日露戦争前哨戦(続)(20110716)
今、日本は我が領土・領空・領海・排他的経済水域を犯そうとする中国に対して、如何なる志操・信条で、また如何なる国家戦略で臨もうとしているのであろうか?東京裁判で日本人の魂を抜かれ、国の事よりも自分を大事にする教育を徹底的に受けて育った今60歳代前後の政治家たちに対して、私は安心できないものを感じている。
明治時代、日本は「国際的孤立」感に苦悩した。今、中国は「国際的孤立」感から脱し、「自存」を目指して行動している。輸入空母「ワリヤーグ」のほか国産空母の建造にとりかかった。日本は明治時代の日本の行動を顧み、中国の「自存」行動に対して備えを強化しなければならない。当時の日本には、香り高く美しい「武士道精神」があった。今の日本のリーダーたちにはそのような精神は一かけらもない。秋山氏の著作・論文を引用する。
“福沢諭吉は、時事新報(1895年(明治28年)6月1日に『ただただ堪忍すべし』と題する論説を掲げ、軽挙妄動することなく、今ひたすら国力の充実を図るように国民に呼びかけた。”
“福沢諭吉は、このとき外交の機微にふれ、国際関係の変化にも期待して、時期を待つことを示唆しているが、日本政府要人たちは、如何にして日本を国際的孤立から脱却させるかに腐心していた。”
“日露戦争は、一言で云えば、日本の朝鮮・満洲への進出政策とロシア側の満洲・朝鮮への勢力拡張政策との衝突である。此の戦いに到る10年前、即ち明治27/8年(1894/5年)、清国と戦って勝利した日本は、4月17日講和条約(下関条約)を締結しこれを調印した。
これによって日本は、朝鮮に対する清国の宗主的支配を解消せしめ、朝鮮を独立国家として擁立することに成功した。同時に清国から賠償として台湾、澎湖列島と共に遼東半島の割譲を受けた。
しかし調印の6日目批准の3日後、ロシア、フランス、ドイツの三国から、日本が遼東半島を領有することは清国の首都を危うくし、また朝鮮の独立を有名無実として、極東の平和に障害をきたすのでこれを放棄すべきであると云う強い勧告(三国干渉)をしてきた。 そしてロシアの艦隊はフランス及びドイツ艦隊と糾合して、日清平和条約の交渉地である芝罘の沖に集結し露骨な示威運動を行った。
清国はこれに力を得て条約の批准を拒み講和条約の成立を危うくした。日本政府は激昂する世論を押さえ、5月5日遼東半島の放棄を三国に通告し、10日に勅令を発してその旨を国民に告げた。
そして11月8日、清国との間に講和条約とは別途に遼東半島還付条約を結び、還付の代償として日本は庫平銀3千万テール(邦貨4500万円)を受けることを決め、一応の面目を保った。” (続く)
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