2011年7月9日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110709)

 日露戦争の正式な開始は、一旦仁川港を出て旅順に向かおうとしたコレーエツ号が、日本が決めた仁川港外の戦争区域に入ったとき日本海軍の艦艇により攻撃を受け、コレーエツ号もこれに応戦し、お互い撃ち合ったものの双方無傷で仁川港に引き返した後、ワリヤーグ号コレーエツ号2隻揃って、諸外国軍艦から惜別のエールを送られながら悲壮な覚悟で再び仁川港を出、仁川沖合で戦闘を開始した時である。

 “この小競り合いは、幸い双方ともさしての損害はなく、コレーエツ号が反転して仁川港に戻りはじめ、再び日本側で決めた非戦闘区域に入ったので、どちらからともなく矛を収めてしまった。そしてお互い何事も無かったかのように仁川港に入ったのである。”

 “かくして瓜生艦隊は、28日午後530分、威風堂々仁川港に到着した。第9艦隊の水雷艇4隻は、直ちに露艦ワリヤーグ号コレーエツ号を取り巻き、「千代田」「高千穂」がその外側に位置して投錨した。「浅間」「浪速」「新高」は港内を一周し、その威容を示したのち港外に出て、第14艦隊の水雷艇4隻と共に八尾島西方の錨地に陣取り、露艦が逃げ出さない様に水路を塞いだ。午後6時少し回ったところ、木越旅団の揚陸が開始された。木越旅団は九州小倉の第12師団から選ばれて編成された「臨時派遣部隊」である。”

 “28日夕刻前、瓜生艦隊に守られて仁川に入港した3隻の運送船は、それぞれ甲板に5艘づつ平底の大型艀を積んで来た。直ちに艀が降ろされ、木越旅団の兵士たちはそれぞれ分乗して続々と陸岸に運ばれて行った。冬の日は暮れるのが速く、あたりは忽ち暗くなったが、海岸には各所に篝火が焚かれ、その中で揚陸作業を手伝う日本人居留民たちの上気した顔が照らし出されていた。・・(中略)・・木越旅団の揚陸は29日午後3時ごろまで続いた。一部の部隊は、直ちに首都の京城に向かったが、残りの兵士は、その夜、仁川の町の日本人民家に分宿した。

 この日本軍の上陸を、ワリヤーグ号コレーエツ号の水兵たちは甲板上の手摺に群がって呆然と見守っていた。しかし、煙突からは煙が上がっておらず、両艦とも、これから戦いを開始しようとするような気配は全く無かったのである。”

 後に触れるが、秋山氏の修士論文は、“日露戦争は、・・(中略)・・避けられる戦争であったのではないか・・(中略)・・近年の研究動向を踏まえて、日露戦争への道程につき再考察を行い、戦争原因の直接・間接的事象を探り、どのようして開戦へとエスカレートしたのかを明らかにしたい。”という問題設定で書かれている。

 その中に秋山氏が自ら翻訳した『ソ連邦大百科事典(第2版第7巻)』(1951年刊)2223ページ)で、仁川沖の日本海軍による砲撃によって大損傷を受けたワリヤーグ号は、コレーエツ号とともに中立港・済物浦(仁川のこと)に戻り、ワリヤーグ号はキングストン弁を開いて沈没、コレーエツ号は自爆したことを明らかにしている。日露戦争の戦端は、日露関係緊張の最中、日本側の先制攻撃で開かれたのである。         (続き)

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