2011年7月17日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110717)

 日清戦争は、朝鮮を当時の中国・清国による支配から脱却させ、日朝修好条約第一条に書かれているとおり、朝鮮を「自主の邦」にし、日本のように近代化させることが日本の「自存」のため必要であったため起きた戦争であった。そのやり方はかつて日本がアメリカにされたようなやり方であった。しかし、日本は武士道の精神でそれを行った。

ロシア・フランス・ドイツ三国による干渉を受けて日本は遼東半島から撤退した。その後ロシアが遼東半島を租借した。「北方の熊」ロシア人たちは外洋への出口を求め、南下を目指した。その意思は今でも続いている。これも「北方の熊」の「自存」行動である。明治時代の日本は、「天子を戴く「日出る国・瑞穂の国」の日本であった。その日本は「自存」のため「北方の熊」の南下を阻止しようと行動を起こしたのである。

外交関係において、一方の国の宰相がいくら相対するもう一方の国に対して尊敬や愛着を持っていても、その宰相の指揮下・統制下にある軍の最高幹部が対抗心・敵意をもっている場合は、その外交関係はぎくしゃくし、遂には国交断絶に至るものである。そういう意味で「軍は外交の手段」になる。以下に秋山氏の論文を引用する。

“ニコライ二世の訪日は、(大津事件で)彼の東部に生涯消えることのない刀傷を残すと同時に、忘れ難い日本への興味・関心を心の中に深めることとなった。それは怨恨からのものではなく、むしろ懇篤な日本的供応に対する日本への愛着心からのものであった。

ニコライ二世は、列強帝国主義の先鋒者であるドイツ皇帝ウイルヘルム二世と親交があり、幾度か訪問を重ね、また電報や書簡によって意思を通じあっていた。「黄禍論」を唱導するウイルヘルム二世は、「黄色人種を征服することはロシアの使命である」として、「ロシアが極東進出に勢力を向けている間の西の守りは、ドイツが引き受けるから心おきなく邁進されよ」と云う書簡をニコライ二世に送り、執拗に東洋人征服を扇動している。ウイルヘルム二世はロシアを教唆し、フランスを誘って、日清戦争の直後の日本に三国干渉を行い、遼東半島を清国に変換せしめた首謀者でもある。”

“ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価をするものが多かった。1900年(明治33年)以来日本に駐在していたロシア公使館付き武官ワンノフスキー大佐は、日本陸軍が欧州で最も弱体な軍隊に比肩する為の規範的基礎を得るようになるまでは、まだまだ一世紀或いはそれ以上かかるであろうと報告し、日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して呼んでいた。”

今、中国は仁川港で自沈したワリヤーグ号と同名の輸入航空母艦のほか国産の航空母艦を持とうとしている。新聞の論調ではそれが実戦配備されるまであと10年や20年かかるだろうと、あたかもマスコミが日本国民を安心させるようなことを言っている。これは、政府が公式に中国の脅威について国民に言わないからである。中国は今「自存」をかけて必死なのである。そのことを日本国民は注意を向けるべきである。     (続く)

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