2012年7月13日金曜日


日本国家の基本構図(20120713)

 このタイトルは『占領憲法下の日本』(谷口雅春著)という本の中にある。その前のタイトルが「国家も一個の生命体である」である。先ずその部分から“”で引用する。

 “以上、臓器移植についてやや詳しく述べて来たのは、実は、私は、国家を一個の生命体として観る場合に、日本国家の「生きた命令系統の中枢」にあたられるところの、「統治の大権」を祖宗に継承せられて国家の元首にましますところの天皇は取りかえることができないということが言いたかったのである。そして日本国家の「顔」にあたるところの国家の本来のあり方、すなわち「日本国独特の国体」はこれを取り換えたり、アメリカの顔てあるところの「民主主義」や、ソ連国家や中共国家の「顔」であるところの「共産主義」とは取り換えることができないのであり、もしこれを取り換えたら、その人の頭脳や顔に、他の人の頭脳や顔をもって来て移植するようなものであって、本人がもう本人でなくなる如く、日本国が日本国でなくなるという否定し難き事実を皆さんに訴えたかったのである。

 続いて上記タイトルの部分には、次のように書かれている。“日本の国は海外の諸国とは、国の成り立ちが異なるのである。天照大御神(まてらすおおみかみ)の大御心(おおみこころ)の中に、「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は、世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」という国家設計の基本構図を示し給うたその理念に従って顕現したところの理想国家が日本国なのである。その理想は、人間が創作したところの理想ではなく、宇宙神なる天照大御神の創作せられた国家の基本構図に基づく理想であるのである”と。

 続いて「国が栄えるためには国民の努力を集中する目標が必要」というタイトルの中で“一国が栄えるためには、その国の国民が、共通の目的のために、国民の努力を自発的に集中できるような国家理想をもたなければならないのである。昔の日本国は「天皇」が国家理想の表現体であった。天皇の大御心(おおみこころ)の中に「神意」を日本民族は見たのであった。天皇は神聖であり、武家政治の時代に於いてすらも、その政権は天皇から授かる神聖なものと感じとっていたので、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になるのも、関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)になるのも天皇によって任ぜられたのである。その頃は、内部に政権争いがあっても、究極のところでは国民が一つの国家理想によって統一せられていたのである”と書かれている。

 日本は大東亜解放戦争に敗けてアメリカに「降参」した。その結果、アメリカ流の民主主義・合理主義・物質至上主義が日本人の精神の中に入り込んできた。そして現在様々な社会的問題が起きている。問題の解決のためには「原点」に戻らなくてはならない。

2012年7月12日木曜日


剣の道から学んだ「残心」(20120712)

上記のタイトルは、今日の読売新聞夕刊に出ていた関西大学準教授アレック・ベネットさんのことが紹介されている記事のタイトルである。「残心」とは戦後教育のせいで非常に多くの日本人が学んでいない武道の心得の一つである。ベネットさんは奥様が日本人で剣道七段の高段者である。彼はニュージーランド・クライストチャーチ出身で、その付近で大地震があったとき彼の道場の門下生二人が犠牲になっているという。

ベネットさんは宗教学者の山折哲雄が座長を務める「こころを育む総合フォーラム」に、日本古来の「心」を知る外国人として招かれたという。1987年、17歳のとき故郷のクライストチャーチから交換留学生として来日、千葉市内の高校で剣道部に入ったという。2001年に、武道研究によって京都大学大学院の博士課程を修了し、世界初の英語の剣道雑誌を創刊し、翌年日本人と結婚している。日本人と結婚している剣道・合気道などの武道家は多い。有名な外国のスポーツ選手や相撲力士などには ‘やまとなでしこ’である日本人女性と結婚している人は多い。

ベネットさんは「日本人はどうしても外国人を区別したがるので、日本人なりたくてもなりきれない自分の限界に悩んだ時期もあります。でも今は自分の居場所が分かったような気がしているんです」と語ったという。

先場所で優勝した旭天鵬は日本に帰化している。彼はあるテレビで「相撲では力士の出身が何処の国であろうと差別なく声援を受ける。モンゴルでは少数民族は差別されている」と語っていた。日本人は外国人を区別する面はあるが、決して差別はしていない。

大東亜解放戦争は白人国家がアジア人を差別していることから解放するため起きた戦争である。日本民族はその戦争で軍人・軍属230万人の一般邦人80万人の犠牲を払い、原爆投下と無差別焼夷弾絨毯爆撃で一挙に数10万人という市民を失いながらも、初期の目的であった大東亜の解放は達成した。「従軍慰安婦」という言葉が一人歩きして問題になっているが、日本人は決して朝鮮人を差別していなかった。韓国併合後の税金の徴収は日本人に対しては重く、朝鮮人に対してはその負担を非常に軽くしていた。その上、鉄道網・電信電話網・上下水道などインフラの整備、教育制度の整備などの充実のため多額の資金を投入していた。所謂「従軍慰安婦」は存在せず、当時日本の女性同様、朝鮮の女性たちは高収入を得るため自発的に自分の体を提供していた。悪徳な女性仲介業者に対する日本官憲の取り締まりは厳しかった。このことを示す当時の新聞記事が残っている。

古来、日本には「日本書紀」での記録上何万人と非常に多くの大陸人(主に朝鮮人)が渡来し、帰化し、大東亜解放戦争後も70万人近い朝鮮人が日本で特別永住権を与えられ、毎年1万人以上が日本に帰化して現在35万人ほどになっている。

日本人は縄文人・渡来系弥生人(3世紀以降渡来帰化した人々とは別種)の混血種の上に、3世紀以降新たな渡来帰化人と混血し、現在に至っている。このゆえに日本人は潜在的に外国人を差別しないという文化をもっていると考えられる。ベネットさんの子孫もそのうち日本人と全く区別できなくなるだろう。

2012年7月11日水曜日


町田ダリア園(20120711)

 町田のダリや園では知的障害者たちが働いている。このダリヤ園は町田市が設置した施設であり、其処には500品種・訳4000株のダリヤが育てられているという。

梅雨の晴れ間、男と女房は急遽そのダリや園に行楽した。「急遽」と云うのは昨夜テレビでそのダリヤ園が「見頃」と宣伝されていたからである。町田駅近くのビルのレストラン街で昼食を済ませ、りそな銀行近くにある21番バス停始発のバスに乗ってそのダリヤ園に向かう。梅雨の晴れ間は急に暑くなる。男も女房もそれぞれ若々しく見えても高齢なので、熱中症にならぬように水分補給と休憩を取ることを心掛けている。

ダリヤ園近くのバス停で下車し暑い中徒歩約10分、ダリヤ園に着く。先ずは一休み売店でアイスキャンデーを買い、ダリヤ園を下に見る柵外の道を登って涼風が吹きぬける木陰のところで立たったままそれを食べ、体力を回復させる。園内を見るかぎりテレビで宣伝されているほどダリヤが見ごろという時期は過ぎているようである。園の入り口で料金を払い中入る。先ず向かったのは小高い丘の上の木立の陰に幾つか置かれているテーブルとベンチの一つである。そのベンチに持参のビニールシートを広げ、その上に腰かけてダリヤ畑を見下ろしながら持参した飲料水を飲み菓子を食べる。1時間半ほど其処で休んで最も気温が高い時間帯をやり過ごした。何処からかうぐいすの鳴き声が聞こえてくる。

午後2時を過ぎると陽射しも柔らかくなり、行動する気力が湧いてきた。それでも女房より4歳年長の男はその心地よい婆所から離れたくなかった。女房のリュックサックなどを預かってベンチに寝そべり、木々の枝葉の間から見える碧空を見上げながら引き続き休息をとる。その間女房はデジカメ一つの身軽な装いでダリヤの写真を撮り歩いている。

やや時間が経ったあと男は起き上がってシートをたたみ、リュックに入れて女房の後を追った。そして気に入ったダリヤの写真や、女房のスナップ写真を撮る。自分の写真も撮ってもらう。ダリヤの時期は終りつつあるがまだ綺麗な花が沢山残っている。

家に帰り、シャワーを浴びて汗を流し、着替える。日吉の東急ストアで買って帰った弁当を電子レンジで10秒間ほど温めて夕食を摂る。やや落ち着いて今日撮って来た写真をテレビに映し出し鑑賞する。綺麗な良い写真が沢山撮れている。明日、男はその中から一部を印刷し、女房は家の中の各所に飾ってある花の写真を入れ替えるだろう。男はその中の最も美しい写真をA4サイズで印刷し、額に入れてN氏に贈ってあげようと思っている。明日からまた梅雨になる。梅雨の時期はもうすぐ終わるだろう。以上は梅雨の合間の一時の風景である。そして時は過ぎて行く。大女優山田五十鈴がこの世を去った。

2012年7月10日火曜日


日本を変えるため活動している著名人(20120710)

 友人N氏の邸宅は宗像大社に近く、海岸からも約4㎞どの距離にある小高い丘にある。其処は田圃に隣接する自然林の丘が広がっていて、N氏の邸宅はその自然の森に囲まれている。引揚者の子供であったN氏は永年の願望だった‘故郷’を‘創造’ するため其処に広さ数千坪の敷地を確保し、専門の業者に発注して自分が住む家や倉庫や庭や畑や進入道路のため必要な部分の造成工事を行った。従ってこの造成地に上がる道路を含む土地はすべてN氏の所有地である。田圃に水を入れる幅2mほどの水路には、毎年その時期になると毎年無数の蛍が飛び交うという。其処は正に里山であり、N氏の‘故郷’である。

 N氏の邸宅の前の広い場所には大理石を削って作ったバーベキュー用の台や長椅子や丸椅子などが設置されてあり、その向こうにはまだ完全には出来上がっていない庭園が広がっている。住居や倉庫や庭園や畑や道路など以外は自然のままの森が広がっている。実が落ちて自然に生えた杉や檜やたらの芽の木などが住居の周りの囲いになっている。N氏の悩みは各種の竹がはびこって折角の落葉樹など自然の木々が圧迫されることである。そのためN氏は奥様とともに、毎年冬の時期に竹の伐採を続けている。

N氏の敷地内には蛇がよく出るので、敷地内の蛇が出そうな場所に入るときは長さ1メートルばかりの竹竿で地面を叩きながら進む。竹竿はN氏の邸宅内各所の見やすい個所に予め備え付けられている。もし蛇を見つけたときはそれが蛇の道にならぬようにするため、備え付けの竹竿で蛇の頭を叩いて息の根を止め、森の中に捨てる。危険なマムシも時々見かけるという。N氏夫妻も蛇が大嫌いと言いながらも、その作業をしないわけにはゆかない。しかし里山の森の中に住んでいるので、時たま狸が顔をだすことがあるという。狸を見かけた時は思わず笑みがこぼれるという。

男はN氏に招かれて一晩その家に泊まった。早朝突然、ケーンと鳴く声で目が覚めた。雉の鳴き声である。野生の鳥たちの鳴き声、虫の鳴き声は良く聞こえて来る、しかしその他の人工雑音は全く聞こえて来ない。朝夕の散歩と散歩後の体操はN氏夫妻の日課である。男もN氏夫妻と一緒に辺り一面田圃が広がっている農道を小1時間ほど歩き、歩いた後柔軟体操を行った。昨夜深夜過ぎまでバーベキューとビールと大吟醸の美味しい酒で語り合った。翌朝5時過ぎに目が覚めたにも拘わらず、体調が頗るよく眠くもない。こういう環境下だと幾ら睡眠時間が少なくても、眠気は感じないようである。

男はスマートフォンを無線ルータにして持って来たノートパソコンをインターネットにつなぎ、田母神氏のブログを開いてN氏に見せた。日本の首相になって貰いたいという人の人気投票で野田元首相が断然トップである。続いて自民党の石破氏、安倍氏がつづき、自民党総裁谷垣氏は最下位である。N氏は安倍晋三氏にこそ次期総理になって貰いたい人であるという。男もそう思う。安倍晋三氏を総理にしたいという人たちがフェイスブックなどを通じて盛んに活動している。国を思う著名人たちが安倍晋三氏を総理にするため積極的に動けば、安倍晋三総理が実現してこの日本国は確実に浮上するだろう。

 N氏の邸宅には先月初め元航空幕僚長の田母神敏雄氏も訪れたという。田母神氏はこの日本を変えるため、インターネットや講演会などを通じて積極的に活動している。N氏は彼の講演会に顔を出したときあることに感心したという。それはその講演を聞きに来ている人たちの年齢層が若いこと、そしてその講演が終わった後質疑応答が行われたが、30代前後の若い人たちが積極的に質問していたことである。N氏はその講演会に顔を出してみて、これから日本は変わって行くことだろうと実感したという。

男は田母神氏や石原慎太郎氏など著名な人たちが安倍晋三総理実現のため行動してくれないかなと思っている。その理由は、もしこの日本を今迄どおり戦後間違った教育を受けて育った人たちに任せたままにしていると、今30代ぐらいの若い人たちがこの国を動かすようになったときには、この日本国は大変なことになってしまっているかも知れないと思うからである。

今朝の新聞には、シナ(中国)からのサイバー攻撃のことが大々的に報道されていた。このサイバー攻撃にはシナ(中国)軍が関与しているということである。尖閣列島買い取りのことでシナ(中国)は実行動も辞さないという。日本とシナ(中国)は軍事衝突寸前のところまで行くかも知れない。

2012年7月9日月曜日


ソ連の南方侵略政策(20120709)

 このタイトルは『占領憲法下の日本』という本の中にあるものである。もう40年以上も前のことであり、当時のソ連はロシアにもどっているので、書かれていることは実際のロシア国家の行動とは異なるから、ここにわざわざ引用するのは無意味であると言われるだろう。しかし、国家というものは国民から成り立っているといえども国家と個々の国民とは別の行動をするものである。個々の国民はそれぞれ同じ人間であり、人間同士心を通じ合うものである。

 ところが国家となると個々の国民とは別の顔をもっている。個々の人間がそれぞれ自存のため行動するように、国家も一個の有機的組織体として自存の行動をする。それは当該国家の各機能部署ごとそれぞれ自存の行動をする。外交部署は外交部署で、防衛部署は武衛部署でそれぞれ自存の行動をする。その行動の大綱は国家の中枢で制御されるが、その中枢と雖も各部署の細部まで制御することはない。

 この本に書かれていることは当時のソ連国家の自存行動であって、それは今のロシア国家においても変わりないと考えられる。因みにシナ(中国)国家が第一列島線、第二列島線を勝手に引き、その内側に核心的利益を確保しようとするのも同じ自存行動である。国家同士はお互い自存のため衝突しがちである。以下“”で引用する。

 “北方で農作物貧困のロシアすなわち今のソ連は常に、その食糧獲得の必須的な国内事情から南方進出を計画している。日露戦争が起こったのも、ロシアが満洲を侵略して更に南下し、旅順(りょじゅん)に海軍基地を設けて日本を窺(うかが)おうとしたからなのであって、その南下のソ連国策は未だ決して変わっていないのである。

 ソ連はどうしても南下する必要に迫られているのであって、その事情分析を、国士舘大学の館長代行をしていられる横山彦真(ひこまさ)氏から送ってこられたから次にそれを紹介する。

ソ連は国が北に偏しているので(国土の四分の三は農耕に適しない――ジョン・ガンサー調査)従来から水陸の食糧を得ることに非常な困難を感じているが、これをひた匿(かく)しにしている。(人間のみならず家畜の者を含む)そしてこれを解決するため極力南方侵略を図(はか)っている。・・(中略)

 海からの糧食を得るために短き漁撈期間を利用するため、船団を組織し、大規模な機械を利用し秋刀魚(さんま)や鰯(いわし)を一挙に吸い上げ、しかも漸次(ぜんじ)南下して・・(後略)”


 メドベージェフ首相が国後で「隣(日本)は漁獲量が少ないようだ。われわれはここでわれわれの漁業をやろう。(売られているアサヒビール)を見て、日本は近いんだな」とか言ったようである。わが北方領土は彼らにとって漁業による食糧確保のため重要なのである。北極の白熊のように、捕った鮭は絶対手放さず、むしゃむしゃ食う。往時のソ連も今のロシアも、また日露戦争当時のロシアも変わっていない。

 シナ(中国)も同じである。13億の国民に食わせるためシナ(中国)国家はなりふり構わず、我が日本の領土をかすめ取ろうと虎視眈々である。日本の国家が国家観乏しい者によって運営されていると、彼らは隙あれば突っ込んでくるだろう。日米間の絆が危うくなると、ロシアもシナ(中国)も今がチャンスとばかりに飛びかかってくるだろう。
 

2012年7月8日日曜日


北方領土と沖縄とは性質が異なる(20120708)

 シナ(中国)も台湾も尖閣列島は自国の領土であると主張している。この主張が始ったのはまずシナ(中国)が1970年代に共産党の綱領に基づく「第一列島線内」の「核心的利益」の確保のためである。シナ(中国)は「核心的利益の確保」と格好の良いことを言うが、それは、194589日のソ連の行動のように隣家に強盗に入るようなものである。シナ(中国)は尖閣列島だけではなく、沖縄列島・八重山列島・奄美列島の領有を狙っている。台湾はシナ(中国)が尖閣列島の領有を始めた後、シナ(中国)の工作に乗った組織が動いているのかどうか、シナ(中国)と同じように尖閣列島を自分たちの領土であると言い始めた。シナ(中国)もロシア同様、老獪で狡猾である。刑死前東條元首相が遺した言葉にあるように、「国家は利己的」である。人の良い日本人は彼らの国家に騙されてはならない。勿論、個々のシナ(中国)人もロシア人も良い人たちばかりである。「国家」となると利己的に、野獣のようになるのである。

 なお「中国」という国名は、国際的にその用語をつかっているのは日本だけである。シナ(中国)の国家が、自国のことを「中華」、即ち「世界の中心の国」でると言い、日本政府がそれを認めているだけである。国際共通語はChinaチャイナ(シナ)である。そういうと、「日本」は「日出る本」じゃないか、と言われるかもしれない。しかし国際的には日本はJapanジャパンである。「Nipponにっぽん」も通用するが・・。

 表題は、『占領憲法下の日本』に書かれているタイトルの一つである。以下“”で引用する。“この北方領土問題と、沖縄返還問題とを対等にならべて論議する人が社会党や共産党の中にはあるが、全然、その性質が異なるのである。北方領土は、ソ連が一方的に国際条約を破って強盗的に侵入してきて奪ったわけで、日本はただ、強盗に対して無抵抗に手を上げただけであって、日本はソ連と戦争をしたわけではないのである。

 だから南樺太(からふと)、エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンは戦利品というわけでもなく、戦争後の平和条約で、戦争に敗(ま)けた国が勝った国に賠償として割譲した領土でもないのであり、単に強盗が強奪した領土なのである。

 ところが沖縄は、実際に日本がアメリカに対して宣戦布告をしハワイの真珠湾に先制攻撃を加え、アメリカに非常な損害を与えて、ついに日本は敗(やぶ)れた結果、戦勝国なる期間アメリカが東洋の安定を得る必要なる拠点として、日本に領土の潜在的主権をみとめながら、必要なる期間、施政権を・・(中略)・・アメリカは日本が戦争中に彼に与えたる損害に対して賠償金ひとつ要求しないで、旧敵国に対して寛容なるガリオア資金という名で食糧を供給し、・・(中略)・・「アメリカは侵略国であり、ソ連は平和勢力であるから、日米安保条約を解消して、アメリカに帰って貰い、ソ連と中立条約を結んだら、日本は戦争に巻き込まれる恐れがないから、その方がよい」というに至っては、恩を受けた者を放逐(ほうちく)して、強盗を招いて饗宴(きょうえん)を開くにも似た、正邪を逆転し、恩讐(おんしゅう)を顛倒(てんどう)したところのおどろくべき判断力の欠如だというほかはないのである。”

 谷口師は、アメリカの恩を強調し、ソ連(ロシア)の悪辣さを非難している。男はアメリカが戦後日本の復興に努力したのは、アメリカが戦前から日本を評価し、日本が表向き降伏した裏には日本がアメリカに降参したということを理解し、また戦後の極東地域において日本の力を必要としたからだと考える。降伏でなく降参であったから、日本はアメリカに従順になり、国体を維持しつつアメリカの良いところを必死に学んだのである。

 日本がアメリカに降参をするに至ったのは、東京など各都市に無差別絨毯爆撃を受け、広島・長崎に原爆を落とされ、一挙に何十万人という‘虐殺’に等しい損害を受け、最早これまでとなったためである。それでも軍人たちは日本の国体を守り、大東亜の解放という正義を貫くため、最後の最期まで戦い抜いた。銃後の女子供・年寄りたちも同じであった。天皇陛下のお言葉でその悲惨な戦いの幕を引いたのである。

 ところが日本はソ連(ロシア)に降伏も降参もしていない。ここのところを今を生きる日本人は良く認識すべきである。老獪狡猾なソ連(ロシア)は、時間を稼ぎ日本人の意識が次第にソ連(ロシア)側に好都合になるように強硬・柔軟あらゆる方策を講じてきた。その戦術はソ連崩壊後ロシアに引き継がれ、プーチン大統領は「引き分け」で幕を引こうとしている。

 北方領土には、ソ連(ロシア)はインフラ整備をし、多くのロシア人が住みついている。その子供たちの故郷はわが北方領土になっている。この間日本はソ連(ロシア)との問題解決ができなかった。いまさら北方領土からロシア人に出て行ってもらうこともできない。この北方領土問題の解決には智慧が必要である。一つの智慧は、①北方領土の経緯を日露双方で確認し合うこと、②北方領土に居住しているロシア人たちの不安を解消する方策を講じること、である。其処に「引き分け」に至る最善の解決策が必ず見出されるであろう。

2012年7月7日土曜日


連日雨天が続いている(20120707)

 今年は偏西風が大きく太平洋側に張り出して蛇行しているため、前線が停滞し、梅雨が長引いている。この九州の山中の町は毎日のようにしとしと雨が降り続き、普段誰も住んでいないこの古家の中はカビ臭い。各部屋四方の窓を細く開いて風を通し、少しでもカビ臭さを減らすようにとしているが、外から湿った空気が入り込み逆効果かもしれない。それでも少しでも新鮮な空気の流通をしないと中に居ても快くない。

 独り暮らしで気ままに過ごしているが、体調維持・健康維持には十分注意を払っている。起床前体の中で普段あまり使われない各所の筋肉を念入りに揉み解し、伸張させている。さらに女房がカーヴスという女性専用の運動施設でやっているストレッチを行い、背筋・腹筋の運動を行い、腕立て伏せも行っている。

 今日も朝から雨で、雷もなっている。防災放送で町内各所に避難所が開設され町の役人が世話をする、危険を感じたら各自その避難所に避難して下さいと伝えている。男の家は川からも山からも離れたところにあるので危険は全くないが、町内では昨日の大雨で被害が出ている地区がある。

 朝食を終えテレビで西本願寺本堂の大修理のことが報じられているのをしばらく観た。これは再放送であるが、本願寺が何百年も日本の精神や美を伝えてきたことが紹介されている。これまで何百年間も寺の維持のための資金は全国から寄せられてきた。今回の大修理もその資金で賄われた。男の家は西本願寺派であるが、これまで家から離れ都会地で暮らしてきたので、寺の門徒のことなど無縁であった。しかし、婆さんが居なくなってから長男である男は家を守る責任を深く感じている。

一昨日は午後ちょっと婆さんを施設から連れて帰って、男が除草などして綺麗にした庭などを見せてやった。婆さんは「久しぶりのわが家はいい」と大いに喜んでいた。アルツハイマーを患っていて物忘れは尋常ではなくなっているが、感情は通じる。古い記憶は確かである。庭先の花が終り種を付けているのを見て、「これは切っておかなければ」と男に言った。男は今日雨が小降りになったときその処置をした。

明日にでも寺に行って、これまで婆さんが一人でやってきたことを今後男が引き継ぐ旨住職に話しておかなければならない。毎日毎日、家の内外のことでしなければならないことが沢山ある。土曜日にはここを立ち、親戚の家や友人宅を訪問したりして、約二週間の一人暮らしを終える。慣れると独り暮らしの良さが良く分かる。気楽でいい。電話の向こうの女房もそう言っている。今後こういうライフスタイルが続くだろう。

2012年7月6日金曜日


北方領土、ロシア人のやり方を歴史に学んで交渉せよ。(20120706)

 ロシアのメドベージェフ首相が北方領土の国後島を訪問した。これについていろいろな見方があって、一つの見方は、今回の訪問はプーチン大統領も承知のことでロシアは歯舞・色丹は返還するが国後・択捉返さないという意志表示であるという。しかし、メドベージェフ首相の発言は過激で、日本国民として「許し難い」発言である。昨年、菅元首相がこの言葉を口にしたためロシア側が本心なのか、ポーズなのか知らぬが不快感を露わした。これから日露双方間で交渉が始まる。日露戦争に至った当時の日本とロシアの交渉状況をみても分かるとおり、ロシア人の交渉術には用心が必要である。日露開戦以前の外交交渉のことについて、このブログの昨年730日付け「日露戦争前哨戦(補記)」に少し書いている。
(関連:日露戦争前哨戦(補記) (20110730)
 http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2011/07/20110730-36-10-30-1903-36-12-11-1904-1.html  )


 『占領憲法下の日本』に「ソ連は火事場ドロボーである」という題で、次のことが書かれている。“昭和二十年(1945)八月のことを顧みると、ソ連が日ソ中立不可侵条約を一方的に破って、日本攻撃を開始した日が、その九日(日本時間)だ。当時、日本は広島、長崎に原爆攻撃を受け、とうてい原子力に対抗する力のないことを知り、意気阻喪(そそう)して戦闘精神を失い、近衛文麿(このえふみまろ)公を通じてソ連に講和の仲介を求めつつあり、実際またアメリカの爆撃飛行機を射ち落とすべく舞い上がる戦闘機が日本にはほとんどなくなっている当時の現状を知っての上での、ソ連の火事場ドロボー的な侵入であったのである。(ラベル『占領憲法下の日本』:
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/07/20120706-1969-1969-43-150.html )

 ソ連がなぜ、日ソ中立条約を結んで、「日本がアメリカやイギリスと戦っている間は、ソ連は中立を守って日本を決して攻めません」という約束をしたかというと、ソ連は当時ドイツを攻撃する準備を整えつつあったので、「ソ連が他国(ドイツを含む)と戦争をしている間は、日本はソ連を攻めません」という約束を日本から取りつけるためであったのである。このような目的で、このような条件で、日ソ中立条約が結ばれ、その後予定通り、ソ連は‘ヒットラー・ドイツ’と戦闘を交えた。ところがヒットラー軍隊の優秀なる戦闘力に押しまくられてソ連は、レニングラードの八十パーセントまで一時ヒットラー軍に占領せられ、もう一押しでソ連国家崩壊(ほうかい)の危機に面したのである。

 当時日本は、日独伊三国軍事同盟が結ばれていたので、「日ソ中立条約が結ばれていなかったら、この三国間の軍事同盟が自然的に発動して、日本は満洲からシベリアへ進撃し、ヒットラー軍と共にソ連を挟み撃ちにしていたはずで、そうなっていたら、ソ連国家は地球上から影(すがた)を消していたかも知れないし、そうでなくとも世界の地図は大いに書き換えられていたかも知れないのである。ところが日本は条約に対して忠実で、ソ連がドイツ軍に敗戦して窮状(きゅうじょう)に陥(おちい)っているのを衝(つ)こうとしなかったのである。

 「窮鳥(きゅうちょう)ふところに入れば猟師もそれをとらず」という諺(ことわざ)が日本にあるが、それが日本精神であった。日本は戦争をするにも国際的道義を守った。それは剣道や柔道の試合に敬虔(けいけん)に相互礼拝してから立ち合う形式にもあらわれている。ソ連が窮地に陥っている最中に、日本は「日ソ中立条約」を守ってソ連に攻撃をしかけなかったのである。・・(中略)・・ソ連にとっては「条約とは当座の便宜的戦略」であって、当座の便宜が終わったら条約など破棄して平気でいる国であるから、・・・(略後)。”

2012年7月5日木曜日


占領憲法下の日本(20120705)

 表題は、書棚を整理しているとき出て来た本の題名である。裏表紙に「〇○さんのお父さんよりいただく」と大学に入学した妹に贈られたと妹が記している。1969年の暮の日付である。1969年と言えば今から43年前、全学連が騒いでいたころである。

 著者は「生長の家」の谷口雅春師である。巻頭に三島由紀夫が「本書に寄せる」と一文を載せている。其処には“このたび谷口雅春師の『占領憲法下の日本』といふ、憂國慨世の書を読むに当たり、私は殊に、その「生命体としての日本国家」の章に深く感動した。これこそは久しく私の求めてゐた日本の国家像であり、生命体としての個的自覚と、生ける全体とをつなぐ唯一橋が、ここに語られてゐると思われた”とある。

 男は「生長の家」の信者ではない。しかしこういう団体が日本の国を思い、人々に真剣に倫理を語っていることに対してはある種の喜びを感じている。元々男は自由気ままが良いので、組織に加入したり、何かの組織の活動に参加したりすることは嫌いである。ただ、男は河村名古屋市長が「南京大虐殺はなかった」と発言し、これを応援する渡部昇一・石原慎太郎氏らのグループが活動している団体には僅かばかりの寄付をした。顔を出さないが、そういったグループの活動が求める寄付には応じている。

 三島由紀夫が『占領憲法下の日本』という本について、「生命体としての日本国家」の章に深く感動したと書いている部分に男も深く共感を覚える。国家は生命体である。宇宙も生命体である。地球も生命体である。日本国家が生命体として生き残ってゆくために、何が最も大切であるかということを、男はこれまで何度も強調してきた。日本には天皇がいる。このことが最も重要である。故に日本を貶めたい国々は、あの手この手でその部分の弱体化を図ろうと画策している。マスメディアは彼らにとって最も良い工作対象である。そのことを日本国民はよく認識しなければならない。

 この本を〇○氏がどういう思いで妹に贈ったのか、あれこれ想像する。亡父は男が若かったころ、男が全学連などに入って活動することを恐れていた。〇○氏も大学生になった妹に、「変な野郎に用心しなさい」という思いでこのような本を贈ったのかもしれない。

 これから二、三日この定価150円と書いてある埃が鼻につくような本のページをめくりながら、「これは」と感じる部分を“”で引用してこの記事を書いて行こうと思う。”

2012年7月4日水曜日


「父上に贈る 皇紀2638年1月8日」(20120704)

 表題は男が昔亡父に贈った本の裏表紙に書かれていた文字の一部である。埃だらけの書棚の片隅に肩が凝らない娯楽本が何冊か並べられていた。『邪馬台国』『日本古代史99の謎』『日本原人99の謎』などである。それらと一緒に男が贈った『原・日本人の謎』という本があった。前三冊は、それぞれ朝日新聞社、鈴木武樹、松崎寿和が書いたものであり、男が贈った本は邦光史郎が書いている。何れも埃をかぶっていたので、傍に置いているとツーンと鼻に付く。

 現在では環境考古学や遺伝子学の知見が深まり、「日本人とは」という命題に対する答えがかなり明確になってきているが、これらの本が書かれた当時、昭和50年頃は、推測的な論調部分が目立つ。それでも当時の日本人の興味を満たす本であったと思われる。

 男は自分が亡父に贈った本のページをめくってみて、その記述内容にある程度満足した。それ以外の三冊は、端的に言いうと「どれもこれも馬鹿丁寧にいろいろ沢山の資料を引用しながら、結局は日本人の誇りを傷つけるもの」である。左翼的な朝日新聞社が出版したものは当然そのとおりであるが、他の2氏は古代日本人が朝鮮半島人により大きな影響を受けていて万世一系の天皇は嘘である、江上波夫の騎馬民族説を肯定といったような論調である。著者はいずれも東京大学出身者である。

 松崎は最後の方にこう書いている。“縄文時代から弥生時代にかけて、大陸からぞくぞく人がやってきた。朝鮮陸橋にはひとときもたちどまらずに、である。南方から波の穂にのってやってきたというのは神話でしかない。朝鮮陸橋を通ってきた人たちは、瀬戸内海にも奈良盆地にもあふれていた。かれらは高い知識と技術を身につけていた。日本の古代史のプロモーターはこの大陸わたりの人たちだったのである。わたくしたちは、その実質的資料を古典からいくらでもひきだすことができる。融通王(ゆずきのきみ)、王仁(わに)、阿直岐(あちき)などなどである。神話となるとスサノオノミコト、天の日槍が本命だ。中国の魏志韓傳(ぎしかんでん)、朝鮮の三国史記、三国遺事(さんごくいじ)にはそれを裏付ける記事がいっぱいみられる”と。日本書紀など深く読まない一般大衆は、東大の大先生が書いた本であるので、彼が書いていることに何の疑問も挟まず納得するだろう。男はこの部分を読んで腹が立った。
 
 鈴木が書いていることについてはますます腹がった。鈴木は武烈天皇の部分を際立たせて“「万世一系は嘘」の証拠を、ついに見つけた”と題し、しかも“古代では万世一系なんてありえない”とイラストまで挿入してこう書いている。“さて、こうしてオケのあとを受けて泊瀬ノ列城(ナミキ)ノ宮で大王になったヲハツセノワカサザキは、その治世のあいだになにをしたことになっているかといえば、妊婦の腹を裂いたり、生ま爪をはがせた者たちに芋を掘らせたり、人を木に登らせたあとその木を根本から切り倒したり・・(中略)・・思うに、こんな記事が記録として残されたのはおそらく、ヲハツセノワカサザギだけが血統を前代にまでさかのぼらせえない、そして子孫もない大王だったからではないだろうか。・・(後略)・・”と。

 古代史には真実でないものが書かれていることはあり得るだろう。武烈天皇の残虐性について、それは創作であるという説もある。「欠史八代」もある。彼は面白半分にこのようなことを書き、大衆受けを狙ったしか思えない。仮に神武天皇の血統が不確かな時期があったにせよ、ある時期以降は疑いもないほど血統が明確にされている。そのような血統の古い国は世界中どこを探しても日本しかない。

 邦光はペンネームかもしれない。彼はこう書いている。“最近ますます有力になってゆく「日本人起源論」の一つに騎馬民族説がある。・・(中略)・・しかし、騎馬民族が征服王朝を樹立したという学説が確かで、正しいものであったにせよ、では、そのとき征服された族長や民衆は一体何者なのか、そしてまさか全滅してしまったわけではあるまい、・・(中略)・・もし朝鮮からの渡来者だけで、この国がはじまったものなら、言葉も生活習慣も、もっと朝鮮的になっていたはずである”と。

 男はその本を買った当時、40年近く前のことであった。このブログに投稿した今年54日付『皇室の起源(騎馬民族説に反論)(20120504)』と5日付『発掘された人骨から復元した原日本人の顔立ち(20120505)』にも書いたが、東大の歴史学の先生たちは確かに多くの客観的資料と論理的な説明で日本の古代のことを解き明かしている一方で推論の部分も結構多い。その推論で結論付けたことを本に書いて売ることは邪道である。東大の先生が書いた世俗的書物を読む大衆は、その所説に納得する。その結果、彼らは日本人の国家観を危うくさせている。そのことを見てほくそ笑む人たちがいる。日本人に対して優越感を持てたと喜ぶ人たちがいる。
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/05/20120504-5000-2500-2.html
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2012年7月3日火曜日


独り暮らしも悪くない(20120703)

 男はここ1週間近く、田舎の家で一人暮らしをしている。独り暮らしの婆さんが施設に入居したため、現在この家には誰も住んでいない。男は婆さんにときどき会うため田舎に帰り、ついでに家の管理を行っている。

 今日は久しぶり婆さんを家に連れて帰ろうと思い、男は朝から忙しく動き回り、多少疲れたので一息入れているところである。75歳の年寄りが93歳の婆さんの面倒を見ている。正しく老老介護である。婆さんはこの4月、運よく地域密着型の特別養護老人ホームに入ることができた。このホームに入居することができて、独り暮らしが大変だった婆さんも気持ちが大変楽になったが、介護する男の方も家に面倒をみなければならない婆さんが居ないというだけで、気持ちが随分楽である。

 男は女房とは携帯電話でよく連絡を取りあっている。この携帯電話の利用料は、家族間では無料であるので、いつでも時間を気にせず長々と話すことができる。ただ携帯電話はいつでもすぐ使えるように持ち歩かなければならない。トイレにゆく時も、風呂に入るときも、ベルが鳴ったらいつでもすぐ電話にでることができるように心がけている。

 女房は男の食事のことをあれこれ心配してくれているが、大丈夫、食事を作ってくれる人が居なければ居ないで、自分流に健康に十分配慮した食事を作って食べている。女房に話したが、自分が作った料理は自分だけが美味しいのであって、人に勧められるものではない。第一、男は料理が好きでない。手間がかかることが面倒である。あくまで自分の舌がたよりの感であるが、塩分を十分控え、しかも味は十分濃い味噌汁を作って、朝昼晩味噌汁を食べている。田舎では新鮮な野菜が手に入るので、塩分が少ない胡麻だれのドレッシングをかけて食べる。人参などは生でも結構甘みがあって美味しい。

 男の定番味噌汁にはいつも大きめのいりこ56匹、店頭で売られている干しシイタケの刻んだもの、カットわかめ、黄粉、すり胡麻が沢山入っている。具はキャベツである。男は田舎で独り暮らしを始めるようになってから生野菜の摂取量が増えた。七分搗き米を隣家の一人暮らしの、男より年長の方が差し入れてくれたので、朝昼晩ご飯食である。一日二合で足りる。おやつは甘いものを一切買わず、バナナとか、栄養バランスの良いコーンフレークである。食後カリフォルニア産の種なし干しプルーンを34個食べる。低脂肪牛乳やヨーグルトは沢山食べる。卵は一日一個である。一日一缶、素材そのままの水煮シーチキンを食べ、炒めものにはごま油をたっぷり使う。塩分が少ない焼き魚にはオリーブオイルをかけて食べる。電話で女房はチェリーを買って食べた、とても美味しかったというが、男はそのような果物を食べようとは思わない。後1週間ばかり独り暮らしを楽しもう。

2012年7月2日月曜日


日本人が秩序を重んじ、創造性に優れている理由(20120702)

 日本人遺伝子は多様性に富んでいる。その理由は縄文人と渡来系弥生人との混血、その混血種と3世紀から7世紀にかけての大量の渡来人との混血があり、混血に混血を重ねているためであると考えられる。明治以降、さらに欧米人との混血も少なからずある。そして現在、在日特別永住者の子供たちが日本人と結婚してその子孫も増え続けている。

 日本に古来変わらないものがある。それは日本に万世一系の天皇がいるということである。天皇は支配者ではない。また武士が台頭するまで天皇は国の政治を司ってこられたが、それ以降は、それ以前でも平安時代に摂関政治が行われるようになって以降、天皇は人々に位を授け、勲章を授ける唯一の権威ある存在である。人々は位や勲章を天皇から授けられることを大変誇りにしてきた。いつの時代でも天皇は最も権威がある存在である。それは現在の平和憲法下でも変わらない。その権威は、英語でいうエンペラーの権威ではない。天皇は天皇であり、天皇という概念を英語で正確に訳すことは出来ない。訳語Emperorは、他に適当な言葉がないからそうなっているが、Ten-nouと改めるべきである。

 日本にそのような天皇がいるから、日本人はこれまで単一民族国家として存在し続けることができた。日本人は一人一人がそれぞれ多様な精神を持っているが、意識していようとしていまいと、その精神の中心に天皇が存在している。日本人の規律性、協調性、創造性、柔軟性、忍耐心などは、日本に天皇がいるからである。3.11大震災以降、それが顕著に表れた。人々は天皇がいることの有り難さを実感した。

 天皇陛下や皇族がお出ましになられる諸々の行事、祭り、神社、寺などは日本人の精神のよりどころとなる。日本人はこれらを通じて心が一つになる。同胞であることを自覚する。同胞、それは母を同じくするということである。日清戦争の戦雲が漂うようになったとき、明治天皇は「四方の海 皆同胞(はらから)と 思う世に なぞ波風の立ち騒ぐらむ」と詠まれた。このお歌を昭和天皇も開戦前引用された。大東亜解放戦争に敗れて、昭和天皇は占領軍司令官マッカーサー元帥に会ったとき、「私はどうなってもいいが、天皇の名の下に戦った人々を救ってほしい、国民を飢餓から救ってほしい」と述べられたという。マッカーサーは「神を見た」と感動したという。今上陛下・皇后陛下も3.11被災地を回られ、苦しい避難生活を送っていた人びとに大いなる感動を覚えた。

 今、日本に韓国・北朝鮮籍の特別永住者凡そ38万人が居住している。その数は日本人との結婚などで毎年1万人以上減り続けている。彼らも数世紀も経ないうちに皆真の日本人になるであろう。それがまた、日本人の多様性を増すことになり、結果的に日本人の優秀性を増すことになるだろう。そうあって欲しいと望まぬものは誰一人いないであろう。

2012年7月1日日曜日


古代、記録に残っている渡来人の数(20120701)

 日本列島にはもともと縄文人が住んでいた。縄文人の遺伝子は大陸に殆ど存在してないものがある。例えばミトコンドリア遺伝子タイプM7a型は朝鮮半島南部と沿海州にわずか残っているのみである。また男性にしか伝わらないY染色体遺伝子のタイプD型は日本のほかチベットに存在するが、日本の方はタイプD2型でこれは日本にしか存在しない。

 環境考古学で判ってきたことは、日本の稲作文化は長江中流域に起源があるということである。長江中流域では黄河文明よりも千年古い稲作・漁労文化が栄えていた。5000年前から2500年の間に世界的に起きた気候の寒冷期に北方で畑作牧畜を行っていた漢族のルーツにつながる民が南下し、稲作漁労の民は雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われた。長江流域の一部の民はボートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本へ到達した。(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(青春出版社))

 ボートピープルたちは二手に分かれたであろう。一つは大陸沿岸伝いに北上したであろう。朝鮮半島の南部に辿り着いた人たちはそこで自分たちの稲作・漁労文化を定着させただろう。やがてそういう人々が渡来系弥生人として日本にやって来た。もう一つは長江河口から太陽が昇る方向に進めば九州の鹿児島に辿り着く。渡来系弥生人たちは初め先住の縄文人たちと住み分けていたかもしれない。やがて共生し、混血していっただろう。彫の深い縄文人には美男・美女が多かったと考ええられる。彫が浅い渡来系弥生人の男たちは縄文人の女性に魅力を感じたに違いない。縄文人と渡来系弥生人とが混血して古墳時代の人々になった。縄文人と、渡来系弥生人と古墳人の容貌について、このブログ「発掘された人骨から復元した原日本人の顔立ち(20120505)」で紹介している。

 古墳時代人はヤマト人である。ヤマト人がシナ大陸の漢人や朝鮮半島の人々と交流するうちに、日本には特に朝鮮半島から非常に多く人々が渡来して帰化した。彼らは天皇から氏姓を与えられ、居住地を与えられた。彼らは当時の日本人よりも進んだ技術や職業の能力を身につけていたので、朝廷は彼らの能力を大いに活用した。今の日本人は古墳時代の人々と朝鮮半島から次々日本に渡来して来たそういう人々と混血した人々の子孫であると言えるであろう。今の日本人は、1000年も経てば古墳人そのままの遺伝子の型を形質のすべてにわたり完全に残している人はいない筈である。父方のそして母方の系統をそれぞれ遡って行けば、必ずどこかで渡来帰化人とのつながりがあるはずである。日本民族は天皇がいることによって単一民族であり得ることを、すべての日本人は認識すべきである。

 「日本書紀」に記されている渡来人は概ね次のとおりである。
 応神十四年(283) 弓月君(ゆつきのきみ)が百済より、民120県引き連れて帰化。弓月君は、後に秦の帝室の後裔とされることにより、秦氏の祖とされた。
 応神十六年(285)、百済から王仁氏帰化。王仁氏は書首連の始祖で本拠は河内国古市郡古市郷。河内在住の史姓諸氏の中心的地位。西文(かぶちのふみ)氏という。王仁氏は、それ以前に百済から帰化していた阿直伎(あちきに)が天皇から求められて百済王に人材派遣を要請。その結果渡来。阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖。子孫は朝廷で文筆専門の官人。
 応神二十年(289)、後漢霊帝の後裔とされる阿知使主(あちのきみ)がその子・都加使主(つかのおみ)と自分の配下の民17県を引き連れて帰化。倭漢氏の始祖。
 応神四十年(306)、阿知使主に遣わせられた都加使主、シナ江南地方の呉の王に要請。応神三十九年(309),呉から衣縫専門の技術を持つ女性職人4(グループ?)を連れて帰国。そのうちの一つは筑紫国の御使君(みつかひのきみ)の祖。
 雄略七年(462)、新たに漢人の陶器製造・鞍造・絵・衣縫・通訳など専門技術者集団渡来帰化。今の奈良の今来郡(高市郡)に本拠を置く東漢氏によって管理された。
雄略十四年(469)、呉より。
 雄略十五年(470)、秦の民、18,670人帰化。

 663年の白村江敗戦、百済滅亡。この時帰化した人々は学術・兵法・築城・薬学・儒学・天文学など各分野で活躍したことが天智天皇十年(670)春正月の条に出ている。
天智二年(662)、百済の王族を難波に居住させた。
天智四年(664)、百済の民男女400人余り、近江国神前郡に居住させた。
天智五年(665)、百済の男女2000人余り、東国に居住させた。
天智八年(668)、百済の貴族・男女700人、近江国蒲生郡に居住させた。

天武四年(676)、渡来時期は不明な唐人30人、筑紫国から天皇に献上。

 高句麗は新羅に攻められて668年に滅亡。
持統元年(686)旧暦315日、高麗人56人、常陸国に居住。
持統元年(686)旧暦322日、新羅人14人、下毛野国に居住。
持統元年(686)旧暦410日、新羅人22人、武蔵国に居住。
持統二年(687)旧暦48日、新羅人(人数不明)、下毛野国に居住。
持統四年(689)旧暦211日、新羅人50人、帰化。
持統四年(689)旧暦53日、百済人男女21人帰化。

 聖武天皇御世、天平五年(733)62日、「武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女53人を請願によって金(こん)の姓とした「続日本紀」。