2011年7月1日金曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110701)

 秋山氏著書を引用する。日露戦争が勃発する前のロシアの極東における海軍力増強・展開の状況は、今の中国における第1・第2列島線への進出をにらんだ海軍力の増強・展開の状況に似ている。(艦名・数・増強の推移についてこの記事へ転載は省略)しかも、中国は「自存」のため、ロシアから購入した航空母艦・三代目ワリヤーグ号を中国の航空母艦として改装・改造し、就航させる運びとなっている。日本は現状のままで良いのか?

 “戦果を誇示しがちな戦史・戦記物になると、味方の不利益は語りたがらない。革命後のソビエト連邦においては、日露戦争についての記録はあまり表だって取り沙汰されることはなかったし、その解説にしてもロシアと日本という両帝国主義国家の衝突として、まるで他人ごとのように冷ややかな論評を下していた。まして、旅順攻防戦や日本海大海戦のような負け戦については、具体的な戦況や戦果など殆ど口を閉ざして明らかにしていない。ところが奇妙なことに、完敗であった筈の「仁川沖海戦」について、ソビエト連邦では突如として、自沈したワリヤーグ号とその艦長ルードネフ大佐に対し格段の高い評価を与え、ロシア海軍の鑑とする英雄として讃え始めた。そしてワリヤーグの名は、同艦の沈没後百年を経た今日でも、尚、輝き続けているのである。”

 “ワリヤーグ号は、1899年(明治32年)進水、1901年(明治34年)に就航した巡洋艦であるが、ロシア海軍としては珍しく、戦艦レトウィザン号(後に旅順港で降伏、戦利艦として帝国海軍「肥前」となる)と共に、アメリカ製である。フィラデルフィアのクランプ社において、日本海軍の軍艦「笠置」と並んで建造された(後略)。”

 “幣原の仁川在勤は1897年(明治30年)1月から1899年(明治32年)5月迄である。これに対してワリヤーグ号の就航は1902年(明治35年)の早々であるから、時系列から云って、幣原仁川でワリヤーグ号にめぐり会った筈はない。従って、藤井艦長と共に飲み明かしたという露艦の相手は、かの名だたるワリヤーグ号の艦長ルードネフ大佐ではないことになる。尚、藤井艦長が、日露戦争の当初、搭乗していた日本の軍艦は装甲巡洋艦「吾妻」(9456トン)である。”

 “幣原自身も・・(中略)・・「私の談話に誤謬を発見せられたならば、幸いにご指教を賜るよう、万望みに堪えない」と述べている。”

“因みに、ワァリヤーグとは、ノルマン人の古代ロシア名で、北方から侵入して来た武力集団を指して云う。その頭目の一人であるリューリックがキエフ王朝を建てたとされる。リューリックも又、露艦(対馬海峡で跳梁したが日本艦隊に捕捉され撃沈された、)の名前に使われていた。尚、ワリヤーグ号と共に仁川港で爆沈したコレエーツ号のコレエーツとは朝鮮人の意味である。”

 “明治27/8(1894/5)の日清戦争が勃発するまでは、ロシアは極東に極く僅かな海軍力しか配備していなかった。・・(中略)・・しかしロシアは、極東進出を企画するには、軍事力の増強・・(中略)・・海軍力を極東海域に配備する必要があると考えた。” (続く)

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