2011年7月7日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110707)

 “そう決心した彼は、急ぎ砲術長と水雷長を呼び全備砲に砲弾を装填し、また艦首及び両舷の全発射管に魚雷を装填して、命令一下直ちに発射出来るように手配させた。・・(中略)・・周到な準備を整えた上で、村上大佐は念のため山本海軍大臣に、仁川の露国軍艦を攻撃する許可を求める請訓電報を打電した。ところがその発信と殆ど入れ違いに、海軍大臣からは「仁川港内には外国軍艦が多数碇泊して居るから、其処で戦闘すれば国際問題を惹き起こす虞がある。故に、露艦より戦いを仕掛けて来ない限り当方から手を出すことは控えよ。瓜生司令官にもこの旨を伝えよ」と云う内容の訓電が「千代田」に届いた。・・(中略)・・「千代田」の深刻な懸念にも拘わらず、6日の夜は何の変哲もなく過ぎ去って、7日の朝を迎えた。港には、ワリヤーグ号もコレーエツ号も、いつもと変わらず悠然と碇泊していたし、甲板には、洗濯物まで干してあった。

この日、ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、日露の国交断絶と云う情報を他国軍艦の艦長から知らされた。それを確かめようと仁川の露国領事館に連絡したが、電信が不通で真偽の程は分からなかった。やむなく、わざわざ40キロメートル離れた京城(ソウル)の露国公使館まで出かけて行ってパブロフ公使に会い、諸般の情勢につき協議をした。がしかし、公使館に於いても本国・旅順ともに電信普通で連絡が取れず困惑していた。実は密かに電信線が切断されていたのである。”

“村上大佐は、「千代田」の出港時刻を7日午後1130分と決定した。それは、その夜の月の出が午前1時頃であり、八尾島付近の難水路に差しかかるまでは、暗闇の中で密かに港を出たかったからである。

7日の朝を迎えると、この様な事が起こっているとは知らない仁川の御用商人たちが、いつものように続々と来艦して来た。・・(中略)・・出港の直前の午後11時頃になって、大石大尉が艦長の命を受け、抑留した10数名の人々を集め、懇ろに詫びて一同を伝馬船に乗せて陸に帰らせた。迷惑を蒙った仁川の商人たちは、大変立腹していたが、その後まもなく、瓜生艦隊の来港、木越旅団の上陸、露艦の爆沈と云う一連の重大事を目のあたりにして、はじめてその真相を知り、後日、感慨深くその時の経緯を回想している。

露艦ワリヤーグ号もコレーエツ号も朝から長々とロープを張って海兵たちの洗濯物が干されていた。これを見て、「千代田」の乗組員はやや安堵した気にもなったが、しかし油断はできない。27日は長い長い1日であった。・・(中略)・・

「千代田」は、錨を巻き揚げるや否や、命令一下、静かに発進した。時に7日午後1155分、明かりを消し暗闇を利用して露艦の視察から逃れ、巧みに各国軍艦の間をすり抜けながら静まりかえった真夜中の仁川港を出て行った。・・(中略)・・午後215分、艦隊は再び仁川港に向けて発進した。「千代田」は先導を命ぜられ勇躍先頭に立った。そのすぐ後に「高千穂」「浅間」が続き、「大連丸」「小樽丸」及び「平壌丸」の輸送船3隻を挟んで、後衛として「浪速」「明石」「新高」が続航した。・・(中略)・・       (続く)

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