために(52)「開化派勢力の分裂(続)(20121011)』に引き続き、呉 善花著『韓国併合への道 完全版』を読みながら括弧(“”)で引用する。今回は120年前ほど前の李朝の状況についてである。日本の歴史の中では、そのようなことは絶対起きなかった。日本が止むに止まれず明治27年(1894年)清国と戦端を開き、その10年後ロシアとも戦争をした根本的な原因がそこにある。

“金弘集らは、閔氏勢力と連携し、清国に依存しながらの斬新的確信を図ろうとした。それに対して金玉均らは、清国に依存する閔氏勢力を排除することによって、清国の干渉をはねのけ、自主独立国家の建設と、日本の明治維新に見習った革新を一挙に推し進めなくてはならないと考え、そのために彼らは、清国に対抗する日本の後押しを必要とした。・・(中略)・・

何よりもまず、閔氏勢道政治を追放すること、そこへ向けて開化派勢力が一丸となることが必要だった。しかし清国が直接内政に介入してきたため、政権打倒は同時に清国をも敵に回すことになり、開化派官僚は大きく二つに分裂してしまったのである。

閔妃は壬午軍乱時に、忠州の閔氏一族の屋敷にかくまわれていた。閔妃は閔氏政権の復活とともに王宮へ戻ったが、その際に一人の巫女を伴っていた。・・(中略)・・閔妃は彼女を大いに気に入り、王宮まで連れて帰ると宮中に祭壇を設け、自らの安泰のために祈祷をさせるようになった。閔妃はこの王妃安泰を祈祷する巫女を宮廷の賓客として優遇した・・(中略)・・

やがて閔妃は、北廟(宮殿の北方にある)に王家直属の祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈祷する祭祀を行わせるようになった。・・(中略)・・祭祀のために、北廟には毎日、山海の珍味や各地の名産品が山のように運び込まれ、祈祷所は常にそれらの品々であふれかえっていた。国家財政は窮乏の一途をたどっていたにもかかわらず、この祭祀のために、国費は惜しみなく費やされたのである。・・(中略)・・北廟はほとんどシャーマニズム宗教センターと化してしまった。・・(中略)・・

ただでさえ乏しい宮廷の財政は、いきなりはじまったこの祭祀のために、ほとんどやりくりつかない状態に陥ってしまった。そのための穴埋めとして利用されたのが、税関収入であった。当時、李朝の税関は釜山、元山、仁川の三港に設けられていたが、この税関を統括・監督していたのが、清国から派遣された外交顧問のドイツ人メルレンドルフだった。閔氏政権の重鎮である閔台鎬(ミンテホ)の長男閔泳翊(ミンヨンイク)が、メルレンドルフと謀って税関収入の一部を王妃のために支出するようにしたのである。あきらかな不正である。・・(中略)・・閔泳翊もまた、自らの権勢拡大のために閔妃に取り入ったのであり、メルレンドルフもこの国の政治体質を熟知して、閔氏一族のために便宜をはかったのである。”(続く)