2010年2月21日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(30(20100221)

2歳の自分たちの子供を虐待して死亡させた35歳の夫婦が裁判員裁判にかけられた。その虐待は、これが人のすることかと思うほど残酷なものであった。その様子はここに書くに忍びない。死んだこどもの顔を「安らかな顔だった。あれでよかった。」と件の母親は言ったという。弁護士はこの夫婦が「反省している」と弁護した。反省ですまされることではない。この夫婦はそれぞれ人間の顔をしてはいるが、犬畜生にも劣る‘生き物’である。
この夫婦はそれぞれ子供の時、親から虐待を受けていたのであろう。その親も子供のとき親から冷たく扱われていたのであろう。子供を虐待し死亡させた親は、次の世において最も苦しむところに転生して生まれてくることだろう。
バンクーバーで行われている冬期オリンピックでは、500mスピードスケートで長島圭一郎が銀、加藤条治が銅メダルを取った。フィギュアスケートショートプログラムで高橋大輔が3位に、織田信成が4位になり、小塚崇彦は8位につけた。女子カーリングではアメリカに勝ったがカナダには負けた。明日中国と対戦する。スノーボードでは服装のことで開会式に出ることが出来なかった国母和宏が大技で挑んだが最後の着地で痛恨の失敗をしてしまった。スプリントでは善戦するも準決勝進出はならなった。これから女子フィギュアに浅田真央や安藤美姫らにメダルの期待がかかる。オリンピックの大舞台で若者が世界の頂点を目指して技を競い合っている。
人の一生は様々である。罪を犯す若者がいる一方で自分を鍛え、技を磨き、競技を観る人々に感動を与える若者がいる。その両者の何処が違うかと言うと、罪を犯す者は自分が満たされない原因を他に求めている。自分自身を強固な拠りどころにしていない。一方、スポーツ選手は競技に勝つために自分自身を知りつくし、自分の弱点を克服するため考え、弱点を補う努力をし、自分の能力の限界まで力を発揮するようにしている。
ブッダは「自分を洲とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどころとしてはならない。」と繰り返し言っておられる。罪を犯す者は自分が拠って立つ洲にはならず、ものごとがうまく行かない原因を他に転嫁し、他を拠りどころとしている。要するになんでも人のせいにするのである。悪事を正当化するための理屈を作るのである。
民主党政権で子ども手当が支給されるが、給食費を払わない人に子ども手当を出すことについて議論された。車を持ち、携帯電話を持ち、月々相当な費用を払っている人が「給食の内容がよくないから払わない。」と言って払わず、子供につらい思いをさせている。

235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(かて)さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚(けが)れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、天の尊い処に至るであろう。
この二つの詩は第十八章「汚れ」の冒頭にあるブッダのことばである。

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