2011年7月14日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110714)

日露戦争はなぜ起きたのか、そしてその日露戦争の前に、なぜ、日清戦争が起きたのか。私は、中国が明治時代の日本のように「自存」のため、「富国強兵」政策を推進しているときに、日本人は正しい歴史認識を持たなければならないと思う。

日清戦争は、当時清王朝の中国が宗主国として支配していた朝鮮の第26代国王高宗の父親大院君がかたくなに鎖国政策を続け、国王高宗の妃である閔妃の一族が国王親政を名目に政変を起こしたり、大院君の一派が巻き返しをはかったりする中、日本の公使館が焼打ちにあったり、清国の李鴻章が朝鮮に軍隊を送っての朝鮮の内政・外交に干渉したり、朝鮮が日本や清国の干渉を嫌がってロシアに接近したりした状況下、日本の「自存」のため明治27年(1894年)に起きた戦争である。

“明治維新の1868年(明治元年)末、朝鮮との外交を担当していた対馬藩を通じて、王政復古を通知した。使節が持参した外交文書に「皇」「勅」の文字があるなど、朝鮮側は従来の交隣の慣例に反するとして、その受け取りを拒否した。日本政府は、その翌年(明治2年)の版籍奉還を機に、一切の外交交渉権を外務省に接収し、数度に亘って外務省の役人を直接釜山(プサン)に派遣し国交回復の国交回復の交渉を試みたが大院君はこれにも応じようとはしなかった。日本では征韓論が捲き起こるところとなった。”

1885年(明治18年)4月、伊藤博文と李鴻章の間に天津条約が結ばれ、日清両国は朝鮮から撤兵した。そのころ、ウラジオストックのロシア太平洋艦隊に対抗するイギリス艦隊が朝鮮の全羅道の巨文島を占領する事件が起こった(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議したが、その交渉を始めたのが清国の李鴻章であった。1887年(明治27年)にイギリスは巨文島から撤退した。その間、日本は清国に対して朝鮮の共同保護を提案したが、李鴻章は清国の宗主権を盾にこれを拒否し続けた。”

1894年(明治27年)2月、全羅道古阜郡で農民らの反乱が発生した(古阜反乱)。更に4月には農民戦争(第一次甲午戦争)が起こり、5月に農民軍は全州城を占領した。政府は農民軍鎮圧のため清国に派兵を要請した。日本は、清国の派兵に対抗して、6月に混成一個旅団を朝鮮に派遣した。”

725日、日本艦隊は豊島沖で清国艦隊を攻撃し、日清戦争に突入した。日本は朝鮮に日本側に立つことを強要し、8月に朝鮮政府と攻守同盟を締結した。9月に平壌会戦、黄海海戦で清国軍を破って、10月下旬には清国領内に進軍し、戦いの大勢を決した。そして、18954月、日本は清国との間に日清講和条約(下関条約)を結んだ。その第1条に於いても「朝鮮の自主独立」の保証が唱われたのである。

開化派政権は、清国との宗属関係を破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税収の改革、両班(ヤンバン)・常民の差別廃止、賤民差別の禁止、奴婢制度の廃止など、外交・政治・経済・社会の全般にわたって近代的な改革を推進した(甲午改革)。”

                                   (続く)

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