2011年7月18日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110718)

 NHKTVドラマ『坂の上の雲』にもあるように、当時日本は若い優秀な将校をロシアにも留学させていた。その一人が広瀬武雄帝国海軍中佐である。その当時のロシアが日本に対してどういう見方をしていたか、秋山氏は放送大学教養学部卒業論文、同大学院修士論文記述にあたり、非常に膨大な文献・史料を調査・研究し、論文をまとめている。

 その中に、ロシアのニコライ二世とドイツのウイルヘルム二世との手紙や電報のやりとり、ロシア大蔵大臣S.I.ウイッテのことを論説したロシア科学アカデミーロシア史研究所ペテルブルグ支部研究員イーゴリー・B・ルコヤノフの『日露戦争の研究の新視点』がある。ニコライ二世とウイルヘルム二世との手紙や電報のやりとりの中で、ウイルヘルムはドイツが欧州の覇者になるため、ロシアの目を極東に向けさせようとしたことが分かる。その極東政策について秋山氏は注釈で次のようにルコヤノフの論説を引用している。

 “「1980年代半ば、ロシアの極東政策を決定していた大蔵大臣S.I.ウイッテは、中国中心部への経済的拡張を目指していた。ウイッテは韓国にほとんど関心を抱いておらず、単なる不凍港を獲得し得る場所とだけみなしていた。その韓国への関心が高まったのは、1896年から翌年にかけて、北京政府がロシアに自国の不凍港を提供することを断固として拒否した後のことである。

 結果として、1898年までに、韓国の財政、税関、軍隊は、国王および政府が好意的な態度を示したことにより、ロシアの管理下へと徐々に移行した。しかしながら、ロシアにより旅順が占領され、遼東半島の租借に関する露中間協定が調印されると、ペテルスブルグでは韓国に対する関心が失われた。ウイッテと外務大臣M.N.ムラヴィヨーフは、遼東半島の代償として、日本に韓国を譲渡することを決定した。・・(中略)・・」

 「大蔵大臣のこの上なく大掛かりな拡張主義的計画は、1900年まで続行されたが、その失敗は必至であった。・・・・1900年の義和団事件、ロシア軍による満洲占領、北清事件への参加は、中国情勢を急激に変えた。そして、ロシアの極東政策にも重大な転換が生じた。・・・・最終的に、ウイッテの政策の全面的失敗は、1902年後半に明らかになった。彼自身、失策を認めざるを得なかった。この大蔵大臣は、従来の計画のかわりに、満洲をゆっくり自然にロシア化させることに任せるより良い策は何も見つからなかったのである。”

 日本は日朝修好条約により朝鮮を「自主の邦」にした。ところが、朝鮮の側では「自主の邦」の意味をただ単に日本と朝鮮が対等な国であることを示したものと受け取っただけであった。実際は依然として清国に朝貢する国が続いた。その間、朝鮮の内政・外交で混乱が起きた。朝鮮はロシアに接近したりした。

 朝鮮に対するロシアの干渉がなくなり、朝鮮は初めて独立国になった。明治30(1898)、朝鮮は国号を大韓帝国に改め、国王高宗は「国王」から「皇帝」に、「王后」は「皇后」に、「王世子」は「皇太子」に改められた。しかし、内乱は続いた。その内乱で日本を誤解した李が後に韓国初代大統領になった。                 (続く)

2011年7月17日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110717)

 日清戦争は、朝鮮を当時の中国・清国による支配から脱却させ、日朝修好条約第一条に書かれているとおり、朝鮮を「自主の邦」にし、日本のように近代化させることが日本の「自存」のため必要であったため起きた戦争であった。そのやり方はかつて日本がアメリカにされたようなやり方であった。しかし、日本は武士道の精神でそれを行った。

ロシア・フランス・ドイツ三国による干渉を受けて日本は遼東半島から撤退した。その後ロシアが遼東半島を租借した。「北方の熊」ロシア人たちは外洋への出口を求め、南下を目指した。その意思は今でも続いている。これも「北方の熊」の「自存」行動である。明治時代の日本は、「天子を戴く「日出る国・瑞穂の国」の日本であった。その日本は「自存」のため「北方の熊」の南下を阻止しようと行動を起こしたのである。

外交関係において、一方の国の宰相がいくら相対するもう一方の国に対して尊敬や愛着を持っていても、その宰相の指揮下・統制下にある軍の最高幹部が対抗心・敵意をもっている場合は、その外交関係はぎくしゃくし、遂には国交断絶に至るものである。そういう意味で「軍は外交の手段」になる。以下に秋山氏の論文を引用する。

“ニコライ二世の訪日は、(大津事件で)彼の東部に生涯消えることのない刀傷を残すと同時に、忘れ難い日本への興味・関心を心の中に深めることとなった。それは怨恨からのものではなく、むしろ懇篤な日本的供応に対する日本への愛着心からのものであった。

ニコライ二世は、列強帝国主義の先鋒者であるドイツ皇帝ウイルヘルム二世と親交があり、幾度か訪問を重ね、また電報や書簡によって意思を通じあっていた。「黄禍論」を唱導するウイルヘルム二世は、「黄色人種を征服することはロシアの使命である」として、「ロシアが極東進出に勢力を向けている間の西の守りは、ドイツが引き受けるから心おきなく邁進されよ」と云う書簡をニコライ二世に送り、執拗に東洋人征服を扇動している。ウイルヘルム二世はロシアを教唆し、フランスを誘って、日清戦争の直後の日本に三国干渉を行い、遼東半島を清国に変換せしめた首謀者でもある。”

“ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価をするものが多かった。1900年(明治33年)以来日本に駐在していたロシア公使館付き武官ワンノフスキー大佐は、日本陸軍が欧州で最も弱体な軍隊に比肩する為の規範的基礎を得るようになるまでは、まだまだ一世紀或いはそれ以上かかるであろうと報告し、日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して呼んでいた。”

今、中国は仁川港で自沈したワリヤーグ号と同名の輸入航空母艦のほか国産の航空母艦を持とうとしている。新聞の論調ではそれが実戦配備されるまであと10年や20年かかるだろうと、あたかもマスコミが日本国民を安心させるようなことを言っている。これは、政府が公式に中国の脅威について国民に言わないからである。中国は今「自存」をかけて必死なのである。そのことを日本国民は注意を向けるべきである。     (続く)

2011年7月16日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110716)

開国・版籍奉還・近代化への取り組み・「富国強兵」政策等は、日本の「自存」のためであった。日清戦争も日露戦争も日本の「自存」のため起きた戦争であった。

今、日本は我が領土・領空・領海・排他的経済水域を犯そうとする中国に対して、如何なる志操・信条で、また如何なる国家戦略で臨もうとしているのであろうか?東京裁判で日本人の魂を抜かれ、国の事よりも自分を大事にする教育を徹底的に受けて育った今60歳代前後の政治家たちに対して、私は安心できないものを感じている。

明治時代、日本は「国際的孤立」感に苦悩した。今、中国は「国際的孤立」感から脱し、「自存」を目指して行動している。輸入空母「ワリヤーグ」のほか国産空母の建造にとりかかった。日本は明治時代の日本の行動を顧み、中国の「自存」行動に対して備えを強化しなければならない。当時の日本には、香り高く美しい「武士道精神」があった。今の日本のリーダーたちにはそのような精神は一かけらもない。秋山氏の著作・論文を引用する。

“福沢諭吉は、時事新報(1895年(明治28年)61日に『ただただ堪忍すべし』と題する論説を掲げ、軽挙妄動することなく、今ひたすら国力の充実を図るように国民に呼びかけた。”

“福沢諭吉は、このとき外交の機微にふれ、国際関係の変化にも期待して、時期を待つことを示唆しているが、日本政府要人たちは、如何にして日本を国際的孤立から脱却させるかに腐心していた。”

 “日露戦争は、一言で云えば、日本の朝鮮・満洲への進出政策とロシア側の満洲・朝鮮への勢力拡張政策との衝突である。此の戦いに到る10年前、即ち明治27/8(1894/5)、清国と戦って勝利した日本は、417日講和条約(下関条約)を締結しこれを調印した。

 これによって日本は、朝鮮に対する清国の宗主的支配を解消せしめ、朝鮮を独立国家として擁立することに成功した。同時に清国から賠償として台湾、澎湖列島と共に遼東半島の割譲を受けた。

 しかし調印の6日目批准の3日後、ロシア、フランス、ドイツの三国から、日本が遼東半島を領有することは清国の首都を危うくし、また朝鮮の独立を有名無実として、極東の平和に障害をきたすのでこれを放棄すべきであると云う強い勧告(三国干渉)をしてきた。 そしてロシアの艦隊はフランス及びドイツ艦隊と糾合して、日清平和条約の交渉地である芝罘の沖に集結し露骨な示威運動を行った。

 清国はこれに力を得て条約の批准を拒み講和条約の成立を危うくした。日本政府は激昂する世論を押さえ、55日遼東半島の放棄を三国に通告し、10日に勅令を発してその旨を国民に告げた。

 そして118日、清国との間に講和条約とは別途に遼東半島還付条約を結び、還付の代償として日本は庫平銀3千万テール(邦貨4500万円)を受けることを決め、一応の面目を保った。”                               (続く)

2011年7月15日金曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110715)

 日本は朝鮮を開国させるにあたって、日本はアメリカが日本に対して行ったことと似たような手法を用いた。日本は、嘉永733日(1854年)331日に、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した「日米和親条約」に似たような「日朝修好条約」を、明治9年(1876年)227日、朝鮮と間で締結した。

 明治維新前の日本は、「日米和親条約」締結後、初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスの強い要求により、安政5619日(1858729日)に日本とアメリカ合衆国の間で「日米修好通商条約」を締結している。これも、に大老井伊直弼が孝明天皇の勅許がないまま独断で行ったものであり、「不平等条約」であった。当時、ハリスは幕府に対して、イギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本とアメリカの間でアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶよう説得していた。

 このようにして日本は東アジアにあっていち早く、「自存」のため開国、近代化に向けて政治・外交の舵を切った。ところがお隣の朝鮮では旧態依然の国家体制が続き、列強が食指を動かしていた。日本は、「自存」のため朝鮮に圧力をかけて国家体制の変更を求めた。いま、中国は「自存」をかけて行動している。再び秋山氏の著作を引用する。

1875年(明治8年)日本は軍艦雲揚を江華島に派遣して朝鮮の守備兵と紛争を起こした。日本はこれを口実に、1876年(明治9年)軍艦6隻兵800を率いて、黒田清隆中将が全権公使、井上薫は副使として朝鮮に赴き、強引に日朝修好条約の締結を迫った。

 大院君一派は、猶も鎖国政策を主張して抵抗したが、新政府の進歩開化派官僚たちは開国を主張し、閔氏一族もこれに賛同した。又、清国からもこの際、開国を断行すべきであるとの勧告もあって、朝鮮政府は日本との修好条約を締結することを決定した。・・(中略)・・その主なる内容は次の通りである。

 朝鮮が自主独立国であること宣言して、清国との宗属関係を否認する

 釜山のほか二港(後に元山と仁川に決定)を開港する

 日本は朝鮮在留日本人の領事裁判権を持つ

これは正に、日本が開国した当時、諸外国と結んだ所謂「不平等条約」を模したものであった。しかし、その第一条には「朝鮮は自主の邦」であること、そして「日本との平等の権利を保有」することを定めていた。日本としては、これによって清国の朝鮮に対する宗主国としての関係を否定した積りであったが、朝鮮・清国の側からすれば、それは伝統的な宗属関係を崩すことを意味するものではなかった。”

朝鮮は清国の李鴻章を通じて、朝鮮が清国の属国であることを明記する条約をアメリカとの間で結ぼうとした。これはアメリカが受け入れなかった。その後朝鮮国内動乱が起き、政変も起きた。朝鮮は清国に救援を求め、李鴻章は3000人の軍隊を派遣してその動乱を収め、その後清国は朝鮮に顧問団を派遣して朝鮮の内政・外交に干渉した。

そのような朝鮮が「自主の邦」になるきっかけを作ったのは日本である。  (続く)

2011年7月14日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110714)

日露戦争はなぜ起きたのか、そしてその日露戦争の前に、なぜ、日清戦争が起きたのか。私は、中国が明治時代の日本のように「自存」のため、「富国強兵」政策を推進しているときに、日本人は正しい歴史認識を持たなければならないと思う。

日清戦争は、当時清王朝の中国が宗主国として支配していた朝鮮の第26代国王高宗の父親大院君がかたくなに鎖国政策を続け、国王高宗の妃である閔妃の一族が国王親政を名目に政変を起こしたり、大院君の一派が巻き返しをはかったりする中、日本の公使館が焼打ちにあったり、清国の李鴻章が朝鮮に軍隊を送っての朝鮮の内政・外交に干渉したり、朝鮮が日本や清国の干渉を嫌がってロシアに接近したりした状況下、日本の「自存」のため明治27年(1894年)に起きた戦争である。

“明治維新の1868年(明治元年)末、朝鮮との外交を担当していた対馬藩を通じて、王政復古を通知した。使節が持参した外交文書に「皇」「勅」の文字があるなど、朝鮮側は従来の交隣の慣例に反するとして、その受け取りを拒否した。日本政府は、その翌年(明治2年)の版籍奉還を機に、一切の外交交渉権を外務省に接収し、数度に亘って外務省の役人を直接釜山(プサン)に派遣し国交回復の国交回復の交渉を試みたが大院君はこれにも応じようとはしなかった。日本では征韓論が捲き起こるところとなった。”

1885年(明治18年)4月、伊藤博文と李鴻章の間に天津条約が結ばれ、日清両国は朝鮮から撤兵した。そのころ、ウラジオストックのロシア太平洋艦隊に対抗するイギリス艦隊が朝鮮の全羅道の巨文島を占領する事件が起こった(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議したが、その交渉を始めたのが清国の李鴻章であった。1887年(明治27年)にイギリスは巨文島から撤退した。その間、日本は清国に対して朝鮮の共同保護を提案したが、李鴻章は清国の宗主権を盾にこれを拒否し続けた。”

1894年(明治27年)2月、全羅道古阜郡で農民らの反乱が発生した(古阜反乱)。更に4月には農民戦争(第一次甲午戦争)が起こり、5月に農民軍は全州城を占領した。政府は農民軍鎮圧のため清国に派兵を要請した。日本は、清国の派兵に対抗して、6月に混成一個旅団を朝鮮に派遣した。”

725日、日本艦隊は豊島沖で清国艦隊を攻撃し、日清戦争に突入した。日本は朝鮮に日本側に立つことを強要し、8月に朝鮮政府と攻守同盟を締結した。9月に平壌会戦、黄海海戦で清国軍を破って、10月下旬には清国領内に進軍し、戦いの大勢を決した。そして、18954月、日本は清国との間に日清講和条約(下関条約)を結んだ。その第1条に於いても「朝鮮の自主独立」の保証が唱われたのである。

開化派政権は、清国との宗属関係を破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税収の改革、両班(ヤンバン)・常民の差別廃止、賤民差別の禁止、奴婢制度の廃止など、外交・政治・経済・社会の全般にわたって近代的な改革を推進した(甲午改革)。”

                                   (続く)

2011年7月13日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110713)

 仁川港内において、ワリヤーグ号は自沈し、コレーエツ号は自爆した。日露戦争は仁川港外における日本艦隊のコレーエツ号に対する先制攻撃による小競り合いで戦端が開かれていた。秋山氏は修士論文にこう書いている。

 “仁川沖海戦は、その真相があまり知られていない。しかし、それは正に日露戦争の緒戦であった。その最初の一発は190428日午後4時半過ぎに仁川沖に於いて日本の水雷艇(魚雷発射)により放たれたのである。公式記録の如何に関わらず、この事実は断定的である。

 仁川港に停留していた露艦ワリヤーグ号、コレーエツ号は、国交断絶を知らなかった。まして宣戦布告の前でもあり、この地で日本艦隊と戦う意図は全く持っていなかった。”

 当時、ロシアは日本の戦力を過小評価していて、呑気に構えていた。この状況は、今の日本が、中国の南シナ海や東シナ海における軍事的行動に対して、「あれは中国がアメリカに対峙して覇権を争っている」という程度の認識でいるのと似たようなところがある。日露戦争当時の日本は、香り高い、美しい武士道精神のもと、日本の「自存」をかけて「富国強兵」というスローガンを掲げてまっしぐらに近代化に突き進んでいた。

 “ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価するものが多かった。・・(中略)・・日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して・・”

 明治政府は、明治18年(1885年)1月に締結された「日布移民条約」により、ハワイへの移民を公式に許可した。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。日本とハワイ王国との間の合意により前年(1884年)、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があった。翌年1月最初の移民946名が東京市号に乗り込み、ハワイに渡った。彼らは海外日系人祖先第一号である。

海外日系人の推定総数は260万人である。これに対して現在中国は海外に約5千万人の華僑がいる。いずれのそれぞれの国の事情によるものである。つまりは、国としての「自存」の行動の結果である。我々は万物共通の「自存」という概念を正視すべきである。

 今、中国は、第1列島線、第2列島線を太平洋上に引き、第1列島線内に「核心的利益」を主張している。その中に奄美・沖縄・南西諸島・台湾が含まれる。それは、13億人の人口を抱える発展途上の中国の「自存」のためである。日本は、かつてのロシア帝国のように鷹揚に構えていると、必死の思い「自存」のため行動している中国に、かつて貧しかった日本がロシアに対して先制攻撃をかけたように、ある日突然、日本は中国軍による先制攻撃を受け、亡国の道に進みかねない。アメリカは「日本を守る」と言うが、日本からの要請がない限り行動できない。日米同盟は双務的ではない。いわば、日本はアメリカの妾のようなものである。社民党や、共産党や、日本国内の反日的党員たちや、日教組など反日的団体の人の言うことに惑わされてはならない。              (続く)

2011年7月12日火曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110712)

 “外国軍艦の艦長たちは何れもこの要請を拒絶した。そしてルードネフ大佐に、日本艦隊に対して降伏することを勧めた。しかし、ルードネフ大佐は武人の誉れを重んじて敢えて撃って出ることを選んだ。・・(中略)・・そして通告を受けた時刻である正午の少し前、各国軍艦の乗組員や仁川在住の日本人居留民、韓国市民たちが固唾を呑んで見守る中を、ワリヤーグ号とコレーエツ号はマストに戦闘旗を掲げておもむろに動き出したのである。・・(中略)・・

 ワリヤーグ号艦長ルードネフ大佐は、出撃に先だって総員を集め、悲壮な演説をした。「諸君、我々は今や、優勢な日本艦隊と戦闘を開始せんとしておる。我々はロシアの国旗の名誉を護持するために敢然と戦わなければならない。我が艦は勿論のこと我々は一人として降伏して敵に身を委ねたりはしない。各人はその義務を果たすために、最後の血の一滴をも振り絞って戦い抜こう。・・(中略)・・

 ロシア皇帝と露艦のために「ウラー(万歳)」が斉唱され、ワリヤーグ号の軍楽隊がロシア国歌を奏で始めると水兵たちは高らかに合唱した。露艦が各国軍艦の傍らを通り過ぎるとき、軍楽隊は、英、仏、米、それぞれの国歌を演奏した。それは別れのあいさつであるかのようで、「ウラー」「ビバー」の歓声が一斉に沸き起こり、外国軍艦の水兵たちは帽子を振ってこれを見送った。

 ワリヤーグ号コレーエツ号の出撃、それは悲壮この上ないものであった。乗組員たちは、今生の別れともなる家族への最後の手紙を書き、英艦タルポット号に託した。”

 “午前010分、最も港近くに碇泊していた「浅間」から露艦出港の信号が発せられた。旗艦「浪速」に座乗する瓜生司令官は、これを見止めて、直ちに戦闘開始の命令を発した。露艦は檣頭に戦闘旗を翻しながら、ワリヤーグを先頭にしてコレーエツ号がやや斜め後ろからこれに続いて出撃して来た。・・(中略)・・彼我の距離約7千メートル突に接近せしを以て「浅間」は敵を左舷に見其の前路を横断しつつ同20分ワリヤーグ号に向かい轟然砲火を開き敵も亦直ちに応戦し・・(中略)・・巨弾屡々ワリヤーグに命中し火焔盛に颶れり。敵も亦応戦大に力めしも遂に支ふるに能わず、ワリヤーグ先ず右方に回頭して八尾島の陰に隠る。・・(中略)・・独り「浅間」はワリヤーグを追うて愈々攻撃を続け敵は損害甚だしきものの如く、艦体著しく左舷に傾き火焔に包まれつつ仁川錨地を望み遁走し、コレーエツも亦之に随えり。・・(中略)・・深傷を負ったワリヤーグ号は、かろうじて反転し、仁川港に遁入、コレーエツ号もこれを追って港内の錨地に逃げ込んだのである。”

 “艦長ルードネフ大佐は・・(中略)・・負傷者を外国軍艦から派遣された端艇に移乗させ、次いで総員退艦を命じた。・・(中略)・・港内で艦体を爆破することは諸外国の艦船に被害を及ぼす虞れがあり大変危険であると、碇泊中の各国軍艦の先任者である英艦タルボット号艦長のベイリー大佐からの申し入れがあり、ルードネフ大佐はワリヤーグ号の爆破を断念し、キングストン弁を開いて静かに沈めることにした。”       (続く)

2011年7月11日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110711)

 “当時、瓜生司令官の下で艦隊の参謀を務めていた森山慶三郎少佐(後、海軍中将)『戦袍余勲懐旧録』第二輯(有終会大正十五年)にその経緯を次の様に語っている。

「タルポット艦長が言うには、仁川は中立港である。その中立港に於いて、あなた方は我々第三者に損害を与える様な行動は為さらぬことと思うが如何ですか。ロシアの方では、あなた方でそう云う事をやらなければ、自分の方からは手出しをしないと云うがどうですか、斯う云うことであった。

そこで「高千穂」艦長は、私の方は陸兵を上陸せしめよと云う命令を受け取ったが、敵対行動と云うが如き命令は何も受け取っておらぬ、故に斯かる事をする筈がない、と答えた。すると、然らば今日、コレーエツ号に対して為された事があるが、あれは如何なるものでありますか、と問い詰めて来た。「高千穂」艦長はそんな事は知らない。そうでござるかと云うような事で、其の日は終わったのであります。」

露艦側は、各国の艦長と計らって一応の抗議はしたものの、日本側の何とも要領を得ぬ有邪気な受け答えにどうしようもなく、それ以上の反発も抵抗も示さなかった。その辺の事象からしても、露艦側ではまだ、戦争に突入する危機感は持っていなかったようである。”

“陸兵の揚陸作業が順調に進行している一方において、瓜生司令官は自ら筆を執って、露国軍艦に対する挑戦状を起案していた。それは、「日本国と露国は、事実上交戦状態になっているのであるから、貴官は旗下の軍艦を率いて、29日正午までに仁川港を出港して来られよ。もし出て来られなければ、港内のその位置において攻撃を加える」と云う内容のもので、「この通達は本日(9日)の午前7時に貴官に届けられるであろう」と書き添えられていた。瓜生司令官はかつてアメリカのアナポリス海軍兵学校で学んだ秀才で、英語は頗る堪能であった。・・(中略)・・司令官は、各国の艦長宛にもその要旨を伝えると共に、港内の露艦へ向けての攻撃は午後4時以降とするから、中立国の軍艦は当該時刻までに安全な錨地に移動して貰いたい旨の勧告状を作成した。更に、陸上の関係当局、外国公館に対しても夫々通知状を準備した。・・(中略)・・

露艦への挑戦状は、そう云う経緯で、日本領事館から露国領事館を経由して届けられたのである。・・(中略)・・英艦タルポット号艦長、仏艦パスカル号艦長をはじめ、各国公館長、関係先の当局者たちは、第三国の港の中で砲火を交えることを非難して、瓜生司令官のもとに抗議書を寄せてきた。

その間、陸兵上陸援護の任務を完了した「高千穂」「明石」及び第9水雷艇隊は、運送船と相前後して抜錨、最後に残った「千代田」も午前923分仁川港を出港、フィリップ島東側の艦隊錨地に向かった。”

“ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、初め、露国の軍艦が仁川から出てゆく時に、外国の軍艦も同行して欲しいと懇願した。外国軍艦の陰に隠れて日本艦隊の攻撃を逃れようと云う魂胆である。”                         (続く)

2011年7月10日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110710)

 日露戦争の原因とその後の情勢を知るということは、現代において中国の台頭、「覇権主義」だと言われる「自存」願望の論理を理解する助けとなると私は思う。当時の日本は、生き残るために必死であった。今の中国も、生き残るために必死である。そのことを決して軽くみてはならぬと私は思う。

 書店や図書館には近代における日本とロシアの関係、日本と中国や韓国との関係に関する書物が沢山並べられている。それらの書物の記述は専門的であったり、独断的であったりして我々のような一般庶民にとって距離感があるものである。その点、秋山氏の論文や著作は分かりやく、歴史の真実を知るうえで役立つものである。

 秋山氏は、“日露戦争勃発の原因は、ロシア政府における政策の二極分裂・統一性の欠如に起因すると見ることが出来るのである。そして、その政策の二極分裂・統一性の欠如は、つまるところ、極東総督アレクセーエフの剛直にして独断的な性格に由来するものであった。日露交渉のロシア側代表者であるアレクセーエフは、その成否を握る重要な立場にあって、駐日公使ローゼン等の進言や報告により日本側の真意や情勢を十分に察知し得た筈である。他面、露国極東軍の総司令官としてその戦力の限界・弱点を悉知していた筈である。もし、彼が今少しく柔軟な思考を持ち、ニコライ二世に対してその真実を吐露し、勇気をもって平和を選ぶ途を提案すれば、日本との妥協が成立して戦争を回避できたに違いない。アレクセーエフの性格がそれを許さず、最後まで強硬論を主張して、遂に破局を招いたものともいえる。”と言っている。

 今、中国政府内における状況はどうなのであろうか?我が国政府の情報機関は、中国の「覇権主義」と言われる動きについて、どういう情報を得、分析しているのであろうか?先般、日本の松本外務大臣と中国の楊潔篪外交部長(外務大臣)と会談し、南シナ海問題を話し合った際に、楊部長は「南シナ海の問題は当事国同士の2国間で話し合って解決する」旨言った。東シナ海問題もそのスタンスである。

その一方で、中国政府・共産党は奄美・沖縄・南西諸島・台湾に至る列島を中国の領土とする意図を取り下げようともしない。今、日本は中国と密接な経済関係がある一方で、中国は日本の領土・領海・領空の一部を奪い取ろうとする‘敵’である。「領土問題」を「紛争問題」に変えようと意図している。そのことを日本国民は認識すべきである。今、与野党を含め、愛国の志は熱情に欠ける今60代以上の政治家たちに、この国を任せておいてはこの国はやがて亡びてしまうことだろう。秋山代治郎氏の著書の引用を続ける。

“コレエーツ号が攻撃を受けたことを、露艦側は黙っていた訳ではない。・・(中略)・・ルードネフ大佐は、碇泊中の各国軍艦の艦長と相談した。そしてその先任艦長である英艦タルボット艦長レヴィス・ペイリー大佐が各国艦長の総代として、仁川港内に碇泊している日本艦隊の先任艦長である「高千穂」の毛利一兵衛大佐に抗議を申し込んで来た。”

                                    (続く)

2011年7月9日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110709)

 日露戦争の正式な開始は、一旦仁川港を出て旅順に向かおうとしたコレーエツ号が、日本が決めた仁川港外の戦争区域に入ったとき日本海軍の艦艇により攻撃を受け、コレーエツ号もこれに応戦し、お互い撃ち合ったものの双方無傷で仁川港に引き返した後、ワリヤーグ号コレーエツ号2隻揃って、諸外国軍艦から惜別のエールを送られながら悲壮な覚悟で再び仁川港を出、仁川沖合で戦闘を開始した時である。

 “この小競り合いは、幸い双方ともさしての損害はなく、コレーエツ号が反転して仁川港に戻りはじめ、再び日本側で決めた非戦闘区域に入ったので、どちらからともなく矛を収めてしまった。そしてお互い何事も無かったかのように仁川港に入ったのである。”

 “かくして瓜生艦隊は、28日午後530分、威風堂々仁川港に到着した。第9艦隊の水雷艇4隻は、直ちに露艦ワリヤーグ号コレーエツ号を取り巻き、「千代田」「高千穂」がその外側に位置して投錨した。「浅間」「浪速」「新高」は港内を一周し、その威容を示したのち港外に出て、第14艦隊の水雷艇4隻と共に八尾島西方の錨地に陣取り、露艦が逃げ出さない様に水路を塞いだ。午後6時少し回ったところ、木越旅団の揚陸が開始された。木越旅団は九州小倉の第12師団から選ばれて編成された「臨時派遣部隊」である。”

 “28日夕刻前、瓜生艦隊に守られて仁川に入港した3隻の運送船は、それぞれ甲板に5艘づつ平底の大型艀を積んで来た。直ちに艀が降ろされ、木越旅団の兵士たちはそれぞれ分乗して続々と陸岸に運ばれて行った。冬の日は暮れるのが速く、あたりは忽ち暗くなったが、海岸には各所に篝火が焚かれ、その中で揚陸作業を手伝う日本人居留民たちの上気した顔が照らし出されていた。・・(中略)・・木越旅団の揚陸は29日午後3時ごろまで続いた。一部の部隊は、直ちに首都の京城に向かったが、残りの兵士は、その夜、仁川の町の日本人民家に分宿した。

 この日本軍の上陸を、ワリヤーグ号コレーエツ号の水兵たちは甲板上の手摺に群がって呆然と見守っていた。しかし、煙突からは煙が上がっておらず、両艦とも、これから戦いを開始しようとするような気配は全く無かったのである。”

 後に触れるが、秋山氏の修士論文は、“日露戦争は、・・(中略)・・避けられる戦争であったのではないか・・(中略)・・近年の研究動向を踏まえて、日露戦争への道程につき再考察を行い、戦争原因の直接・間接的事象を探り、どのようして開戦へとエスカレートしたのかを明らかにしたい。”という問題設定で書かれている。

 その中に秋山氏が自ら翻訳した『ソ連邦大百科事典(第2版第7巻)』(1951年刊)2223ページ)で、仁川沖の日本海軍による砲撃によって大損傷を受けたワリヤーグ号は、コレーエツ号とともに中立港・済物浦(仁川のこと)に戻り、ワリヤーグ号はキングストン弁を開いて沈没、コレーエツ号は自爆したことを明らかにしている。日露戦争の戦端は、日露関係緊張の最中、日本側の先制攻撃で開かれたのである。         (続き)

2011年7月8日金曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110708)

 先頭を走る「千代田」は、既に、軍議で決めた港内(即ち、非戦闘区域)に入っていた。この時、港から出て来た露艦コレーエツ号と出合った。コレーエツ号は、日本艦隊に敬意を表するために甲板に衛兵を整列させていた。これを見て「千代田」は、配置していた砲手を後ろに下げて隠し、急遽、衛兵を立ててこれを迎えた。そして両艦は行き交うとき互いに慇懃な敬礼を交わしたのである。後に分かったことであるが、コレーエツ号は旅順の基地に帰港する途中であった。”

 秋山代治郎氏は放送大学教養学部の時の卒業研究をさらに深めるため、同大大学院修士課程で日露戦争の勃発の経緯について研究し論文にした。そしてそれを『近代日本と日露戦争――その勃発の経緯と歴史的背景について――』という本の形にした。私は、氏の放送大学教養学部における卒業研究論文とともに、その修士論文コピーも頂いている。

氏は、ソ連抑留時代身に付けたロシア語を駆使して日露戦争に関するロシア側の文献・史料も翻訳し、国会図書館に収められている各種図書・史料等を調査・研究し、学部と大学院の両方で、研究成果をまとめ上げ、本も出版した。

 これらは非常に貴重な資料である。私は歴史は繰り返すと思っている。近代日本とロシアの武力衝突は、起きるべくして起きたものである。今、中国は当時の日本のように「富国強兵」をスローガンに掲げ、東シナ海、南シナ海で示威行動を起こしている。先日は宮城沖まで無断で進出し、中国海軍の行動のための海洋調査を行っている。今、平和を享受している日本人は、かつて自分たちの3世代、4世代前の男たちがどういう思いで、「自存」のためまっしぐらに突き進んだか、顧みる必要がある。今、中国は自国の「自存」のため、まっしぐらに突き進んでいる。今の日本は、当時のロシアのように、鷹揚に構えていると中国にひどい目にあわされること必至である。

 さて、ワリヤーグ号艦長ルードネフ大佐は、ロシア上層部の同意が得られなかったための独断で、速度・戦闘能力共に低いコレーエツ号だけを先に避難させようとした。「千代田」の出港も気づいていた。コレーエツ号には戦う意思は全くなく、日本側が勝手に定めていた仁川港港外、即ち戦闘区域外を知らずに越えた。秋山氏の本にはこう書いてある。

 “『日本海軍公刊戦史』によると「日本艦艇がコレーエツ号に近づき、水雷艇「雁」が300メートルの距離から直径14インチのホワイトヘッド魚雷を1本発射したが、コレエーツ号が進路を変えたので魚雷は外れた。別の2隻の水雷艇がコレーエツ号に一段と接近したのでコレーエツもこれに砲撃を開始した。更に魚雷が2本日本側から発射されたが、やはりこれも当たらなかった」と記載されていることを披露している。そして、結局、どちらが先に仕掛けたのか、その真相は分からないと結論づけている。・・(中略)・・今の今まで、衛兵を並べて敬意を表していたコレーエツ号がいきなり発砲してくるなど到底考えられない。まして、非力な小砲艦のコレーエツ号が、絶対的に優勢な瓜生艦隊を相手に、単独で戦いを挑む様な自殺的行為をする筈がない。・・(中略)・・”        (続く)

2011年7月7日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110707)

 “そう決心した彼は、急ぎ砲術長と水雷長を呼び全備砲に砲弾を装填し、また艦首及び両舷の全発射管に魚雷を装填して、命令一下直ちに発射出来るように手配させた。・・(中略)・・周到な準備を整えた上で、村上大佐は念のため山本海軍大臣に、仁川の露国軍艦を攻撃する許可を求める請訓電報を打電した。ところがその発信と殆ど入れ違いに、海軍大臣からは「仁川港内には外国軍艦が多数碇泊して居るから、其処で戦闘すれば国際問題を惹き起こす虞がある。故に、露艦より戦いを仕掛けて来ない限り当方から手を出すことは控えよ。瓜生司令官にもこの旨を伝えよ」と云う内容の訓電が「千代田」に届いた。・・(中略)・・「千代田」の深刻な懸念にも拘わらず、6日の夜は何の変哲もなく過ぎ去って、7日の朝を迎えた。港には、ワリヤーグ号もコレーエツ号も、いつもと変わらず悠然と碇泊していたし、甲板には、洗濯物まで干してあった。

この日、ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、日露の国交断絶と云う情報を他国軍艦の艦長から知らされた。それを確かめようと仁川の露国領事館に連絡したが、電信が不通で真偽の程は分からなかった。やむなく、わざわざ40キロメートル離れた京城(ソウル)の露国公使館まで出かけて行ってパブロフ公使に会い、諸般の情勢につき協議をした。がしかし、公使館に於いても本国・旅順ともに電信普通で連絡が取れず困惑していた。実は密かに電信線が切断されていたのである。”

“村上大佐は、「千代田」の出港時刻を7日午後1130分と決定した。それは、その夜の月の出が午前1時頃であり、八尾島付近の難水路に差しかかるまでは、暗闇の中で密かに港を出たかったからである。

7日の朝を迎えると、この様な事が起こっているとは知らない仁川の御用商人たちが、いつものように続々と来艦して来た。・・(中略)・・出港の直前の午後11時頃になって、大石大尉が艦長の命を受け、抑留した10数名の人々を集め、懇ろに詫びて一同を伝馬船に乗せて陸に帰らせた。迷惑を蒙った仁川の商人たちは、大変立腹していたが、その後まもなく、瓜生艦隊の来港、木越旅団の上陸、露艦の爆沈と云う一連の重大事を目のあたりにして、はじめてその真相を知り、後日、感慨深くその時の経緯を回想している。

露艦ワリヤーグ号もコレーエツ号も朝から長々とロープを張って海兵たちの洗濯物が干されていた。これを見て、「千代田」の乗組員はやや安堵した気にもなったが、しかし油断はできない。27日は長い長い1日であった。・・(中略)・・

「千代田」は、錨を巻き揚げるや否や、命令一下、静かに発進した。時に7日午後1155分、明かりを消し暗闇を利用して露艦の視察から逃れ、巧みに各国軍艦の間をすり抜けながら静まりかえった真夜中の仁川港を出て行った。・・(中略)・・午後215分、艦隊は再び仁川港に向けて発進した。「千代田」は先導を命ぜられ勇躍先頭に立った。そのすぐ後に「高千穂」「浅間」が続き、「大連丸」「小樽丸」及び「平壌丸」の輸送船3隻を挟んで、後衛として「浪速」「明石」「新高」が続航した。・・(中略)・・       (続く)