2011年7月13日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110713)

 仁川港内において、ワリヤーグ号は自沈し、コレーエツ号は自爆した。日露戦争は仁川港外における日本艦隊のコレーエツ号に対する先制攻撃による小競り合いで戦端が開かれていた。秋山氏は修士論文にこう書いている。

 “仁川沖海戦は、その真相があまり知られていない。しかし、それは正に日露戦争の緒戦であった。その最初の一発は190428日午後4時半過ぎに仁川沖に於いて日本の水雷艇(魚雷発射)により放たれたのである。公式記録の如何に関わらず、この事実は断定的である。

 仁川港に停留していた露艦ワリヤーグ号、コレーエツ号は、国交断絶を知らなかった。まして宣戦布告の前でもあり、この地で日本艦隊と戦う意図は全く持っていなかった。”

 当時、ロシアは日本の戦力を過小評価していて、呑気に構えていた。この状況は、今の日本が、中国の南シナ海や東シナ海における軍事的行動に対して、「あれは中国がアメリカに対峙して覇権を争っている」という程度の認識でいるのと似たようなところがある。日露戦争当時の日本は、香り高い、美しい武士道精神のもと、日本の「自存」をかけて「富国強兵」というスローガンを掲げてまっしぐらに近代化に突き進んでいた。

 “ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価するものが多かった。・・(中略)・・日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して・・”

 明治政府は、明治18年(1885年)1月に締結された「日布移民条約」により、ハワイへの移民を公式に許可した。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。日本とハワイ王国との間の合意により前年(1884年)、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があった。翌年1月最初の移民946名が東京市号に乗り込み、ハワイに渡った。彼らは海外日系人祖先第一号である。

海外日系人の推定総数は260万人である。これに対して現在中国は海外に約5千万人の華僑がいる。いずれのそれぞれの国の事情によるものである。つまりは、国としての「自存」の行動の結果である。我々は万物共通の「自存」という概念を正視すべきである。

 今、中国は、第1列島線、第2列島線を太平洋上に引き、第1列島線内に「核心的利益」を主張している。その中に奄美・沖縄・南西諸島・台湾が含まれる。それは、13億人の人口を抱える発展途上の中国の「自存」のためである。日本は、かつてのロシア帝国のように鷹揚に構えていると、必死の思い「自存」のため行動している中国に、かつて貧しかった日本がロシアに対して先制攻撃をかけたように、ある日突然、日本は中国軍による先制攻撃を受け、亡国の道に進みかねない。アメリカは「日本を守る」と言うが、日本からの要請がない限り行動できない。日米同盟は双務的ではない。いわば、日本はアメリカの妾のようなものである。社民党や、共産党や、日本国内の反日的党員たちや、日教組など反日的団体の人の言うことに惑わされてはならない。              (続く)

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