2010年2月20日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(29(20100220)

 昨日はブッダ「真理のことば」第十六章で次の一つを飛ばした。この詩は修行者が最終目標にすべき詩であると思われる。男のような凡人は出家までして修行を積もうとは思わない。73歳にもなろうとしてもである。福井県の永平寺で修業を積む雲水たちは若い時から出家して修行を積んで行こうとする人たちである。その中には一生妻帯せず修行一筋に生涯を終える聖者の域に達する修行者もいるであろう。

 前にも書いた(関連記事:2010213日土曜日、「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22(20100213)」)が、僧または僧伽とは、そのような聖者が5人または5人以上の集団のことを言うということ知った。男はその意味について考えてみた。

 その一つは、5人または5人以上の集団であれば、霊的な世界の中であらゆる悪や誘惑を寄せ付けないのだと思う。霊的な世界では男のような凡人が決して知り得ない‘不思議な’ことがあるのだ。

 キリスト教の聖書には、「イエススは悪魔から誘惑を受けるため、聖霊に導かれて荒れ野に行った。そして四十日間、昼も夜も断食した後、飢えてしまった。すると悪魔が誘惑しようとやって来て、・・」(マタイオスによる福音)とある。夢窓国師「夢中問答集」(川瀬一馬校注・訳、講談社学術文庫)には、「仏法を行ずる人、ややもすれば魔道に入ると申すことは、いかなる故ぞや。」という足利直義の問いに対して、夢窓国師は「仏道の障りとなる者をば、惣(すべ)て魔業(まごう)と名づく。・・(略)・・魔王・魔民等の、外より来りて行者を悩ますをば、外魔となづく。その魔王は欲界の第六天にあり。これを天魔と号せり。・・(略)・・魔は皆飛行(ひぎょう)自在を得て、身より光を放ち、過去未来の事を知りて、仏菩薩の形を現じ、法門を説くこと、弁論とどこほりなし。(後略)」と答えている。

 オウム真理教では多くの秀才が道を間違って殺人の罪を犯した。人智を超えた、目には見えない力が、無防備な愚かな人々を罪に追いやるのかもしれない。

 5人または5人以上の聖者の集団を僧または僧伽というもう一つの意味は、5人または5人以上聖者がまとまれば、相互に励まし合って聖者自身の修行に怠りがないのではないかと思う。何れにせよ、「僧」が「仏法僧」の三宝の一つであり、僧侶一人を「僧」と言うのは間違っているのである。「僧」は、加持祈祷においても不思議な霊力を顕すのだろう。一人の出家修行者或いは在家修行者はまだそのような霊力は持ち得ないのだ。

218 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起こし、意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙(さまた)げられることのない人は、<流れを上(のぼ)る者と呼ばれる。

訳注に「流れを上る者」とは、「パーリ文注解によると「無煩天(aviha)に生れて、そこから出発して、転生してアカニタ(Akanittha)天に行く人である。」」とある。