2011年7月11日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110711)

 “当時、瓜生司令官の下で艦隊の参謀を務めていた森山慶三郎少佐(後、海軍中将)『戦袍余勲懐旧録』第二輯(有終会大正十五年)にその経緯を次の様に語っている。

「タルポット艦長が言うには、仁川は中立港である。その中立港に於いて、あなた方は我々第三者に損害を与える様な行動は為さらぬことと思うが如何ですか。ロシアの方では、あなた方でそう云う事をやらなければ、自分の方からは手出しをしないと云うがどうですか、斯う云うことであった。

そこで「高千穂」艦長は、私の方は陸兵を上陸せしめよと云う命令を受け取ったが、敵対行動と云うが如き命令は何も受け取っておらぬ、故に斯かる事をする筈がない、と答えた。すると、然らば今日、コレーエツ号に対して為された事があるが、あれは如何なるものでありますか、と問い詰めて来た。「高千穂」艦長はそんな事は知らない。そうでござるかと云うような事で、其の日は終わったのであります。」

露艦側は、各国の艦長と計らって一応の抗議はしたものの、日本側の何とも要領を得ぬ有邪気な受け答えにどうしようもなく、それ以上の反発も抵抗も示さなかった。その辺の事象からしても、露艦側ではまだ、戦争に突入する危機感は持っていなかったようである。”

“陸兵の揚陸作業が順調に進行している一方において、瓜生司令官は自ら筆を執って、露国軍艦に対する挑戦状を起案していた。それは、「日本国と露国は、事実上交戦状態になっているのであるから、貴官は旗下の軍艦を率いて、29日正午までに仁川港を出港して来られよ。もし出て来られなければ、港内のその位置において攻撃を加える」と云う内容のもので、「この通達は本日(9日)の午前7時に貴官に届けられるであろう」と書き添えられていた。瓜生司令官はかつてアメリカのアナポリス海軍兵学校で学んだ秀才で、英語は頗る堪能であった。・・(中略)・・司令官は、各国の艦長宛にもその要旨を伝えると共に、港内の露艦へ向けての攻撃は午後4時以降とするから、中立国の軍艦は当該時刻までに安全な錨地に移動して貰いたい旨の勧告状を作成した。更に、陸上の関係当局、外国公館に対しても夫々通知状を準備した。・・(中略)・・

露艦への挑戦状は、そう云う経緯で、日本領事館から露国領事館を経由して届けられたのである。・・(中略)・・英艦タルポット号艦長、仏艦パスカル号艦長をはじめ、各国公館長、関係先の当局者たちは、第三国の港の中で砲火を交えることを非難して、瓜生司令官のもとに抗議書を寄せてきた。

その間、陸兵上陸援護の任務を完了した「高千穂」「明石」及び第9水雷艇隊は、運送船と相前後して抜錨、最後に残った「千代田」も午前923分仁川港を出港、フィリップ島東側の艦隊錨地に向かった。”

“ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、初め、露国の軍艦が仁川から出てゆく時に、外国の軍艦も同行して欲しいと懇願した。外国軍艦の陰に隠れて日本艦隊の攻撃を逃れようと云う魂胆である。”                         (続く)

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