2010年2月16日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(25(20100216)

 ブッダ「真理のことば」第十六章は「愛するもの」という題である。男はこれを読んで、正直のところ世俗の人間にとって「一番難しいこと」だと思った。「愛する人をつくるな」と言われても、一時的な喜びかもしれないが、人は誰かを愛し、子供を授かり、家族を持ち、家族を愛し、愛されることで喜びがあるのだから・・・。
でも男は、これらのブッダのことばは、「他を拠りどころとせず、自分を拠りどころとする」生き方の覚悟について教えているのだと思う。「苦しみ」の根源について教えているのだと思う。「人は苦しみから決して抜けられず、一時的な楽しみも結局は苦しみの原因になるのだ」ということを教えているのだと思う。

210 愛する人に会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わざわいの絆(きずな)は存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 キリスト教の聖書には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたたちの天の父の子供となるためである。」と書かれている。

 ブッダのことばとの根本的な違いは、約2500年前のブッダは「自分を拠りどころとし他を拠りどころとするな。」と教えるが、約2000年前のキリストは「天の父の子供」となることを教えることにある。つまり、キリストは、人は「天の神様にすがりなさい。」と教えるが、ブッダは、人は「自分自身を拠りどころにしなさい。他者に頼るな。」と教えている。

 自分自身が拠りどころである仏教の世界では、宗派間、宗教間で殺し合うような争いは起こらない。仏教はまさしく「人間の学」である。人個々それぞれの多様性の中、個々それぞれの「生き方の学」である。

 ブッダはこの世での生き方次第であの世でどうなるか説いておられる。故に男は、人は自分の「あの世」のことを常に念頭におきながら「この世」で生きることも、老いることも、病の床に臥すことも、死ぬこともすべて苦しみであり、怨みや憎しみに会う苦しみや、愛する人と別離する苦しみや、自分が求めていることが得られない苦しみや、苦しみから逃れようとして一時的な快楽を得ても結局は苦しむことになるということ、要するに人は苦しみの中にあるということを知って、それをありのままに受け入れ、真面目に、徳を高めるように努力することが重要であると思っている。