2013年3月10日日曜日


戦災孤児のことに思う(20130310

東京大空襲から68周年ということで戦後の街角に多く見られた戦災孤児のことがNHKテレビで報道されていた。当時の戦災孤児は既に70歳を超えて辛い人生を歩んで既に鬼籍に入られた方々も非常に多い。今の子供たちには想像もできないようなことであるがアメリカ軍の戦略爆撃機B-29から落とされた何十万発と言う焼夷弾により8万人以上の東京都民が火の地獄の中苦しみながら焼け死んだ。そして親を失った非常に多くの子供たちが保護もされずに自己責任で必死に生きようとし、そして多くの子供たちが路上で衰弱して死んで逝った。あのとき幼い女の子であったある老婆は二人の弟妹の親代わりをしなければならなかったと涙ながらに語っていた。たった一個か二個のサツマイモを自分は食べずに空腹を堪え弟妹達に食べさせたという。戦後あちこちの街角で見られたシューシャインボーイは大人たちの靴磨きをしながら日銭を稼ぎ、その稼ぎで日々の糧を得ていた。あちこちの街角で手足の不自由な白衣の元傷痍軍人たちが道行く人々に恵みを乞うていた。ちんちん電車は走っていたが市街地は幾つかの鉄筋コンクリート造りの建物の残骸を残して一面焼け野原であった。当時9歳だった男はその光景が目に焼き付いている。自分も貧しかった。食べ物が無かった。着ている衣服も粗末なつぎはぎだらけのものだった。

広島や長崎ではもっと悲惨であったことは十分想像できる。一発の原子爆弾で一瞬のうちに何十万人と言う人が命を失い、或いは全身に酷い火傷を負った。火傷を負った多くの人々は命を長らえることが出来ず死んで逝った。広島ばかりが強調されるが長崎では多くのキリスト教徒が死んだ。アメリカは長崎についてはいち早くその原爆の傷跡を消した。東京無差別絨毯爆撃もそうであるがそのような虐殺と同じようなことについて日本人はアメリカを恨むことなく自分に降りかかった大災難であると受け止めた。そして従来日本になかったアメリカの文化・文明を貪欲なまでに吸収した。そしてそれを完全消化し新たにした日本の文化・文明が再び世界に大きな影響を与えるようになった。日本は歴史上初めて異国民により征服された。しかしそれは過去から未来に至る時間軸の中で起きたある意味で「天佑」であった。「日出る処の言霊の国」日本は祖霊に守られている「神国」である。

過去の歴史が示すとおりシナ(中国)は韓国・北朝鮮では日本人が信じられないような残虐行為が行われてきた。特にシナ(中国)は自分たちの残虐性を映画や物語の上で日本人に置き換え反日思想を煽っている。日本の愚かな政治家たちは「南京大虐殺記念館(シナ(中国)での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)を訪れ「日本は悪いことをした」と謝罪している。こ施設はシナ(中国)にとって抗日運動の記念になるものでありシナ(中国)人の愛国心を涵養する施設である。展示されている内容は嘘・でたらめである。広島の「原爆記念館」やハワイの「Remember Pearl Harbor」の記念館とは本質的な違いがある。日本はそういう観点で歴史認識をしなければならない。