2011年7月13日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110713)

 仁川港内において、ワリヤーグ号は自沈し、コレーエツ号は自爆した。日露戦争は仁川港外における日本艦隊のコレーエツ号に対する先制攻撃による小競り合いで戦端が開かれていた。秋山氏は修士論文にこう書いている。

 “仁川沖海戦は、その真相があまり知られていない。しかし、それは正に日露戦争の緒戦であった。その最初の一発は190428日午後4時半過ぎに仁川沖に於いて日本の水雷艇(魚雷発射)により放たれたのである。公式記録の如何に関わらず、この事実は断定的である。

 仁川港に停留していた露艦ワリヤーグ号、コレーエツ号は、国交断絶を知らなかった。まして宣戦布告の前でもあり、この地で日本艦隊と戦う意図は全く持っていなかった。”

 当時、ロシアは日本の戦力を過小評価していて、呑気に構えていた。この状況は、今の日本が、中国の南シナ海や東シナ海における軍事的行動に対して、「あれは中国がアメリカに対峙して覇権を争っている」という程度の認識でいるのと似たようなところがある。日露戦争当時の日本は、香り高い、美しい武士道精神のもと、日本の「自存」をかけて「富国強兵」というスローガンを掲げてまっしぐらに近代化に突き進んでいた。

 “ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価するものが多かった。・・(中略)・・日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して・・”

 明治政府は、明治18年(1885年)1月に締結された「日布移民条約」により、ハワイへの移民を公式に許可した。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。日本とハワイ王国との間の合意により前年(1884年)、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があった。翌年1月最初の移民946名が東京市号に乗り込み、ハワイに渡った。彼らは海外日系人祖先第一号である。

海外日系人の推定総数は260万人である。これに対して現在中国は海外に約5千万人の華僑がいる。いずれのそれぞれの国の事情によるものである。つまりは、国としての「自存」の行動の結果である。我々は万物共通の「自存」という概念を正視すべきである。

 今、中国は、第1列島線、第2列島線を太平洋上に引き、第1列島線内に「核心的利益」を主張している。その中に奄美・沖縄・南西諸島・台湾が含まれる。それは、13億人の人口を抱える発展途上の中国の「自存」のためである。日本は、かつてのロシア帝国のように鷹揚に構えていると、必死の思い「自存」のため行動している中国に、かつて貧しかった日本がロシアに対して先制攻撃をかけたように、ある日突然、日本は中国軍による先制攻撃を受け、亡国の道に進みかねない。アメリカは「日本を守る」と言うが、日本からの要請がない限り行動できない。日米同盟は双務的ではない。いわば、日本はアメリカの妾のようなものである。社民党や、共産党や、日本国内の反日的党員たちや、日教組など反日的団体の人の言うことに惑わされてはならない。              (続く)

2011年7月12日火曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110712)

 “外国軍艦の艦長たちは何れもこの要請を拒絶した。そしてルードネフ大佐に、日本艦隊に対して降伏することを勧めた。しかし、ルードネフ大佐は武人の誉れを重んじて敢えて撃って出ることを選んだ。・・(中略)・・そして通告を受けた時刻である正午の少し前、各国軍艦の乗組員や仁川在住の日本人居留民、韓国市民たちが固唾を呑んで見守る中を、ワリヤーグ号とコレーエツ号はマストに戦闘旗を掲げておもむろに動き出したのである。・・(中略)・・

 ワリヤーグ号艦長ルードネフ大佐は、出撃に先だって総員を集め、悲壮な演説をした。「諸君、我々は今や、優勢な日本艦隊と戦闘を開始せんとしておる。我々はロシアの国旗の名誉を護持するために敢然と戦わなければならない。我が艦は勿論のこと我々は一人として降伏して敵に身を委ねたりはしない。各人はその義務を果たすために、最後の血の一滴をも振り絞って戦い抜こう。・・(中略)・・

 ロシア皇帝と露艦のために「ウラー(万歳)」が斉唱され、ワリヤーグ号の軍楽隊がロシア国歌を奏で始めると水兵たちは高らかに合唱した。露艦が各国軍艦の傍らを通り過ぎるとき、軍楽隊は、英、仏、米、それぞれの国歌を演奏した。それは別れのあいさつであるかのようで、「ウラー」「ビバー」の歓声が一斉に沸き起こり、外国軍艦の水兵たちは帽子を振ってこれを見送った。

 ワリヤーグ号コレーエツ号の出撃、それは悲壮この上ないものであった。乗組員たちは、今生の別れともなる家族への最後の手紙を書き、英艦タルポット号に託した。”

 “午前010分、最も港近くに碇泊していた「浅間」から露艦出港の信号が発せられた。旗艦「浪速」に座乗する瓜生司令官は、これを見止めて、直ちに戦闘開始の命令を発した。露艦は檣頭に戦闘旗を翻しながら、ワリヤーグを先頭にしてコレーエツ号がやや斜め後ろからこれに続いて出撃して来た。・・(中略)・・彼我の距離約7千メートル突に接近せしを以て「浅間」は敵を左舷に見其の前路を横断しつつ同20分ワリヤーグ号に向かい轟然砲火を開き敵も亦直ちに応戦し・・(中略)・・巨弾屡々ワリヤーグに命中し火焔盛に颶れり。敵も亦応戦大に力めしも遂に支ふるに能わず、ワリヤーグ先ず右方に回頭して八尾島の陰に隠る。・・(中略)・・独り「浅間」はワリヤーグを追うて愈々攻撃を続け敵は損害甚だしきものの如く、艦体著しく左舷に傾き火焔に包まれつつ仁川錨地を望み遁走し、コレーエツも亦之に随えり。・・(中略)・・深傷を負ったワリヤーグ号は、かろうじて反転し、仁川港に遁入、コレーエツ号もこれを追って港内の錨地に逃げ込んだのである。”

 “艦長ルードネフ大佐は・・(中略)・・負傷者を外国軍艦から派遣された端艇に移乗させ、次いで総員退艦を命じた。・・(中略)・・港内で艦体を爆破することは諸外国の艦船に被害を及ぼす虞れがあり大変危険であると、碇泊中の各国軍艦の先任者である英艦タルボット号艦長のベイリー大佐からの申し入れがあり、ルードネフ大佐はワリヤーグ号の爆破を断念し、キングストン弁を開いて静かに沈めることにした。”       (続く)

2011年7月11日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110711)

 “当時、瓜生司令官の下で艦隊の参謀を務めていた森山慶三郎少佐(後、海軍中将)『戦袍余勲懐旧録』第二輯(有終会大正十五年)にその経緯を次の様に語っている。

「タルポット艦長が言うには、仁川は中立港である。その中立港に於いて、あなた方は我々第三者に損害を与える様な行動は為さらぬことと思うが如何ですか。ロシアの方では、あなた方でそう云う事をやらなければ、自分の方からは手出しをしないと云うがどうですか、斯う云うことであった。

そこで「高千穂」艦長は、私の方は陸兵を上陸せしめよと云う命令を受け取ったが、敵対行動と云うが如き命令は何も受け取っておらぬ、故に斯かる事をする筈がない、と答えた。すると、然らば今日、コレーエツ号に対して為された事があるが、あれは如何なるものでありますか、と問い詰めて来た。「高千穂」艦長はそんな事は知らない。そうでござるかと云うような事で、其の日は終わったのであります。」

露艦側は、各国の艦長と計らって一応の抗議はしたものの、日本側の何とも要領を得ぬ有邪気な受け答えにどうしようもなく、それ以上の反発も抵抗も示さなかった。その辺の事象からしても、露艦側ではまだ、戦争に突入する危機感は持っていなかったようである。”

“陸兵の揚陸作業が順調に進行している一方において、瓜生司令官は自ら筆を執って、露国軍艦に対する挑戦状を起案していた。それは、「日本国と露国は、事実上交戦状態になっているのであるから、貴官は旗下の軍艦を率いて、29日正午までに仁川港を出港して来られよ。もし出て来られなければ、港内のその位置において攻撃を加える」と云う内容のもので、「この通達は本日(9日)の午前7時に貴官に届けられるであろう」と書き添えられていた。瓜生司令官はかつてアメリカのアナポリス海軍兵学校で学んだ秀才で、英語は頗る堪能であった。・・(中略)・・司令官は、各国の艦長宛にもその要旨を伝えると共に、港内の露艦へ向けての攻撃は午後4時以降とするから、中立国の軍艦は当該時刻までに安全な錨地に移動して貰いたい旨の勧告状を作成した。更に、陸上の関係当局、外国公館に対しても夫々通知状を準備した。・・(中略)・・

露艦への挑戦状は、そう云う経緯で、日本領事館から露国領事館を経由して届けられたのである。・・(中略)・・英艦タルポット号艦長、仏艦パスカル号艦長をはじめ、各国公館長、関係先の当局者たちは、第三国の港の中で砲火を交えることを非難して、瓜生司令官のもとに抗議書を寄せてきた。

その間、陸兵上陸援護の任務を完了した「高千穂」「明石」及び第9水雷艇隊は、運送船と相前後して抜錨、最後に残った「千代田」も午前923分仁川港を出港、フィリップ島東側の艦隊錨地に向かった。”

“ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、初め、露国の軍艦が仁川から出てゆく時に、外国の軍艦も同行して欲しいと懇願した。外国軍艦の陰に隠れて日本艦隊の攻撃を逃れようと云う魂胆である。”                         (続く)

2011年7月10日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110710)

 日露戦争の原因とその後の情勢を知るということは、現代において中国の台頭、「覇権主義」だと言われる「自存」願望の論理を理解する助けとなると私は思う。当時の日本は、生き残るために必死であった。今の中国も、生き残るために必死である。そのことを決して軽くみてはならぬと私は思う。

 書店や図書館には近代における日本とロシアの関係、日本と中国や韓国との関係に関する書物が沢山並べられている。それらの書物の記述は専門的であったり、独断的であったりして我々のような一般庶民にとって距離感があるものである。その点、秋山氏の論文や著作は分かりやく、歴史の真実を知るうえで役立つものである。

 秋山氏は、“日露戦争勃発の原因は、ロシア政府における政策の二極分裂・統一性の欠如に起因すると見ることが出来るのである。そして、その政策の二極分裂・統一性の欠如は、つまるところ、極東総督アレクセーエフの剛直にして独断的な性格に由来するものであった。日露交渉のロシア側代表者であるアレクセーエフは、その成否を握る重要な立場にあって、駐日公使ローゼン等の進言や報告により日本側の真意や情勢を十分に察知し得た筈である。他面、露国極東軍の総司令官としてその戦力の限界・弱点を悉知していた筈である。もし、彼が今少しく柔軟な思考を持ち、ニコライ二世に対してその真実を吐露し、勇気をもって平和を選ぶ途を提案すれば、日本との妥協が成立して戦争を回避できたに違いない。アレクセーエフの性格がそれを許さず、最後まで強硬論を主張して、遂に破局を招いたものともいえる。”と言っている。

 今、中国政府内における状況はどうなのであろうか?我が国政府の情報機関は、中国の「覇権主義」と言われる動きについて、どういう情報を得、分析しているのであろうか?先般、日本の松本外務大臣と中国の楊潔篪外交部長(外務大臣)と会談し、南シナ海問題を話し合った際に、楊部長は「南シナ海の問題は当事国同士の2国間で話し合って解決する」旨言った。東シナ海問題もそのスタンスである。

その一方で、中国政府・共産党は奄美・沖縄・南西諸島・台湾に至る列島を中国の領土とする意図を取り下げようともしない。今、日本は中国と密接な経済関係がある一方で、中国は日本の領土・領海・領空の一部を奪い取ろうとする‘敵’である。「領土問題」を「紛争問題」に変えようと意図している。そのことを日本国民は認識すべきである。今、与野党を含め、愛国の志は熱情に欠ける今60代以上の政治家たちに、この国を任せておいてはこの国はやがて亡びてしまうことだろう。秋山代治郎氏の著書の引用を続ける。

“コレエーツ号が攻撃を受けたことを、露艦側は黙っていた訳ではない。・・(中略)・・ルードネフ大佐は、碇泊中の各国軍艦の艦長と相談した。そしてその先任艦長である英艦タルボット艦長レヴィス・ペイリー大佐が各国艦長の総代として、仁川港内に碇泊している日本艦隊の先任艦長である「高千穂」の毛利一兵衛大佐に抗議を申し込んで来た。”

                                    (続く)

2011年7月9日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110709)

 日露戦争の正式な開始は、一旦仁川港を出て旅順に向かおうとしたコレーエツ号が、日本が決めた仁川港外の戦争区域に入ったとき日本海軍の艦艇により攻撃を受け、コレーエツ号もこれに応戦し、お互い撃ち合ったものの双方無傷で仁川港に引き返した後、ワリヤーグ号コレーエツ号2隻揃って、諸外国軍艦から惜別のエールを送られながら悲壮な覚悟で再び仁川港を出、仁川沖合で戦闘を開始した時である。

 “この小競り合いは、幸い双方ともさしての損害はなく、コレーエツ号が反転して仁川港に戻りはじめ、再び日本側で決めた非戦闘区域に入ったので、どちらからともなく矛を収めてしまった。そしてお互い何事も無かったかのように仁川港に入ったのである。”

 “かくして瓜生艦隊は、28日午後530分、威風堂々仁川港に到着した。第9艦隊の水雷艇4隻は、直ちに露艦ワリヤーグ号コレーエツ号を取り巻き、「千代田」「高千穂」がその外側に位置して投錨した。「浅間」「浪速」「新高」は港内を一周し、その威容を示したのち港外に出て、第14艦隊の水雷艇4隻と共に八尾島西方の錨地に陣取り、露艦が逃げ出さない様に水路を塞いだ。午後6時少し回ったところ、木越旅団の揚陸が開始された。木越旅団は九州小倉の第12師団から選ばれて編成された「臨時派遣部隊」である。”

 “28日夕刻前、瓜生艦隊に守られて仁川に入港した3隻の運送船は、それぞれ甲板に5艘づつ平底の大型艀を積んで来た。直ちに艀が降ろされ、木越旅団の兵士たちはそれぞれ分乗して続々と陸岸に運ばれて行った。冬の日は暮れるのが速く、あたりは忽ち暗くなったが、海岸には各所に篝火が焚かれ、その中で揚陸作業を手伝う日本人居留民たちの上気した顔が照らし出されていた。・・(中略)・・木越旅団の揚陸は29日午後3時ごろまで続いた。一部の部隊は、直ちに首都の京城に向かったが、残りの兵士は、その夜、仁川の町の日本人民家に分宿した。

 この日本軍の上陸を、ワリヤーグ号コレーエツ号の水兵たちは甲板上の手摺に群がって呆然と見守っていた。しかし、煙突からは煙が上がっておらず、両艦とも、これから戦いを開始しようとするような気配は全く無かったのである。”

 後に触れるが、秋山氏の修士論文は、“日露戦争は、・・(中略)・・避けられる戦争であったのではないか・・(中略)・・近年の研究動向を踏まえて、日露戦争への道程につき再考察を行い、戦争原因の直接・間接的事象を探り、どのようして開戦へとエスカレートしたのかを明らかにしたい。”という問題設定で書かれている。

 その中に秋山氏が自ら翻訳した『ソ連邦大百科事典(第2版第7巻)』(1951年刊)2223ページ)で、仁川沖の日本海軍による砲撃によって大損傷を受けたワリヤーグ号は、コレーエツ号とともに中立港・済物浦(仁川のこと)に戻り、ワリヤーグ号はキングストン弁を開いて沈没、コレーエツ号は自爆したことを明らかにしている。日露戦争の戦端は、日露関係緊張の最中、日本側の先制攻撃で開かれたのである。         (続き)

2011年7月8日金曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110708)

 先頭を走る「千代田」は、既に、軍議で決めた港内(即ち、非戦闘区域)に入っていた。この時、港から出て来た露艦コレーエツ号と出合った。コレーエツ号は、日本艦隊に敬意を表するために甲板に衛兵を整列させていた。これを見て「千代田」は、配置していた砲手を後ろに下げて隠し、急遽、衛兵を立ててこれを迎えた。そして両艦は行き交うとき互いに慇懃な敬礼を交わしたのである。後に分かったことであるが、コレーエツ号は旅順の基地に帰港する途中であった。”

 秋山代治郎氏は放送大学教養学部の時の卒業研究をさらに深めるため、同大大学院修士課程で日露戦争の勃発の経緯について研究し論文にした。そしてそれを『近代日本と日露戦争――その勃発の経緯と歴史的背景について――』という本の形にした。私は、氏の放送大学教養学部における卒業研究論文とともに、その修士論文コピーも頂いている。

氏は、ソ連抑留時代身に付けたロシア語を駆使して日露戦争に関するロシア側の文献・史料も翻訳し、国会図書館に収められている各種図書・史料等を調査・研究し、学部と大学院の両方で、研究成果をまとめ上げ、本も出版した。

 これらは非常に貴重な資料である。私は歴史は繰り返すと思っている。近代日本とロシアの武力衝突は、起きるべくして起きたものである。今、中国は当時の日本のように「富国強兵」をスローガンに掲げ、東シナ海、南シナ海で示威行動を起こしている。先日は宮城沖まで無断で進出し、中国海軍の行動のための海洋調査を行っている。今、平和を享受している日本人は、かつて自分たちの3世代、4世代前の男たちがどういう思いで、「自存」のためまっしぐらに突き進んだか、顧みる必要がある。今、中国は自国の「自存」のため、まっしぐらに突き進んでいる。今の日本は、当時のロシアのように、鷹揚に構えていると中国にひどい目にあわされること必至である。

 さて、ワリヤーグ号艦長ルードネフ大佐は、ロシア上層部の同意が得られなかったための独断で、速度・戦闘能力共に低いコレーエツ号だけを先に避難させようとした。「千代田」の出港も気づいていた。コレーエツ号には戦う意思は全くなく、日本側が勝手に定めていた仁川港港外、即ち戦闘区域外を知らずに越えた。秋山氏の本にはこう書いてある。

 “『日本海軍公刊戦史』によると「日本艦艇がコレーエツ号に近づき、水雷艇「雁」が300メートルの距離から直径14インチのホワイトヘッド魚雷を1本発射したが、コレエーツ号が進路を変えたので魚雷は外れた。別の2隻の水雷艇がコレーエツ号に一段と接近したのでコレーエツもこれに砲撃を開始した。更に魚雷が2本日本側から発射されたが、やはりこれも当たらなかった」と記載されていることを披露している。そして、結局、どちらが先に仕掛けたのか、その真相は分からないと結論づけている。・・(中略)・・今の今まで、衛兵を並べて敬意を表していたコレーエツ号がいきなり発砲してくるなど到底考えられない。まして、非力な小砲艦のコレーエツ号が、絶対的に優勢な瓜生艦隊を相手に、単独で戦いを挑む様な自殺的行為をする筈がない。・・(中略)・・”        (続く)

2011年7月7日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110707)

 “そう決心した彼は、急ぎ砲術長と水雷長を呼び全備砲に砲弾を装填し、また艦首及び両舷の全発射管に魚雷を装填して、命令一下直ちに発射出来るように手配させた。・・(中略)・・周到な準備を整えた上で、村上大佐は念のため山本海軍大臣に、仁川の露国軍艦を攻撃する許可を求める請訓電報を打電した。ところがその発信と殆ど入れ違いに、海軍大臣からは「仁川港内には外国軍艦が多数碇泊して居るから、其処で戦闘すれば国際問題を惹き起こす虞がある。故に、露艦より戦いを仕掛けて来ない限り当方から手を出すことは控えよ。瓜生司令官にもこの旨を伝えよ」と云う内容の訓電が「千代田」に届いた。・・(中略)・・「千代田」の深刻な懸念にも拘わらず、6日の夜は何の変哲もなく過ぎ去って、7日の朝を迎えた。港には、ワリヤーグ号もコレーエツ号も、いつもと変わらず悠然と碇泊していたし、甲板には、洗濯物まで干してあった。

この日、ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、日露の国交断絶と云う情報を他国軍艦の艦長から知らされた。それを確かめようと仁川の露国領事館に連絡したが、電信が不通で真偽の程は分からなかった。やむなく、わざわざ40キロメートル離れた京城(ソウル)の露国公使館まで出かけて行ってパブロフ公使に会い、諸般の情勢につき協議をした。がしかし、公使館に於いても本国・旅順ともに電信普通で連絡が取れず困惑していた。実は密かに電信線が切断されていたのである。”

“村上大佐は、「千代田」の出港時刻を7日午後1130分と決定した。それは、その夜の月の出が午前1時頃であり、八尾島付近の難水路に差しかかるまでは、暗闇の中で密かに港を出たかったからである。

7日の朝を迎えると、この様な事が起こっているとは知らない仁川の御用商人たちが、いつものように続々と来艦して来た。・・(中略)・・出港の直前の午後11時頃になって、大石大尉が艦長の命を受け、抑留した10数名の人々を集め、懇ろに詫びて一同を伝馬船に乗せて陸に帰らせた。迷惑を蒙った仁川の商人たちは、大変立腹していたが、その後まもなく、瓜生艦隊の来港、木越旅団の上陸、露艦の爆沈と云う一連の重大事を目のあたりにして、はじめてその真相を知り、後日、感慨深くその時の経緯を回想している。

露艦ワリヤーグ号もコレーエツ号も朝から長々とロープを張って海兵たちの洗濯物が干されていた。これを見て、「千代田」の乗組員はやや安堵した気にもなったが、しかし油断はできない。27日は長い長い1日であった。・・(中略)・・

「千代田」は、錨を巻き揚げるや否や、命令一下、静かに発進した。時に7日午後1155分、明かりを消し暗闇を利用して露艦の視察から逃れ、巧みに各国軍艦の間をすり抜けながら静まりかえった真夜中の仁川港を出て行った。・・(中略)・・午後215分、艦隊は再び仁川港に向けて発進した。「千代田」は先導を命ぜられ勇躍先頭に立った。そのすぐ後に「高千穂」「浅間」が続き、「大連丸」「小樽丸」及び「平壌丸」の輸送船3隻を挟んで、後衛として「浪速」「明石」「新高」が続航した。・・(中略)・・       (続く)

2011年7月6日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110706)

 日露戦争についてwikipediaでは次のように記述されている。

 <日露戦争の戦闘は、190428日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌29日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。>

 秋山氏(このブログ「日露戦争前哨戦(20110625)」でプロフィール説明)は、ロシア語の文献等も調査・研究し、この記述にあるとおり、これまで定説になっていたことの誤りを指摘した。以下、氏の著書を引用する。

 “ロシア人たちは、日露の関係が穏やかでなくても、韓国の王室及び政府は親露的であり、仁川はその韓国の港であって、それほど不安な町とは思っていなかった。ところが、1903年(明治36年)113日、天長節(明治天皇生誕日)の祝賀会が日本人居留民会で催された折に、酒に酔った一部の若い衆が、上陸して散歩していた露艦の水兵たちに投石したり殴りかかるなどして乱暴狼藉をはたらいた。

 この騒動は大事に至らずにまもなく収まったのであるが、偶々、牟田水雷長が上陸中であって、その場に居合わせた「千代田」の乗組員たちをすぐ一か所に集め、一名たりともこの騒動に関わらせないように処置し、同時に、事の次第を「千代田」に報告した。

 これを受けて村上艦長は、即座に、当時碇泊していた露艦ポルターワ号(戦艦、10960トン)に小笠原副長を訪問させ、艦長ウスペンスキー大佐に面会して事の次第を報じると共に、日本の水兵たちは全くこれに関与していなかった旨を開陳して了解を求めた。村上大佐は、ロシアとの関係には些細なことにも気を配っていたのであるが、そんな事件があってからは、ロシア海兵の上陸自由行動の姿は殆どみられなくなった。”

 “26日、「千代田」に再び訓電が入り、国交断絶並びに連合艦隊の佐世保発信が知らされた。そして「千代田」は8日午前8時に仁川沖ベーカー島の南方において、瓜生司令官の率いる第4戦隊に会合するように行動せよとの命令を受けた。・・(中略)・・ところが、その「千代田」に愕然とする情報が京城(注、今のソウル)の吉田少佐からもたらされた。それは、韓国の釜山(プサン)沖で”血気に逸った日本艦隊が露国の商船を拿捕したというのである。日本艦隊は行動を起こしたものの、出来るだけ長くそれを秘匿しておく必要があったのである。しかるに、露国商船を拿捕したとなると自ずから交戦状態に入ったことを告知したことになる。おそらく直ぐにロシア側にも伝わって、仁川港にある露艦ワリヤーグ号、コレーエツ号が行動を起こし、「千代田」に襲いかかって来るに違いない。村上大佐はもはや一刻の猶予もないと考えた。まともに戦っては勝ち目がない。どうせ戦闘開始は時間の問題であろうから先制攻撃をするにしくはない。”        (続く)

2011年7月5日火曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110705)

 中国と日本は一衣帯水の関係であり、経済の関係は非常に密接である。しかし、政治の関係では表向き友好的であるが裏では敵対的である。中国の胡錦濤総書記(国家主席)は1日午前、北京の人民大会堂で開かれた共産党創設90周年の祝賀大会で演説し、「活力にあふれた中国は世界の東方にそびえ立ち、中華民族の偉大な復興に向かって自信に満ちている」と述べた。また「強固な国防、強大な軍隊は国家主権、領土保全の堅固な後ろ盾だ」と宣言し、「富国と強い軍隊の実現を同時に進めなければならない」と、軍事力の近代化に力を入れて行く方針を示した。

 これは、明治時代、我が国が列強に伍してゆくため「富国強兵」をスローガンに掲げた状況と似ている。これを中国の覇権主義と捉えるか、「自存」目的のための手段と捉えるかによって、我が国の対応も変わってくる。「覇権主義」なら、国際社会で中国を非難し、それなりの自衛を考えればそれでよい。しかし、「自存」目的の手段としての「富国強兵」方針ならば、大いに警戒が必要である。中国は、このブログ『日露戦争前哨戦(続)(20110626)』で書いたように、1992年の「領海法」や1997年の「海軍発展戦略」や2007年の「琉球復国運動基本綱領」などに書かれているとおり、中国国家・共産党としての強い方針を持って、非常に利己的な「核心的利益」を追及している。彼らには我が国の憲法の前文にある「信義」や「公正」の精神はない。ただ、13億の自国民が生き残ることだけが彼らの目標である。このことを、日本国民はしっかりと認識すべきである。

 昨年行われた沖縄県知事選で敗れはしたものの、前宜野湾市長伊波洋一氏(58歳)が読売新聞のインタヴューに答えて次のように言っていた。(このブログ記事「沖縄県知事選(20101025)」より引用)

日米安保条約は時代錯誤であり、日本は同盟深化より日米平和友好条約を締結すべきである。

尖閣諸島近海の平和的漁業の実現のため中国と平和的友好関係を作りたい。

沖縄は明治時代日本に併合されるまで、中国との朝貢関係にあった。中国はとても身近に感じる。

先島諸島への自衛隊配備には反対である。

米軍基地撤去を武器にして中国と対話を進めるべきである。

いま尖閣の領有権どころか沖縄の領有権すら危機を迎えつつある。 中国は「戦後体制において、沖縄諸島は戦勝国である中国に返還すべきであった」と主張している。沖縄には現在も中国帰化人の子孫が多数いるという。県内でもこの中国帰化人の子孫であることは一種のステイタスなっていると聞く。沖縄は今、中国にとって好都合な状況にある。

私は、仁川における日露戦争の前哨戦というべき海戦について、歴史の真実を掘り起こした秋山代治郎氏の著作・論文の記事を引用しながら、現在の日本の領土・領海・領空の保全上の危機について書き続けて行こうと思う。               (続く)

2011年7月4日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110704)

 明治時代、武士の末裔たちは人を観る眼があった。日露両国間の緊張が高まる中、佐賀藩士子孫村上格一を巡洋艦「千代田」艦長に任命し、その「千代田」1艦のみを緊張が高まる仁川港に碇泊させた時の明治政府の指導者も、また武士の子孫であった。

遺伝学的に見れば、多くの日本人には多かれ少なかれ武士の血が流れている。大事なのは「武士の教養」である。ある人が、「私は大学時代原子物理学を学んだ」と胸を張っても、「その後続けてその応用工学の分野まで学を深め続けましたか?」と問われ、「それ以外に人文系のどんな勉強をしましたか?」と問われれば、たちまち答えに窮してしまうだろう。 

“仏国に留学を命ぜられ・・(中略)・・在仏28か月の間、村上格一は、仏国をはじめ、英・蘭・白・独・露・西・伊など各国の軍港・軍需工場などを数多く視察・訪問して見聞を広め、軍事に関する貴重な情報・資料などを収集して帝国海軍の発展に寄与した。” 武士の教養を下地に、海軍兵学校で兵学・工学の基礎知識を身に付け、実地経験を積んだ村上格一は、当時の近代科学技術の粋を集めた軍艦の艦長を務め、日本国家に貢献した。

現代、国際社会で自ら「後進国」と言い、国際社会でも「先進国扱い」されていない中国は、先進国日本に多くの人材を派遣し、日本の先端科学技術を吸収している。それだけならまだ良いが、恩のある日本に対して中国は牙をむいている。日本人は人が良すぎる。

明治の日本人には武士の心の清さがあったが、現代の中国人には貪欲な「自存」意欲だけが目立つ。ある意味で野生の猛獣のような国である。その点ロシアも北朝鮮も同じである。日本人は、今こそ明治の日本人が示した清い心でもって自らの存立に真剣にならなければならない。日本人の血の中にある武士の血を甦らせなければならない。

“仁川駐在の露国領事はポリヤノスキーと云い、夫人は日本人であった。巡洋艦ワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐は、砲艦コレーエツ号の艦長ベリヤーエフを伴って、屡々、露国領事館を訪れポリヤノフスキー領事と会談し、情報の交換を行っていた。また、時には、京城の露国公使館に出かけてゆき、パブロフ公使や駐在武官たちとも直接面談し、情勢の分析や意見の交換を行った。そうした時の大方の結論は、露国側から手を出さない限り、日本側から仕掛けて来ることは無いだろうと云うことであった。ロシア人たちは、強大なロシア帝国に向かって小国の日本が戦いを挑んで来ることはあり得ないと信じていたのである。

ロシア人たちは、日露の関係が穏やかでなくても、韓国の王室及び政府は親露的であり、仁川はその韓国の港であって、それほど不安な町とは思っていなかった。ところが、1903年(明治36年)113日、天長節(明治天皇生誕日)の祝賀会が日本人居留民会で催された折に、酒に酔った一部の若い衆が、上陸して散歩していた露艦の水兵たちに投石したり殴りかかるなどして乱暴狼藉をはたらいた。”

北京の日本大使館建物に損害を与えた中国の若者たちのことが思い出される。今の中国は心の清さこそ違うが、当時の貧しかった軍事強国日本に似たところがある。 (続く)

2011年7月3日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110703)

 中国は、南シナ海の領有を主張している。その線の伸びる先は台湾、日本の八重山、沖縄、奄美を囲い込む、中国が防衛ラインと称する第一列島線である。

 古代、中国は陸続きの朝鮮半島を支配していた。その後、朝鮮半島の各王国、中国の清王朝と同じツングース民族が建てた百済や高句麗、中国秦王朝末裔が建てた新羅の各王国は中国の王朝の冊封下に置かれていた。「日出る国の天子」を頂く日本は中国に屈しなかった。唐の時代中国は百済を攻略しようとし、日本(倭国)は百済を防衛しようとして戦った。古来、中国と日本はお互い「自存」のため争ってきたのである。

 人々はそれを中国の覇権主義の行動であるという。「覇権」という表現は、「自存=自己保存」という「生存競争に打ち勝って生き残ること」という生々しい言い方をオブラートに包んだようなものである。人も動物も、社会も国家も、みな「自存」を目指している。このことを我々は直視すべきである。

 新幹線の技術を第三国に移転しないという約束をほごにして、中国が高速鉄道を自主開発したと主張し、特許まで取得しようとしている。これも、中国の国家や共産党特権階級の「自存」のための行動である。中国人は「自存」のためなりふり構わぬ行動に出ている。

 かつて明治維新後の日本は列強に伍して「自存」するため必死に行動していた。ただし、其処には今の中国には見られない美しい日本精神があった。それは「武士道」に裏打ちされた日本人の精神であった。中国人にはそれがない。そのことも我々は考慮すべきである。

 さて、1903年(明治36年)12月以降、「千代田」艦長・村上大佐は情報の収集に最も力を入れた。情報は最優先事項である。緊張の場面にあって、機を制し自ら主動の位置に立ち、戦いに勝つため不可欠の要件である。“村上大佐は、京城に駐在する公使・・(中略)・・と密接に連絡をとり、・・(中略)・・警察署長や郵便局長に至るまで気脈を通じて幅広く情報を集め、情勢の分析に心を配った。・・(中略)・・村上大佐は、外からの情報も極力集めようとした。そのため「千代田」の士官たちに、各国軍艦に乗り組む士官たちとの接触・交流を奨励した。・・(中略)・・各国の軍艦とも、乗り組む士官たちは相当な緊張の中で毎日を過ごしていたのであるが、うわべは何喰わぬ顔をして行き来して、素知らぬ振りをしながら飲み、喰い、語らって、注意深く相手の動静を探った。「千代田」の士官たちは、とりわけ露国海軍の士官と頻繁に接触し、親しく付き合う振りをして相手の動向を見守った。”

 今、日中の防衛交流は進んでいない。一朝有事の場合、中国や韓国からの邦人引き揚げのルールや手順も何もかも決まっていない。「自存」のためなりふり構わぬ行動に出ている中国に対して、日本はあまりにも無頓着である。

その状況は中国の思うツボである。中国は国家100年の謀で、戦勝国側として加わった東京裁判を有利に導き、今日の状況までもってきた。有事はほんのちょっとしたきっかけで起きてしまうものである。秋山氏の著作に日露戦争勃発1か月半前の仁川における状況や、釜山(プサン)沖での日本艦艇による露国商戦拿捕事件のことが記されている。(続く)

2011年7月2日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110702)

 “日露の国交風雲急を告げる中で、仁川は正に日露の接点ともいうべき最前線の要衝である。朝鮮半島の黄海沿岸北部の不凍港であり、首都である京城(ソウル)の玄関口の港である。日露の紛争を懸念して、英、仏、米の列強も、公館警備・居留民保護を目的に、それぞれ軍艦を逗留させていた。我が国も、韓国警備と居留民保護のため、帝国海軍の軍艦「済遠」を派遣していた。・・(中略)・・かつては清国の軍艦であったが、明治278年(18945年)の日清戦争で戦利艦として我が国が接収し、帝国海軍に編入した後も元の名称のまま使っていた。・・(中略)・・その「済遠」が、たまたま木浦(モッポ)において日本居留民と朝鮮人との間に起った紛擾を鎮撫するよう命をうけて仁川を出港した。この時、清国北方海域の警備にあたっていた巡洋艦「千代田」(2439トン)に韓国の警備をも兼務するよう命令が出て、1903年(明治36年)9月下旬、仁川に来航したのである。”

 “「千代田」は仁川と芝罘(チーフ)の間を幾度か往復して、黄海・渤海方面の警備の任務に服していたが、最後に仁川港に回航したのは1903年(明治36年)1218日であった。それは日露戦争が勃発する1ヶ月半前のことであり、・・(後略)”

 “仁川には露国の軍艦が頻繁に来航し、常時23隻が碇泊して睨みを利かせていたのである。1903年(明治36年)の初冬、軍艦7隻からなる露国艦隊が陸兵2000を伴って旅順から南下し仁川に向かったと云う噂が流れ、在留邦人たちが周章狼狽したことがある。・・(中略)・・巡洋艦ワリヤーグ号(6500トン)、巡洋艦バヤーリン号(3020トン)、航洋砲艦ギリヤーク号の三隻が来航して碇泊した。やがて、バヤーリン号とギリヤーク号が旅順に戻り、その後、1218日に日本の「千代田」艦が仁川に戻って来たあとを追うようにして、露国の航洋砲艦コレエーツ号(1213トン)が旅順より来航し、ワリヤーグ号とともに「千代田」を挟むようにして投錨した。特命を受けているとは云え、異国の港で2隻露艦に挟まれ独り停泊する「千代田」は、悲痛な孤独感を味わされていた。”

 “巡洋艦「千代田」に艦長として搭乗していたのは村上格一大佐である。村上格一は、1862年(文久年111日佐賀に生まれ、・・(中略)・・1903年(明治36年)77日に巡洋艦「千代田」艦長に栄転し、同月20日芝罘において乗艦、同年9月に海軍大佐に昇進した。巡洋艦「千代田」は、黄海・渤海方面の警備に当たっていたが、1903年(明治36年)12月に、仁川港に停泊して警戒するようにとの訓令を受け、同年18日に入港、爾来、日露戦争開戦の日まで仁川に碇留した。”

 秋山氏の著書『歴史記述における 虚構と真実 -知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』を読むと、当事のロシアの動きがよくわかる。戦争に負けた日本は「戦争反対・平和愛好」の一点張りであった。中国はその隙を縫って着々と海軍力を増強し続けている。日本などの技術を横取りし「自前である」と国際的に宣言することを恥とも思っていない。国家と共産党の方針に沿って13億の人民を養うため、「自存」のためなりふり構わぬ行動に出ている。日本も「自存」をかけて行動を起こさなければならない時が来ている。(続く)

2011年7月1日金曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110701)

 秋山氏著書を引用する。日露戦争が勃発する前のロシアの極東における海軍力増強・展開の状況は、今の中国における第1・第2列島線への進出をにらんだ海軍力の増強・展開の状況に似ている。(艦名・数・増強の推移についてこの記事へ転載は省略)しかも、中国は「自存」のため、ロシアから購入した航空母艦・三代目ワリヤーグ号を中国の航空母艦として改装・改造し、就航させる運びとなっている。日本は現状のままで良いのか?

 “戦果を誇示しがちな戦史・戦記物になると、味方の不利益は語りたがらない。革命後のソビエト連邦においては、日露戦争についての記録はあまり表だって取り沙汰されることはなかったし、その解説にしてもロシアと日本という両帝国主義国家の衝突として、まるで他人ごとのように冷ややかな論評を下していた。まして、旅順攻防戦や日本海大海戦のような負け戦については、具体的な戦況や戦果など殆ど口を閉ざして明らかにしていない。ところが奇妙なことに、完敗であった筈の「仁川沖海戦」について、ソビエト連邦では突如として、自沈したワリヤーグ号とその艦長ルードネフ大佐に対し格段の高い評価を与え、ロシア海軍の鑑とする英雄として讃え始めた。そしてワリヤーグの名は、同艦の沈没後百年を経た今日でも、尚、輝き続けているのである。”

 “ワリヤーグ号は、1899年(明治32年)進水、1901年(明治34年)に就航した巡洋艦であるが、ロシア海軍としては珍しく、戦艦レトウィザン号(後に旅順港で降伏、戦利艦として帝国海軍「肥前」となる)と共に、アメリカ製である。フィラデルフィアのクランプ社において、日本海軍の軍艦「笠置」と並んで建造された(後略)。”

 “幣原の仁川在勤は1897年(明治30年)1月から1899年(明治32年)5月迄である。これに対してワリヤーグ号の就航は1902年(明治35年)の早々であるから、時系列から云って、幣原仁川でワリヤーグ号にめぐり会った筈はない。従って、藤井艦長と共に飲み明かしたという露艦の相手は、かの名だたるワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐ではないことになる。尚、藤井艦長が、日露戦争の当初、搭乗していた日本の軍艦は装甲巡洋艦「吾妻」(9456トン)である。”

 “幣原自身も・・(中略)・・「私の談話に誤謬を発見せられたならば、幸いにご指教を賜るよう、万望みに堪えない」と述べている。”

“因みに、ワァリヤーグとは、ノルマン人の古代ロシア名で、北方から侵入して来た武力集団を指して云う。その頭目の一人であるリューリックがキエフ王朝を建てたとされる。リューリックも又、露艦(対馬海峡で跳梁したが日本艦隊に捕捉され撃沈された、)の名前に使われていた。尚、ワリヤーグ号と共に仁川港で爆沈したコレエーツ号のコレエーツとは朝鮮人の意味である。”

 “明治27/8(1894/5)の日清戦争が勃発するまでは、ロシアは極東に極く僅かな海軍力しか配備していなかった。・・(中略)・・しかしロシアは、極東進出を企画するには、軍事力の増強・・(中略)・・海軍力を極東海域に配備する必要があると考えた。” (続く)