2011年7月18日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110718)

 NHKTVドラマ『坂の上の雲』にもあるように、当時日本は若い優秀な将校をロシアにも留学させていた。その一人が広瀬武雄帝国海軍中佐である。その当時のロシアが日本に対してどういう見方をしていたか、秋山氏は放送大学教養学部卒業論文、同大学院修士論文記述にあたり、非常に膨大な文献・史料を調査・研究し、論文をまとめている。

 その中に、ロシアのニコライ二世とドイツのウイルヘルム二世との手紙や電報のやりとり、ロシア大蔵大臣S.I.ウイッテのことを論説したロシア科学アカデミーロシア史研究所ペテルブルグ支部研究員イーゴリー・B・ルコヤノフの『日露戦争の研究の新視点』がある。ニコライ二世とウイルヘルム二世との手紙や電報のやりとりの中で、ウイルヘルムはドイツが欧州の覇者になるため、ロシアの目を極東に向けさせようとしたことが分かる。その極東政策について秋山氏は注釈で次のようにルコヤノフの論説を引用している。

 “「1980年代半ば、ロシアの極東政策を決定していた大蔵大臣S.I.ウイッテは、中国中心部への経済的拡張を目指していた。ウイッテは韓国にほとんど関心を抱いておらず、単なる不凍港を獲得し得る場所とだけみなしていた。その韓国への関心が高まったのは、1896年から翌年にかけて、北京政府がロシアに自国の不凍港を提供することを断固として拒否した後のことである。

 結果として、1898年までに、韓国の財政、税関、軍隊は、国王および政府が好意的な態度を示したことにより、ロシアの管理下へと徐々に移行した。しかしながら、ロシアにより旅順が占領され、遼東半島の租借に関する露中間協定が調印されると、ペテルスブルグでは韓国に対する関心が失われた。ウイッテと外務大臣M.N.ムラヴィヨーフは、遼東半島の代償として、日本に韓国を譲渡することを決定した。・・(中略)・・」

 「大蔵大臣のこの上なく大掛かりな拡張主義的計画は、1900年まで続行されたが、その失敗は必至であった。・・・・1900年の義和団事件、ロシア軍による満洲占領、北清事件への参加は、中国情勢を急激に変えた。そして、ロシアの極東政策にも重大な転換が生じた。・・・・最終的に、ウイッテの政策の全面的失敗は、1902年後半に明らかになった。彼自身、失策を認めざるを得なかった。この大蔵大臣は、従来の計画のかわりに、満洲をゆっくり自然にロシア化させることに任せるより良い策は何も見つからなかったのである。”

 日本は日朝修好条約により朝鮮を「自主の邦」にした。ところが、朝鮮の側では「自主の邦」の意味をただ単に日本と朝鮮が対等な国であることを示したものと受け取っただけであった。実際は依然として清国に朝貢する国が続いた。その間、朝鮮の内政・外交で混乱が起きた。朝鮮はロシアに接近したりした。

 朝鮮に対するロシアの干渉がなくなり、朝鮮は初めて独立国になった。明治30(1898)、朝鮮は国号を大韓帝国に改め、国王高宗は「国王」から「皇帝」に、「王后」は「皇后」に、「王世子」は「皇太子」に改められた。しかし、内乱は続いた。その内乱で日本を誤解した李が後に韓国初代大統領になった。                 (続く)

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