2012年10月15日月曜日


日韓関係の改善のために(56)「一国二制度(続)(20121015)

「一国二制度」は、シナ(中国)における香港やマカオのように、公用語はシナ(中国)語でシナ(中国)の主権の枠組みの中で一定の自治や国際的な組織や活動を認め、経済については経済特区のように自由な活動を認める制度である。シナ(中国)は、このブログ2012104日木曜日『日韓関係の改善のために(45)「何世紀も変わらぬシナ(中国)の国家戦略」(20121004)』に書いたとおり、「琉球国复国运基本纲领(琉球国復国運動基本綱領)」と「琉球臨時憲法九條(草稿)」で明確に尖閣諸島・奄美諸島・沖縄諸島・八重山諸島を占領後は其処をシナ(中国)の一国二制度下に置くことを明言している。

民主党はこのことを知っていたはずである。民主党は6年かけて沖縄を一国二制度の下に置くという考え方を整理し、200878、正式に「民主党・沖縄ビジョン(2008)」として発表した。そして翌年9月、総選挙で政権を取った。その後の民主党政権の外交・防衛政策はどうであったか?普天間の問題、尖閣の問題等沖縄で起きた問題の背景には、シナ(中国)による様々な工作があったと考えざるを得ない。下に“”で引用する「民主党・沖縄ビジョン(2008)」には、「島津侵略」」「中国語の学習」、「集団自決」など反日本・親シナ(中国)的文言がある。

かつて「琉球」と呼ばれていた沖縄の人々の形質は、元々日本列島の他の地域の人々と同じように縄文人の形質を多く残している。しかし古代、沖縄には大和朝廷の力が及んでいなかった。江戸時代、薩摩藩が徳川幕府の承認のもと琉球に侵攻し、琉球王をシナ(中国)皇帝の冊封下に置いたまま薩摩藩主の臣下にし、琉球の外交・軍事は薩摩藩の承認のもと行うようにしていた。これは日本とシナ(中国)との間の交流の利便のためである。沖縄は明治時代になるまで日本の一国二制度のもとに置かれていただけである。民主党は薩摩藩が沖縄を「侵略」したと言うが、それは古代、大和朝廷が為し得なかった国家統一を江戸時代になってようやく完了しただけのことである。

 “沖縄は、このような独特な自然的風土の上に「琉球」という独自の国家を成立させ、日本列島とは異なる歴史をたどってきた。17 世紀初頭、島津侵略(1609 年)、琉球処分=沖縄県設置(1879 年)という経緯を経て段階的に日本社会のうちに編成された。”
“沖縄の地理的、歴史的、社会的特性を踏まえて徹底した英語教育を行うと共に、中国語などの学習も含め、沖縄の「マルチリンガル化」を促進する。”
“、「集団自決」に関する教科書検定問題など、戦時中の事実を忌まわしいことと隠してしまうのではなく、検定審議会等で再度検討するなど、歴史をしっかり事実として認識できるように、”
“日米の役割分担の見地から米軍再編の中で在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化を踏まえて、国外への移転を目指す。”