日露戦争前哨戦(続)(20110715)
明治維新前の日本は、「日米和親条約」締結後、初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスの強い要求により、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で「日米修好通商条約」を締結している。これも、に大老井伊直弼が孝明天皇の勅許がないまま独断で行ったものであり、「不平等条約」であった。当時、ハリスは幕府に対して、イギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本とアメリカの間でアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶよう説得していた。
このようにして日本は東アジアにあっていち早く、「自存」のため開国、近代化に向けて政治・外交の舵を切った。ところがお隣の朝鮮では旧態依然の国家体制が続き、列強が食指を動かしていた。日本は、「自存」のため朝鮮に圧力をかけて国家体制の変更を求めた。いま、中国は「自存」をかけて行動している。再び秋山氏の著作を引用する。
“1875年(明治8年)日本は軍艦雲揚を江華島に派遣して朝鮮の守備兵と紛争を起こした。日本はこれを口実に、1876年(明治9年)軍艦6隻兵800を率いて、黒田清隆中将が全権公使、井上薫は副使として朝鮮に赴き、強引に日朝修好条約の締結を迫った。
大院君一派は、猶も鎖国政策を主張して抵抗したが、新政府の進歩開化派官僚たちは開国を主張し、閔氏一族もこれに賛同した。又、清国からもこの際、開国を断行すべきであるとの勧告もあって、朝鮮政府は日本との修好条約を締結することを決定した。・・(中略)・・その主なる内容は次の通りである。
① 朝鮮が自主独立国であること宣言して、清国との宗属関係を否認する
② 釜山のほか二港(後に元山と仁川に決定)を開港する
③ 日本は朝鮮在留日本人の領事裁判権を持つ
これは正に、日本が開国した当時、諸外国と結んだ所謂「不平等条約」を模したものであった。しかし、その第一条には「朝鮮は自主の邦」であること、そして「日本との平等の権利を保有」することを定めていた。日本としては、これによって清国の朝鮮に対する宗主国としての関係を否定した積りであったが、朝鮮・清国の側からすれば、それは伝統的な宗属関係を崩すことを意味するものではなかった。”
朝鮮は清国の李鴻章を通じて、朝鮮が清国の属国であることを明記する条約をアメリカとの間で結ぼうとした。これはアメリカが受け入れなかった。その後朝鮮国内動乱が起き、政変も起きた。朝鮮は清国に救援を求め、李鴻章は3000人の軍隊を派遣してその動乱を収め、その後清国は朝鮮に顧問団を派遣して朝鮮の内政・外交に干渉した。
そのような朝鮮が「自主の邦」になるきっかけを作ったのは日本である。 (続く)
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