2011年7月6日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110706)

 日露戦争についてwikipediaでは次のように記述されている。

 <日露戦争の戦闘は、190428日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌29日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。>

 秋山氏(このブログ「日露戦争前哨戦(20110625)」でプロフィール説明)は、ロシア語の文献等も調査・研究し、この記述にあるとおり、これまで定説になっていたことの誤りを指摘した。以下、氏の著書を引用する。

 “ロシア人たちは、日露の関係が穏やかでなくても、韓国の王室及び政府は親露的であり、仁川はその韓国の港であって、それほど不安な町とは思っていなかった。ところが、1903年(明治36年)113日、天長節(明治天皇生誕日)の祝賀会が日本人居留民会で催された折に、酒に酔った一部の若い衆が、上陸して散歩していた露艦の水兵たちに投石したり殴りかかるなどして乱暴狼藉をはたらいた。

 この騒動は大事に至らずにまもなく収まったのであるが、偶々、牟田水雷長が上陸中であって、その場に居合わせた「千代田」の乗組員たちをすぐ一か所に集め、一名たりともこの騒動に関わらせないように処置し、同時に、事の次第を「千代田」に報告した。

 これを受けて村上艦長は、即座に、当時碇泊していた露艦ポルターワ号(戦艦、10960トン)に小笠原副長を訪問させ、艦長ウスペンスキー大佐に面会して事の次第を報じると共に、日本の水兵たちは全くこれに関与していなかった旨を開陳して了解を求めた。村上大佐は、ロシアとの関係には些細なことにも気を配っていたのであるが、そんな事件があってからは、ロシア海兵の上陸自由行動の姿は殆どみられなくなった。”

 “26日、「千代田」に再び訓電が入り、国交断絶並びに連合艦隊の佐世保発信が知らされた。そして「千代田」は8日午前8時に仁川沖ベーカー島の南方において、瓜生司令官の率いる第4戦隊に会合するように行動せよとの命令を受けた。・・(中略)・・ところが、その「千代田」に愕然とする情報が京城(注、今のソウル)の吉田少佐からもたらされた。それは、韓国の釜山(プサン)沖で”血気に逸った日本艦隊が露国の商船を拿捕したというのである。日本艦隊は行動を起こしたものの、出来るだけ長くそれを秘匿しておく必要があったのである。しかるに、露国商船を拿捕したとなると自ずから交戦状態に入ったことを告知したことになる。おそらく直ぐにロシア側にも伝わって、仁川港にある露艦ワリヤーグ号、コレーエツ号が行動を起こし、「千代田」に襲いかかって来るに違いない。村上大佐はもはや一刻の猶予もないと考えた。まともに戦っては勝ち目がない。どうせ戦闘開始は時間の問題であろうから先制攻撃をするにしくはない。”        (続く)

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