2010年2月21日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(30(20100221)

2歳の自分たちの子供を虐待して死亡させた35歳の夫婦が裁判員裁判にかけられた。その虐待は、これが人のすることかと思うほど残酷なものであった。その様子はここに書くに忍びない。死んだこどもの顔を「安らかな顔だった。あれでよかった。」と件の母親は言ったという。弁護士はこの夫婦が「反省している」と弁護した。反省ですまされることではない。この夫婦はそれぞれ人間の顔をしてはいるが、犬畜生にも劣る‘生き物’である。
この夫婦はそれぞれ子供の時、親から虐待を受けていたのであろう。その親も子供のとき親から冷たく扱われていたのであろう。子供を虐待し死亡させた親は、次の世において最も苦しむところに転生して生まれてくることだろう。
バンクーバーで行われている冬期オリンピックでは、500mスピードスケートで長島圭一郎が銀、加藤条治が銅メダルを取った。フィギュアスケートショートプログラムで高橋大輔が3位に、織田信成が4位になり、小塚崇彦は8位につけた。女子カーリングではアメリカに勝ったがカナダには負けた。明日中国と対戦する。スノーボードでは服装のことで開会式に出ることが出来なかった国母和宏が大技で挑んだが最後の着地で痛恨の失敗をしてしまった。スプリントでは善戦するも準決勝進出はならなった。これから女子フィギュアに浅田真央や安藤美姫らにメダルの期待がかかる。オリンピックの大舞台で若者が世界の頂点を目指して技を競い合っている。
人の一生は様々である。罪を犯す若者がいる一方で自分を鍛え、技を磨き、競技を観る人々に感動を与える若者がいる。その両者の何処が違うかと言うと、罪を犯す者は自分が満たされない原因を他に求めている。自分自身を強固な拠りどころにしていない。一方、スポーツ選手は競技に勝つために自分自身を知りつくし、自分の弱点を克服するため考え、弱点を補う努力をし、自分の能力の限界まで力を発揮するようにしている。
ブッダは「自分を洲とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどころとしてはならない。」と繰り返し言っておられる。罪を犯す者は自分が拠って立つ洲にはならず、ものごとがうまく行かない原因を他に転嫁し、他を拠りどころとしている。要するになんでも人のせいにするのである。悪事を正当化するための理屈を作るのである。
民主党政権で子ども手当が支給されるが、給食費を払わない人に子ども手当を出すことについて議論された。車を持ち、携帯電話を持ち、月々相当な費用を払っている人が「給食の内容がよくないから払わない。」と言って払わず、子供につらい思いをさせている。

235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(かて)さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚(けが)れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、天の尊い処に至るであろう。
この二つの詩は第十八章「汚れ」の冒頭にあるブッダのことばである。

2010年2月20日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(29(20100220)

 昨日はブッダ「真理のことば」第十六章で次の一つを飛ばした。この詩は修行者が最終目標にすべき詩であると思われる。男のような凡人は出家までして修行を積もうとは思わない。73歳にもなろうとしてもである。福井県の永平寺で修業を積む雲水たちは若い時から出家して修行を積んで行こうとする人たちである。その中には一生妻帯せず修行一筋に生涯を終える聖者の域に達する修行者もいるであろう。

 前にも書いた(関連記事:2010213日土曜日、「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)」)が、僧または僧伽とは、そのような聖者が5人または5人以上の集団のことを言うということ知った。男はその意味について考えてみた。

 その一つは、5人または5人以上の集団であれば、霊的な世界の中であらゆる悪や誘惑を寄せ付けないのだと思う。霊的な世界では男のような凡人が決して知り得ない‘不思議な’ことがあるのだ。

 キリスト教の聖書には、「イエススは悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒れ野に行った。そして四十日間、昼も夜も断食した後、飢えてしまった。すると悪魔が誘惑しようとやって来て、・・」(マタイオスによる福音)とある。夢窓国師「夢中問答集」(川瀬一馬校注・訳、講談社学術文庫)には、「仏法を行ずる人、ややもすれば魔道に入ると申すことは、いかなる故ぞや。」という足利直義の問いに対して、夢窓国師は「仏道の障りとなる者をば、惣(すべ)て魔業(まごう)と名づく。・・(略)・・魔王・魔民等の、外より来りて行者を悩ますをば、外魔となづく。その魔王は欲界の第六天にあり。これを天魔と号せり。・・(略)・・魔は皆飛行(ひぎょう)自在を得て、身より光を放ち、過去未来の事を知りて、仏菩薩の形を現じ、法門を説くこと、弁論とどこほりなし。(後略)」と答えている。

 オウム真理教では多くの秀才が道を間違って殺人の罪を犯した。人智を超えた、目には見えない力が、無防備な愚かな人々を罪に追いやるのかもしれない。

 5人または5人以上の聖者の集団を僧または僧伽というもう一つの意味は、5人または5人以上聖者がまとまれば、相互に励まし合って聖者自身の修行に怠りがないのではないかと思う。何れにせよ、「僧」が「仏法僧」の三宝の一つであり、僧侶一人を「僧」と言うのは間違っているのである。「僧」は、加持祈祷においても不思議な霊力を顕すのだろう。一人の出家修行者或いは在家修行者はまだそのような霊力は持ち得ないのだ。

218 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起こし、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙(さまた)げられることのない人は、<流れを上(のぼ)る者と呼ばれる。

訳注に「流れを上る者」とは、「パーリ文注解によると「無煩天(aviha)に生れて、そこから出発して、転生してアカニタ(Akanittha)天に行く人である。」」とある。

2010年2月19日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(28(20100219)

 15日、昨日は良かったが今日はまた寒い。バンクーバー冬期オリンピックで上村愛子選手は惜しくも4位に終わった。それでもベストを尽くし、昨年よりは順位が上がった。毎年一段づつ順位が上がったことを彼女は自分自身で可笑しがりながらも、予選第一位で最後に滑ったアメリカの選手の滑りに感嘆していた。

 スノーボードの国母選手が今の若者の服装・髪型で物議をかもし、選手団長橋本聖子氏は彼を入場行進に出さなかった。男はこの決定を正しいと思う。テレビであるキャスターが「‘He is a good sports. と言う場合、‘彼はグッド・スポーツマンである’という意味だ。西欧では子供の時からスポーツする人の態度について教え込まれる。」と言っていた。近頃の若い人たちは文字離れが進み、選手規程を渡されても読まない人が多いらしい。

 先般テレビ中継で観た衆議院予算委員会集中審議でも指摘があったが、国会議員になって渡される手帳に、憲法を初め諸規程が書かれているが、読まない議員が殆どのようである。女房は「家庭教育がなっていないものね。先ずは家庭教育よ。」と憤慨する。今の若者の親たちの世代を育てた年寄りたちが、「教えざるの罪」を犯しているのだ。

 女房の体調不良は徐々に回復の兆しが見えて来た。「田舎に帰らなければならない」という精神的負担を無くし、十分な休養がとれる環境を作って休養させ、近くの内科の先生に処方してもらった漢方薬と、男がテレビショッピングで購入した山田養蜂のロイヤルゼリーの服用などで、身体に欠乏していたかもしれない各種微小物質を補なうようにした。

 男自身、この間の年一回の健康診断で「コレステロール値が高い、尿酸値が高い。肝脂肪あり、大動脈石灰化などの診断が出ている。検査結果のデータは、人間という‘機械’の作動状態を反映している。男は自分自身の身体(=‘機械’)のメンテナンスもしながら、女房の身体(=‘機械’)のメンテナンスもしなければならない。そのように気をつけて努力をしても、‘機械’の経年劣化は防ぎようもないのだ。そして‘あの世’に近づく。

ブッダ「真理のことば」
217 徳行と見識をそなえ、法(のり)にしたがって生き、真実を語り、自分のなすべきことを行う人は、人々から愛される。
219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰ってきたのを祝う。
220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。親戚が愛する人が帰ってきたのを迎え受けるように。

郷里の中学校時代の同級生たちは、遠方に住んでいる級友のことを思って同級会を企画してくれた。男は老母の介護のため女房と一緒にちょくちょく帰郷していて、そのとき会う友人は何人かいるが、同級会では47年間も会っていない級友も会えるかもしれない。

2010年2月18日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(27(20100218)

 男は昭和28年に中学校を卒業した。郷里の中学校の昭和28年卒業の同級生たちが別府の温泉で一泊する同級会を企画し、東京や千葉など遠くに住んでいる級友に声をかけ、47年ぶりに会うことになった。卒業以来一度も会ったことがない級友たちに会うかもしれない。

 実は50歳のとき7組まであった全クラスを通じての同級会が行われたことがあった。そのときは皆まだ若く生き生きとしていたが、今度は73歳になる。往時の女子生徒は白髪の婆さんになっているし、男子生徒は歯が抜けた爺さんも多いことだろう。幸い男はまだ全部親から貰った歯が残っている。歯科医が驚いて「うーン」とうなっていたほどである。

 男はANAマイレージカードのメンバーになっているので航空券はインターネットで購入する。同級会が行われる4月の航空券は半額以下の価格ほどの求めることができる。しかも座席指定もでき、インターネットで購入する場合に割引もある。空港で航空券を買う必要はなく、ゲートに入る時このカードを装置にかざすだけでよい。男の齢でそのようなことができる人はそう多くはいない。

 この便利さは、逆に損なこともある。郷里で法事があるため予め航空券を買っていたが、その数日前に親戚の人が亡くなったので葬式にも出なければならなくなった。そこで買っておいた航空券をキャンセルしなければならなくなり、キャンセル料を取られた。ところが女房が慢性疲労症候群のような状況になり、結局葬式にも法事にも出ることが出来なくなり、航空券と‘じゃらん’で予約していたホテル代も50%のキャンセル料を取られることになった。インターネットは便利で得することも多いが、損もすることもある。時間のスケールで見れば差引ゼロのようである。

 人生も同様である。同程度の人間はある時期羽振りがよくてもある時期に落ち込みがあり、時間軸で平均すると良くも悪くもない平凡な暮らしが続く者とたいして変わらず、皆ちょぼちょぼである。棺桶に片足を突っ込むとき、「よい人生だった」とにこっと笑える者は、ある時期、羽振りがよく、優越感を持っていた者よりも幸せである。

ブッダ「真理のことば」第十六章のつづき、

215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

児童買春で捕まった60前の教師がいた。自分の娘のような女の子を弄び、自分の人生を台無しにした。家族もいるであろうに、妻や子供たちはどんなに嘆き悲しんでいることか。後悔先に立たずである。彼は家族はいない独身者かもしれないが・・。
しかし当の本人は捕まらないと思っていただろうし、そのような罪を犯す前に自分の行動にいろいろ理由をつけて正当化していたことだろう。しかしいろいろ理由を見つけて正当化しようとしても、元々無理なことなのである。件の教師はそのことに気がつかなかった。

2010年2月17日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(26(20100217)

 立春は過ぎたのに今日(13日)も寒い日である。この日本列島に寒気団が居座っていて長期にわたり寒い日が続いている。とは言っても一頃のような冬の感じはしない。雪も極めて少ない。しかし裏日本では豪雪である。ニューヨークもヨーロッパも同様である。問題は冬期にときどき小春日和のような暖かい日があったりして、気温の変化が大きいことである。やはり、異常気象なのだろう。

 このブログが公開されるころ、国内政治は大きく変わっているかもしれない。鳩山首相のご母堂が首相の実弟・邦夫氏に言ったことが国会の集中審議で与謝野氏によって取り上げられ、首相は気色ばんで答弁したが、ご母堂が言ったことは邦夫氏によって事実であることが報道された。ただし、ご母堂への資金提供要請を鳩山首相が直接行ったか、秘書が行ったかは明確ではない。好意的に思えば、多分、秘書とご母堂との間で直接話が出たのだろうと推測する。秘書たちも自分たちの生活維持のため、いろいろ金の工面をしただろう。

 女房の帯状疱疹は完治しつつあるが、「疲れやすい」「脱力感がある」という症状が続いている。これは帯状疱疹を引き起こした要因であろうが、帯状疱疹の症状ではない。男は少し心配であるので、女房と一緒に近くのかかりつけの先生のところに、今日は半日の診療であるが相談に行き、血液検査を受けさせ、プラセンタの注射をしてもらった。血球数などのデータはすぐ出た。異常ない。あとは外部に委託されて後日微細にわたるデータを見ることができる。ついでに各種腫瘍マーカーも依頼しておいた。これで何か異常が発見されれば、精密検査を受けることになる。そこまで行かないことを祈る。

ブッダ「真理のことば」の続きである。
213 愛情から憂いが生じ、快楽から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いは生じない。どうして恐れることがあろうか?

 男が女房の健康のことを心配するのは「愛情」のためである。もし、女房の健康管理に夫として不十分なことがあり、それが元で手当てが遅れたりしたら後悔すると男は思う。この気持ちから男は「離れる」ことはできない。「生きるも苦」「老いるも苦」「病むのも苦」である。どうせ「苦」から離れることができないのなら、徹底的に「苦」と付き合うしかない。ブッダが言っておられることは真理である。いずれその時がくるだろう。

214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 生身の人間は、「快楽」を求める気持ちを捨て去ることはどうしてもできない。しかし、欲望むき出しの快楽追求はしないように自制することはできる。それができない人も多いが。

2010年2月16日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(25(20100216)

 ブッダ「真理のことば」第十六章は「愛するもの」という題である。男はこれを読んで、正直のところ世俗の人間にとって「一番難しいこと」だと思った。「愛する人をつくるな」と言われても、一時的な喜びかもしれないが、人は誰かを愛し、子供を授かり、家族を持ち、家族を愛し、愛されることで喜びがあるのだから・・・。
でも男は、これらのブッダのことばは、「他を拠りどころとせず、自分を拠りどころとする」生き方の覚悟について教えているのだと思う。「苦しみ」の根源について教えているのだと思う。「人は苦しみから決して抜けられず、一時的な楽しみも結局は苦しみの原因になるのだ」ということを教えているのだと思う。

210 愛する人に会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わざわいの絆(きずな)は存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 キリスト教の聖書には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたたちの天の父の子供となるためである。」と書かれている。

 ブッダのことばとの根本的な違いは、約2500年前のブッダは「自分を拠りどころとし他を拠りどころとするな。」と教えるが、約2000年前のキリストは「天の父の子供」となることを教えることにある。つまり、キリストは、人は「天の神様にすがりなさい。」と教えるが、ブッダは、人は「自分自身を拠りどころにしなさい。他者に頼るな。」と教えている。

 自分自身が拠りどころである仏教の世界では、宗派間、宗教間で殺し合うような争いは起こらない。仏教はまさしく「人間の学」である。人個々それぞれの多様性の中、個々それぞれの「生き方の学」である。

 ブッダはこの世での生き方次第であの世でどうなるか説いておられる。故に男は、人は自分の「あの世」のことを常に念頭におきながら「この世」で生きることも、老いることも、病の床に臥すことも、死ぬこともすべて苦しみであり、怨みや憎しみに会う苦しみや、愛する人と別離する苦しみや、自分が求めていることが得られない苦しみや、苦しみから逃れようとして一時的な快楽を得ても結局は苦しむことになるということ、要するに人は苦しみの中にあるということを知って、それをありのままに受け入れ、真面目に、徳を高めるように努力することが重要であると思っている。

2010年2月15日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(24(20100215)

205 孤独(ひとり)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる。真理の味をあじわいながら。
206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかな智慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、智慧ある人に親しめよ。月がもろもろの星の進む道にしたがうように。

ブッダ「真理のことば」6番目の詩に「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」がある。(関連記事:「2010125日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)」)
「一日を一生」とし(西行の作詩『至善』)、関連記事:「20091210日木曜日、老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」)、「ここにあって死ぬはずのものである。」という覚悟があれば、人は日常のすべての所作にその意味を感じることができる、と男は思う。
譬えて言えば、人の生体を構成する細胞のように、宇宙の中の星々は宇宙の細胞である。人間は細胞を構成する最小単位の物である。その一つの存在が人間である。これらは時間の経過とともに生成消滅を繰り返している。人間は大宇宙と言うある意味で‘生命体’のようなものの中の微小な構成単位のような存在である。人の一生は、大宇宙の活動に組み込まれたものである。そのように考えると、「孤独」は安らいの味の一つである。そう思えば、淋しいことでもなんでもなく、楽しいことである。理屈っぽいと言われそうであるが男はそう考える。ブッダが説いておられる内容はもともと理屈っぽいものを、「真理のことば」として平易に語られているのだ。男はそう理解している。
そのような理解は、ブッダの深遠な智慧に遠く及ばないものである。一生勉強し、ブッダの最高レベルの智慧を学ぶことができるように努力しなければならない。それを僧のもとで学ぶことが最も楽しいことに違いないが、煩悩多い男は人に理屈っぽいと思われようと、なんと言われようと、このブログに書いているような方法で智慧を学んでゆこうと思う。
ところで、「幸福の科学」という宗教団体が「幸福党」という政党を立て、国会議員を出そうと頑張っている。大川隆法氏は宗教家でも何でもない。勿論206番目の詩の「もろもろの聖者」のカテゴリーには入らない。言うなれば男同様の俗人である。男は、彼が俗人として政党の総帥になると言うのであれば理解できるが、人々はどう見ているであろうか?

2010年2月14日日曜日

 ブッダ「真理のことば」を学ぶ(23(20100214)

 ブッダ「真理のことば」第十五章は「楽しみ」である。人は限られた人生を楽しく生きたいと願う。楽しみのため、大いに稼ぎ、富を蓄え、優越を味わいながらこの浮世を楽しみたいと願う。男もかつて金銭的な、物質的な豊かさに憧れ、夢を追い続け、もがいていた時代があった。晩節を汚し、新聞やテレビ報道に不名誉な登場をする男たちがいる。昨今は40代前後の女がお金欲しさに何人もの男を騙し、殺し、ニュースになっている。皆、はかない、幻のような‘富’を追い求めている。

 男はこの齢になってようやく煩悩から遠ざかりつつある。良寛の作詩『意(こころ)に可なり』『無心』などが大好きである。良寛は今の新潟県西蒲原郡国上(くにかみ)山の国上(こくじょう)寺境内にあった五合庵に47歳のときから13年間住んだが、良寛が70歳のとき29歳年下の貞信尼との間で恋歌を贈答し、その貞信尼に看取られつつ74歳で没している。男は、良寛は貞信尼との間で本当の恋をしたのではないかと思う。

 男も女も、最期までそれぞれの魅力を保ち続けるべきである、と男は考えている。その理由は、それこそが人生を最期までよりいきいき生きる力の源泉であると確信するからである。いつの世も真理は変わらない。ブッダの言葉に耳を傾けよう。204の言葉にある‘ニルヴァーナ’の境地は、座禅と深い瞑想の結果得られるものだと思うが、男はまだそれを試す気にはなっていない。いよいよ最期が近づいたな、と思ったときそれを試そうと思う。

197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩みなく暮らそう。
199 貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、患(わずら)い無く、大いに楽しく生きよう。貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、貪らないで暮らそう。
200 われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥(ふ)す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。
203 飢えは最大の病であり、形成された存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝である。信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

2010年2月13日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)

 ブッダ「真理のことば」第十四章を続ける。

190191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知識をもって、四つの尊い真理を見る。すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道(はっしょうどう)とを(見る)。
192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。

 訳注によれば、「「聖者の集い(=僧)」は、原語sanghaを音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは原義からの転用であって、この場合には適合しない。」とある。男は「僧」とは一人の僧でもそのように言うと思っていたが、五人または五人以上の(聖者の)団体でないと「僧」とは言わないのだということを初めて知った。「出家者」は「僧」ではないのだ。街で読経しながら乞食をしている人は「僧」ではないのだ。まして「一人の学問僧」などというのも間違っているのだ。「お坊さん」というならまだしも・・。

 「帰依」は「仏法僧」の三宝に対する帰依であって、真理を知るための準備段階である。「四つの尊い真理」は漢訳で「苦、集、滅、道」と示されている。「八聖道」は、①正しい見解(正見)、②正しい思い(正思)、③正しいことば(正語)、④正しい行為(正業)、⑤正しい生活(正命)、⑥正しい努力(正精進)、⑦正しい気づかい(正念)、⑧正しい心のおちつき(正定)である。『仏教の基礎知識』『仏教要語の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社刊)に詳しく書かれている。男は、「法」とはこの真理を分析し、再構築した体系であり、古来、多数の「聖者たち=僧」が説いた教え(=お経)であると理解する。

 男も女房も朝のNHK番組のホームドラマは面白くないのでこれが始まるとすぐ民放に切り替え、注目する放送があれば視聴し、なければスイッチを切ることにしている。今朝、東京の新葛飾病院の清水陽一院長のことが放映されていた。清水先生はこの病院を経営中大腸がんに罹り手術を受け、ご自分の死と向き合うことになった。それを契機に、患者・家族・人生の全体を考えるようになり、その患者さんの最期まで看るようになったという。

 男はこの先生はまさしくニルヴァーナの近くにおられるお方であると思った。素晴らしい!このようなことは、人の役に立つ技ももっていない男にはできないことである。男は子供の頃将来医者になりたいと思ったことがあった。来世ではきっと、と思う。
この病院は「あそこに入るとみな死ぬ。」と噂されていた病院であった由。清水先生が院長として請われこの病院にやってきて、その病院を地域の拠点病院にまで仕上げた。彼のスローガンは医療事故が起きても「①逃げない。②ごまかさない。③嘘をつかない。」をモットーにして誠実に対応しているので、これまで訴訟は起きたことがないという。

2010年2月12日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(21(20100212)

昨日(8日)、山本病院の理事長・山本(医師)と塚本(医師)が不必要な手術をして患者を死亡させたとして逮捕された。手術前のエックス線写真で肝臓に腫瘍ができていないと判断されていたにもかかわらず、その判断が誤りだと言って強引に手術をし、出血多量の状態になったにもかかわらず、適切な処置もせず放置したという。
テレビで山本の顔が映し出された。その顔つきはいかにもそのようなことをやりそうな顔つきである。その親、母親の顔が想像されるような顔つきである。塚本はその病院に雇用されたばかりのときであったので、理事長山本の命令に従わざるを得なかったという。
これが殺人でなくて何だろうか? 世の中にこのような傲慢な輩は沢山いる。自分が偉いと思いこんでいる。「先生」とか「先生御侍史」と呼ばれて悦にいっている。人間に対する尊厳の心は微塵だにもない。その「先生」の妻たちも、たいして教養もないのに世間から敬意を表されて、身を金銀真珠などの装飾でつつみ「~ざあますのよ」とお高く止まっている。世間の人々はそのような人種に軽蔑の眼を向けながらも、そのような人種に憧れ、そのような人種と交流していることを誇りたがる。
テレビの朝の番組で同世代と思われる各界の人士が昨今の話題についてわいわいがやがやと語り合っている。皆楽しそうである。現在の社会では大学時代の交友の雰囲気を卒業後も持ち続けるのが楽しいのかもしれない。其処には‘個’としての自己が確立されているように見えて、実は自立していないように見える。彼らはあとで何処かに立ち寄りビールのジョッキを傾けたりするのであろうか?皆、他者を差別しないと不安なのだ。
皆、誰か、何かに寄りかからなければ不安のである。「自分自身」ではない「他者」に拠りどころを持たなければ、不安で仕様がないのである。かくいう男自身も例外ではない。しかし、少なくとも男はブッダの教えを学ぼうとしている。齢も齢なので多少「自己を拠りどころ」にして行きたいと思っている。33歳で従容として逝った生母のことが念頭にある。
男がもしもっと早い時期からブッダの教えを真剣に学んでいたならば、と思うことがあるが、その時期は若く元気で煩悩の真最中にあった。今の時代、生きて行くために学ばなければならないことが余りにも多く、ブッダの教えを学ぶ時間が余りにも少ないのだ。

ブッダ「真理のことば」第十四章を続ける。
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄(きよ)めること、これが諸の仏の教えである。
184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は(道の)人ではない。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。

2010年2月11日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(20(20100211)

 男は昨日図書館に行き、『姓氏家系大典』で我が家のルーツについて調べてみた。この書物にはいろいろ詳しく書かれていて、自分のルーツが判り多少興奮した。

 とは言ってもその時代から860年も経っているし、それ以前からのことを合わせると千年も経っているので、自分と血が繋がっている人は無数にいる。特に男の郷里ではその地域に住む人々は昔を辿れば皆血縁がある人々であることは間違いない。皆同胞である。

 男はときどき思うことがある。今世間を騒がせている人たちは、そのルーツが歴史上のある特定の人物につながる人たちで、そこに集う人たちもそのルーツがその歴史上の特定の人物に関わりがあった人たちではないかと。

 古来、この国では自分の勢力圏を拡大させるため、血で血を洗う抗争を繰り返しながら、今日まで来ている。人々が尊敬する歴史上の武将も、見方を変えれば殺人者である。そこに集う人々も殺人に手を貸した人々である。

 今日、殺人は犯罪である。殺人の代わりにその相手の暮らしてゆく道を断つことを為す。それまで甲の暮らしをしてきたが、その道を断ち乙の暮らしを余儀なくさせる。支配欲の強い人はそのようにして世の中でのし上がってゆく。それを生存競争だといい、その競争に勝たなければ自己実現ができないと考える。それは自然なこと(自己保存)である。

 勝つためには独りでは勝てない。必然的に仲間を作る。それには金が要る。勝つと言う目的の為に金を集める。そして強い軍団を作り、相手の軍団と対抗する。今、まさに小沢氏が目論んでいることはそれである。勝つと言う目的の為、危ない橋を渡りながらも精力的にその目的に集中する。鳩山首相以下閣僚は朝廷の‘公家’のようなものである。

 古来、システムの優劣が戦いの勝敗を決している。強固なシステムを構築できた側が敵対する相手に勝つことができる。軍事も同様である。わが日本国はアメリカとの同盟により敵対する側より優位に立つことができている。しかし、相手の方もこれに対抗して強固なシステムを構築しようと努力を惜しまない。これが自然の姿(自己保存)である。

 自己保存力(自存力)はすべての物に存在する。これは自然の理である。

 男はこういう現実の中、日本国の真の安全のため、小沢氏に対抗する優れた‘武将’の出現を願っている。選挙に勝つことだけのために国の安全を軽視する小沢氏を男は認めない。

ブッダ「真理のことば」第十四章「ブッダ」
179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人(なんびと)も、かれの勝利に達し得ない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか。
180 誘(いざな)うために網のようにからみつき執着をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯(はて)しがない。跡をもたないかれを、いかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか。

2010年2月10日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(19(20100210)

  今日(8日、月曜日)、朝から温暖なよいお天気である。気持ちが良い。女房の帯状疱疹もかなり良くなった。帯状疱疹は一度罹ると免疫ができて今後これに罹ることはないらしい。昨年10月、大分の田舎に独居している91歳になる母(継母)が帯状疱疹になり、かかりつけの病院に入院したので男は女房と一緒に帰省したが、女房の帯状疱疹はそのとき母から感染したのかもしれない。母は退院し、自宅で塗り薬で治療したが、背中を流すとか髪を洗うとかの入浴の世話は女房がした。

  ウイルスは健康な身体の中では静かにしているが、過労とかストレスとか老齢とかの状況になると免疫力が低下し、ウイルスが活動し始めるのだろう。母の場合は入院して治療し、完治したころ退院しているので、ウイルスは残っていなかった筈である。そうであれば、女房の帯状疱疹のウイルスは子供の時から女房の身体の中に存在していて、じっとしていたことになる。多分そうであろう。ウイルスは生きた細胞に寄生しないでは増殖できず、寄生する相手がいなければ何百年でも待ち続けるということであるから・・。

  男のところに横浜地方検察庁から過料3万円を払えと言う納付告知書が来た。平成10年にお特定非営利活動促進法という法律ができてすぐ、男が代表になってあるNPO法人を立ち上げ、事業が順調に運びその法人の資産が増えたのにその届をしていなかったため過料を課せられたのである。男はその頃その届出が必要なことは知らなかった。

  昨年暮れ裁判所から突然そのような過料を課すという通知が来て、男は初めそれは裁判員のことかなと思っていたら、中身は過料のことであった。男はそのNPO法人の代表をもう何年も前に辞任していたのであるが、過料はそのNPO法人で支払ってくれることになっているので、今日は納付告知を以ってそのNPO法人の事務所に行った。そのNPO法人は男の後任者の指導のもと、よく活動して地域から高い評価を受けている。

  ブッダ「真理のことば」第十三章は「世の中」という題である。
この世は前世の来世であると夢窓国師はおっしゃった。(『夢中問答集』講談社学術文庫)
169 善い行いのことわりを実行せよ。悪い行いのことわりを実行するな。ことわりに従って行う人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

170 世の中は泡沫(うたたか)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

171 さあ、この世の中をみよ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。

175 以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。

177 物惜みする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人々は分かちあうことを喜んで、ゆえに来世には幸せとなる。

2010年2月9日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(18(20100209)

自民、公明、みんなの党の3党が衆院に共同提出した石川知裕衆院議員に対する辞職勧告決議案について、「審議するに当たらないということで対処していく」と述べ、採決に応じないと言った民主党の山岡国会対策委員長は、小沢氏の側近であるということである。
テレビ報道によれば船田氏はインタヴューに応えて「自分は元小沢氏の側近であったが彼の気に入らないことをしたとして小沢氏から切られた。その後を山岡氏が継いだ。」という趣旨のことを言っていた。
権力により自分の気に入らない者を容赦なく切り捨てる手法は、ある意味では‘みせしめ’であり、古来よく使われてきた手法である。小沢氏は口下手であると聞く。言葉をよく使いこなす人であれば一応口頭で‘解雇’の理由を説明し、相手に一応の弁明の時間を与え、それで‘お別れ’ということになるだろう。小沢氏が野党の要求する国会での説明や参考人招致に応じないのは、彼が口下手のせいであろうと男は推測する。
平野官房長官は、民主党は永住外国人参政権付与については地方自治体の反対の意向に関わりなく国として永住外国人の権利を守るため推進すると言っている。これは「選挙に勝つ」ことが最重要であると考える小沢氏の意向を強く反映したものであろう。
男は民主党が夏の参議院「選挙に勝つ」ために、日本の国として最も重要なことを軽んじてはならないと思う。男は戦前に日本国籍であった在日の人たちと、そうでない人たち、特に戦後徐々に増えてきている中国人たちとを同一に扱うのは間違っていると思う。戦前日本人として扱われていた在日の方々は、日本への帰化により毎年減ってきている。そのような人たち、特別永住外国人には日本への帰化を促進する手段として地方行政への参加をある程度限定した形で認めることについて、男は検討しても良いと思う。古来、わが国は大陸から多数の移住者を受け入れてきた。その子孫は皆日本人になっているのだから。
一方で一般永住外国人の区分に入る中国人は年々増加している。日本は中国との間で近年相互交流が深まり、貿易、食料などの相互関係も非常に深まって来ている。いわゆる‘華人’は世界中の国々の中でコミュニティを作り、助け合っている。我が日本国内においても同様である。そういう状況の中、日本と中国の間で歴史認識、尖閣諸島や日中中間ライン近辺での石油基地の建設、不透明な軍拡などの問題できしみが生じている。そういう中で一般永住外国人に地方参政権を与えた場合、日中間の民族紛争の種子になりかねない。ここは選挙目的でなく、国の安全・安定に関わることとして慎重に考えるべきである。

ブッダ「真理のことば」第十二章は、題が「自己」である。民主党はよく考えて欲しい。
160 自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
166 たとい他人とっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。