2011年7月2日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110702)

 “日露の国交風雲急を告げる中で、仁川は正に日露の接点ともいうべき最前線の要衝である。朝鮮半島の黄海沿岸北部の不凍港であり、首都である京城(ソウル)の玄関口の港である。日露の紛争を懸念して、英、仏、米の列強も、公館警備・居留民保護を目的に、それぞれ軍艦を逗留させていた。我が国も、韓国警備と居留民保護のため、帝国海軍の軍艦「済遠」を派遣していた。・・(中略)・・かつては清国の軍艦であったが、明治278年(18945年)の日清戦争で戦利艦として我が国が接収し、帝国海軍に編入した後も元の名称のまま使っていた。・・(中略)・・その「済遠」が、たまたま木浦(モッポ)において日本居留民と朝鮮人との間に起った紛擾を鎮撫するよう命をうけて仁川を出港した。この時、清国北方海域の警備にあたっていた巡洋艦「千代田」(2439トン)に韓国の警備をも兼務するよう命令が出て、1903年(明治36年)9月下旬、仁川に来航したのである。”

 “「千代田」は仁川と芝罘(チーフ)の間を幾度か往復して、黄海・渤海方面の警備の任務に服していたが、最後に仁川港に回航したのは1903年(明治36年)1218日であった。それは日露戦争が勃発する1ヶ月半前のことであり、・・(後略)”

 “仁川には露国の軍艦が頻繁に来航し、常時23隻が碇泊して睨みを利かせていたのである。1903年(明治36年)の初冬、軍艦7隻からなる露国艦隊が陸兵2000を伴って旅順から南下し仁川に向かったと云う噂が流れ、在留邦人たちが周章狼狽したことがある。・・(中略)・・巡洋艦ワリヤーグ号(6500トン)、巡洋艦バヤーリン号(3020トン)、航洋砲艦ギリヤーク号の三隻が来航して碇泊した。やがて、バヤーリン号とギリヤーク号が旅順に戻り、その後、1218日に日本の「千代田」艦が仁川に戻って来たあとを追うようにして、露国の航洋砲艦コレエーツ号(1213トン)が旅順より来航し、ワリヤーグ号とともに「千代田」を挟むようにして投錨した。特命を受けているとは云え、異国の港で2隻露艦に挟まれ独り停泊する「千代田」は、悲痛な孤独感を味わされていた。”

 “巡洋艦「千代田」に艦長として搭乗していたのは村上格一大佐である。村上格一は、1862年(文久年111日佐賀に生まれ、・・(中略)・・1903年(明治36年)77日に巡洋艦「千代田」艦長に栄転し、同月20日芝罘において乗艦、同年9月に海軍大佐に昇進した。巡洋艦「千代田」は、黄海・渤海方面の警備に当たっていたが、1903年(明治36年)12月に、仁川港に停泊して警戒するようにとの訓令を受け、同年18日に入港、爾来、日露戦争開戦の日まで仁川に碇留した。”

 秋山氏の著書『歴史記述における 虚構と真実 -知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』を読むと、当事のロシアの動きがよくわかる。戦争に負けた日本は「戦争反対・平和愛好」の一点張りであった。中国はその隙を縫って着々と海軍力を増強し続けている。日本などの技術を横取りし「自前である」と国際的に宣言することを恥とも思っていない。国家と共産党の方針に沿って13億の人民を養うため、「自存」のためなりふり構わぬ行動に出ている。日本も「自存」をかけて行動を起こさなければならない時が来ている。(続く)

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