2012年10月16日火曜日


日韓関係の改善のために(57)「開化・独立運動の志士・金玉均(20121016)

自ら国王に申し出て日本を視察し、触発されて独立党を結成した金玉均らが1884年(明治17124日(甲甲1017日)にクーデター(甲甲クーデター)を起こした。しかしそれはシナ(清国)の介入によって失敗に終わった。126日清国軍は1300名の兵力で王宮に侵入しようとし、兵力150名の日本軍と戦闘になった。そのいきさつは王宮を警護していた李朝側の兵士たちがその任務を果たさず、逆に清国軍に加勢しはじめたからである。日本軍は清軍を撃退したのち竹添公使の命令で撤収した。竹添公使と金玉均らは王宮を脱出し、公使館を守っていた館員たちも翌7日一斉に脱出し、仁川港から長崎に逃れた。

金玉均は亡命先の日本で転々と移動し上海に渡った後、1894年(明治27年)328日、上海のホテルで李朝の閔妃の刺客にピストルで撃たれ落命した。その遺体は(以下Wikipediaより“”で引用。)
“本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された。福澤諭吉は、上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺住職寺田福寿に依頼し、寺田はただちに福澤の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを福澤邸に招いて営んだ。遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。甲斐軍治によっても遺髪、衣服の一部が日本に持ち込まれ、東京文京区の真浄寺にその墓所がある。現在、同じ場所に甲斐軍治の墓もある。さらに、犬養毅、頭山満らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔(イ・ジュンヨン)の書で以下が刻まれている。嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)”

以下に呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。金玉均は朝鮮の開国と独立をめざして活動し、43歳のとき暗殺され、さらに凌遅刑という刑に処された。今から120130年ほど前の朝鮮における人々の非道な、感情的に激しい行為は人間の形質の何によるものなのだろうか?同様に先のシナ(中国)にける激しい反日デモ・破壊・略奪行為も、人間の形質の何によるものなのだろうか? 日本人はそのようなことはしない。

“日清戦争以前の李朝で、国家の本格的な近代化と独立の急務を唱えて活動した政治勢力は、金玉均をリーダーとする青年官僚を中心に組織されたグループのほかにはなかった。このグループは独立党とも開化党とも称されたが、一八七四頃、金玉均が二三歳のときにはすでに結成されていたようだ。主要メンバーはみな金玉均より年下という。”

“政変時の清兵と朝鮮暴徒による略奪・暴行には、すざましいものがあった。鐘路付近の商店のほとんどが破壊・略奪の被害を受け、日本人家屋からの略奪が相次いだ。また、各地にまとまって避難していた日本人集団が襲われ、あちこちで婦女暴行や、殺戮の惨劇が惹き起こされた。”(続く)