2012年7月6日金曜日


北方領土、ロシア人のやり方を歴史に学んで交渉せよ。(20120706)

 ロシアのメドベージェフ首相が北方領土の国後島を訪問した。これについていろいろな見方があって、一つの見方は、今回の訪問はプーチン大統領も承知のことでロシアは歯舞・色丹は返還するが国後・択捉返さないという意志表示であるという。しかし、メドベージェフ首相の発言は過激で、日本国民として「許し難い」発言である。昨年、菅元首相がこの言葉を口にしたためロシア側が本心なのか、ポーズなのか知らぬが不快感を露わした。これから日露双方間で交渉が始まる。日露戦争に至った当時の日本とロシアの交渉状況をみても分かるとおり、ロシア人の交渉術には用心が必要である。日露開戦以前の外交交渉のことについて、このブログの昨年730日付け「日露戦争前哨戦(補記)」に少し書いている。
(関連:日露戦争前哨戦(補記) (20110730)
 http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2011/07/20110730-36-10-30-1903-36-12-11-1904-1.html  )


 『占領憲法下の日本』に「ソ連は火事場ドロボーである」という題で、次のことが書かれている。“昭和二十年(1945)八月のことを顧みると、ソ連が日ソ中立不可侵条約を一方的に破って、日本攻撃を開始した日が、その九日(日本時間)だ。当時、日本は広島、長崎に原爆攻撃を受け、とうてい原子力に対抗する力のないことを知り、意気阻喪(そそう)して戦闘精神を失い、近衛文麿(このえふみまろ)公を通じてソ連に講和の仲介を求めつつあり、実際またアメリカの爆撃飛行機を射ち落とすべく舞い上がる戦闘機が日本にはほとんどなくなっている当時の現状を知っての上での、ソ連の火事場ドロボー的な侵入であったのである。(ラベル『占領憲法下の日本』:
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/07/20120706-1969-1969-43-150.html )

 ソ連がなぜ、日ソ中立条約を結んで、「日本がアメリカやイギリスと戦っている間は、ソ連は中立を守って日本を決して攻めません」という約束をしたかというと、ソ連は当時ドイツを攻撃する準備を整えつつあったので、「ソ連が他国(ドイツを含む)と戦争をしている間は、日本はソ連を攻めません」という約束を日本から取りつけるためであったのである。このような目的で、このような条件で、日ソ中立条約が結ばれ、その後予定通り、ソ連は‘ヒットラー・ドイツ’と戦闘を交えた。ところがヒットラー軍隊の優秀なる戦闘力に押しまくられてソ連は、レニングラードの八十パーセントまで一時ヒットラー軍に占領せられ、もう一押しでソ連国家崩壊(ほうかい)の危機に面したのである。

 当時日本は、日独伊三国軍事同盟が結ばれていたので、「日ソ中立条約が結ばれていなかったら、この三国間の軍事同盟が自然的に発動して、日本は満洲からシベリアへ進撃し、ヒットラー軍と共にソ連を挟み撃ちにしていたはずで、そうなっていたら、ソ連国家は地球上から影(すがた)を消していたかも知れないし、そうでなくとも世界の地図は大いに書き換えられていたかも知れないのである。ところが日本は条約に対して忠実で、ソ連がドイツ軍に敗戦して窮状(きゅうじょう)に陥(おちい)っているのを衝(つ)こうとしなかったのである。

 「窮鳥(きゅうちょう)ふところに入れば猟師もそれをとらず」という諺(ことわざ)が日本にあるが、それが日本精神であった。日本は戦争をするにも国際的道義を守った。それは剣道や柔道の試合に敬虔(けいけん)に相互礼拝してから立ち合う形式にもあらわれている。ソ連が窮地に陥っている最中に、日本は「日ソ中立条約」を守ってソ連に攻撃をしかけなかったのである。・・(中略)・・ソ連にとっては「条約とは当座の便宜的戦略」であって、当座の便宜が終わったら条約など破棄して平気でいる国であるから、・・・(略後)。”