2010年2月15日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(24(20100215)

205 孤独(ひとり)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる。真理の味をあじわいながら。
206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかな智慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、智慧ある人に親しめよ。月がもろもろの星の進む道にしたがうように。

ブッダ「真理のことば」6番目の詩に「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」がある。(関連記事:「2010125日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)」)
「一日を一生」とし(西行の作詩『至善』)、関連記事:「20091210日木曜日、老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」)、「ここにあって死ぬはずのものである。」という覚悟があれば、人は日常のすべての所作にその意味を感じることができる、と男は思う。
譬えて言えば、人の生体を構成する細胞のように、宇宙の中の星々は宇宙の細胞である。人間は細胞を構成する最小単位の物である。その一つの存在が人間である。これらは時間の経過とともに生成消滅を繰り返している。人間は大宇宙と言うある意味で‘生命体’のようなものの中の微小な構成単位のような存在である。人の一生は、大宇宙の活動に組み込まれたものである。そのように考えると、「孤独」は安らいの味の一つである。そう思えば、淋しいことでもなんでもなく、楽しいことである。理屈っぽいと言われそうであるが男はそう考える。ブッダが説いておられる内容はもともと理屈っぽいものを、「真理のことば」として平易に語られているのだ。男はそう理解している。
そのような理解は、ブッダの深遠な智慧に遠く及ばないものである。一生勉強し、ブッダの最高レベルの智慧を学ぶことができるように努力しなければならない。それを僧のもとで学ぶことが最も楽しいことに違いないが、煩悩多い男は人に理屈っぽいと思われようと、なんと言われようと、このブログに書いているような方法で智慧を学んでゆこうと思う。
ところで、「幸福の科学」という宗教団体が「幸福党」という政党を立て、国会議員を出そうと頑張っている。大川隆法氏は宗教家でも何でもない。勿論206番目の詩の「もろもろの聖者」のカテゴリーには入らない。言うなれば男同様の俗人である。男は、彼が俗人として政党の総帥になると言うのであれば理解できるが、人々はどう見ているであろうか?

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