2011年7月25日月曜日

「再生可能エネルギー」について大義と公儀 (20110725)

 「大義」とは、広辞苑によれば「①重要な意義。大切な意味。②人のふみ行うべき重大な道義。特に主君や国に対して臣民のなすべき道。」とある。

「公儀」についてウイキペディアを引用する。

 “豊臣政権末期の政情不安定期に公権力を漠然と公儀と呼ぶ慣習が生まれ、江戸時代に入ると統一政権で諸領主権力間の唯一の利害調整機関となった江戸幕府を指して公儀と呼ぶようになった。ただし地方では藩を指して公儀と呼ぶ習慣も残り、幕府のことを「公儀の公儀」と認めて特に大公儀(おおこうぎ)とも呼ぶようになったのは寛永期以後と言われている。”

 再生可能エネルギーについて「大義」はどこにあるか?「主君」を「国民」に、「臣民」を「国会議員・政府官僚」に置き換えれば、答えは自ずと明らかである。経産官僚古賀氏が指摘するように、現在の発電・送電・配電を電力会社が独占している現状では競争の原理が働かず、企業がいくら安価な電力を生み出しても消費者にその恩恵がない。

 その一方で、電力会社には官僚が天下りし、政官業の癒着構造を作って、一般消費者には縁遠い一種の「村社会」を構成し、お互いに「甘い汁」を吸い合っている。

 それが「大義」」に反することは明らかである。一方、「甘い汁」を吸い合う「村社会」は、「公儀」の側として公権力を利かせている。計画停電は一体何だったのか?「節電」キャンペーンは一体何のためであるのか?

 国民は「公儀」の為すがままに従わざるを得ないような状況が起きている。しかし「公儀」により何らかの利益を得ているかもしれない一部のマスコミや労働組合は、表向き「国民」の側に立っているように見せかけながら、実は「公儀」の側についている。

 「長いものに巻かれる」という諺がある。人は社会の中で生き抜くため長いものに巻かれた方が「自存」できる。一般国民はどうすればその「長いもの」を手にすることができるだろうか?

 答えは「イワシの大群」である。イワシはどれかいち早く方向を変えれば、ほかのイワシは間一髪を入れず一斉にその方向に転換する。そして群れが恰も巨大な生き物のように見せかけ、イワシを狙う大きな魚の餌食となる数を局限している。

 同じことを一般国民もやればよい。「国民投票法」を作り、その法律によって国の大事を決めることについて国民の意思を問えばよい。

 ただし、この法律によってこの国が誤った方向に行かぬように、国民投票にかける前に「賢者」たちによる事前討論・討論の公開・予備調査など幾段かの手順を踏んで、「某国」や「某ジャーアナリズム」や「某学者・論者」などによるマインドコントロールを未然に防止する仕組みを作っておく必要がある。「民主主義とは少しの良識者による合意で進める仕組み」であることもまた、真実であると思う。

2011年7月24日日曜日

江戸時代も身分制の原則のもと機会均等の自由な社会であった (20110724)

 明治維新前は士農工商の身分制度があって、百姓・町人は名字を持たず、武士が威張っていた社会であったと思っている人が多いことだろうと思う。ところが実際はその社会は自由な社会であった。公式に名字を名乗れなかった「百姓」も非公式には名字を名乗っていた。士農工商の区分は身分の区分ではあるがそれだけではなく、士・農・工・商のそれぞれの役割を明確にし、それぞれがその役割をきちんと果たすことによって安定した社会になっていたし、士農工商の身分間の移動もかなり多く行われていたのが実態である。

 放送大学は、誰でも自分の好きな科目について、何時でも何処でも自由に勉強することができるすぐれた教育機関である。この大学の学生になれば通信指導を受けることができ、単位認定試験を受けることができる。テレビやFMラジオがあればそこが大学のキャンパスになる。教養を身に付けようとして定年前や定年後学士入学する人も多い。

 ここに『階層社会と不平等』という放送大学の一冊の印刷教材がある。その講義はテレビで行われている。録画しておけば自分の好きな時間に再生して講義を受けることができる。この本の著者は放送大学客員教授で東北大学大学院教授でもある原 純輔・佐藤嘉倫・大渕憲一の三氏である。その印刷教材の一部を括弧(“”)で以下に引用する。

 ここで出てくる「奴婢制度」は日本では平安中期・900年代に既に廃止されたが、香り高く美しい武士道精神のようなものがなかった朝鮮では日清戦争により朝鮮に対する中国(当時、清国)の支配がなくなって初めて廃止されたし、漁船衝突事件を起こしたりしている中国では中華人民共和国になってようやく廃止されたものである。

 “「百姓」は姓制度に由来する言葉であり、漢音で「ひゃくせい」、呉音では「ひゃくしょう」と読む。・・(中略)・・天皇から姓を賜与された者が良民=王民、無姓者は奴婢と身分区分され・・(中略)・・一般庶民の姓は雑多であったので「百姓」と呼ばれた・・(中略)・・百姓はしだいに耕作する土地との結びつきを強め、農業を家職とするという家を成立させ、家の存続を共同保障するため地縁共同体である村を成立して、新たな社会的身分として「百姓」身分を主張するようになった・・(中略)・・

 「賤民」身分も創出された。・・(中略)・・江戸時代にはまた、物乞いによって渡世をする者たちが「非人」身分に編成され、「穢多」と同様、行刑・警察的役務を担わされた。・・(中略)・・幕府や藩の役人に登用されるのは武士身分に限定され、どの役職に就けるかは家格階層に制約された。しかしながら、現実の人事は必ずしも硬直化していたわけではない。庶民を幕府・藩の登用した例は多くみられ、その際には武士身分に引き上げられた。軽格の武士を上位の役職に抜擢する際は格式を上げた。こうして身分制の原則と能力主義を両立させていたのである。・・(中略)・・

 欧米列強に対峙して日本国を存続させるため、武士みずから身分制を廃止し、軍事は国民皆兵によって担い、政治は建前上は能力によって登用されるものが担うことによって、近代国家を建設していくことになった。”

2011年7月23日土曜日

「あの世」の霊魂も「自存」を願望している (20110723)

 世の中に「怖いお墓の話」というものがある。先祖代々の墓所を他に移すと家族に死者が出るなどと言った話である。実際我が家では曾祖父の代に墓所を高い台地に移したが、曾祖母は40代の若さで急死している。似たような話を私は妻ががんで急逝した友人から聞いている。また家に仏壇を置くとその家から死者が出るという話も体験している。

 私は「あの世」の霊魂も「自存」を願望していると思っている。先祖は生きている間、子子孫孫の繁栄を願って頑張っている。その代々の積み重ねが今日の姿である。先祖の時代にくらべ、今日は大いに繁栄していることは間違いない。そのような先祖の思いを無視するような行為は、決して良くないと思う。

 靖国神社に祀られている方々も、例えば「このような思いは自分一人で十分だ」と思いながら死んでいっただろう。特攻隊員たちは自分が死ぬことによって愛する父母・兄弟・姉妹・妻子・恋人らを守ろうと思った。その思いが彼らの遺書に表れている。皆「あの世」でその思いが叶えられることを願望している。靖国神社に参拝しようとしないだけではなく、靖国神社や護国神社を否定する政治家たちは間違っている。「あの世」は今の世とは決して無関係ではないのだ。

 昔、名のある家では血統の持続のため必ずしも長子ではなく能力のある者に家督を継がせ、父系の男の子がいない時には、父系の兄弟の子供を養子にして男系の家を代々守ってきた。そのような過程で、父系の血縁関係の家との交流が途絶え、つまり親戚付き合いをやめ、父系の血縁者が実際にはいるにもかかわらず家系が途絶えてしまう家がある。

 私の場合もそうなりかけた家である。長子であった私の父親が跡を継がず、私の父親の末弟が跡を継いだ。しかしその二人の息子たちには息子が生まれず皆女の子ばかりである。女の子は嫁いで家を出てしまうか、男系の血縁のない家から婿養子をとって、血統はともかく家名だけは継ぐ。しかし、其処で先祖との間の血のつながりは途絶える。

 私の父の墓と先祖の墓は、列車で2時間以上離れた場所に別々にある。父によって遺された系図はおよそ千年前のものである。私はそれを手掛かりにいろいろ調べ、わが家の名字の由来も「これに違いない」というところまで突き止めた。その遠い先祖の血を引く私はその両方を祀る責任がある。私は私の息子たちに、折に触れ先祖を敬い、先祖の祭祀を行うことの大切さを話しているが、2か所に分かれている祭祀の対象をどういう形で末代まで祀ってもらうか、いずれある時期に息子たちと話し合って決めなければならないと思っている。そうすることが、私の子子孫孫末代までそれぞれ幸せに人生を送ることになると思っている。

「あの世」の霊魂は「自存」を願っている。日本人の先祖たちも同じである。日本人は個人として自らの先祖を敬い、先祖を祀るとともに、国民として祖霊を敬い、これを祀ることをおろそかにしてはならないと思う。天皇は日本人のそのような考え方の中心におられる。この国に天皇がいることは日本人にとって大変有り難いことである。

2011年7月22日金曜日

自ら助けるものが助けられる (20110722)

 福沢諭吉は「天は自ら助くる者を助く」と言った。「自ら助く」とはまさしく「自存」行動である。

 現今、「市民活動」と称して、「社会の弱者」だけを救おうとする運動がある。そのイデオロギーはいろいろである。一般には「反国家的」活動の側面が大きいようである。「自ら助ける」努力が足りない者が「声を大」にする手段として、「市民活動」という「市民」を冠した活動に加わっているように見える。

 確かに「自ら助く」力の弱い者は、「社会の弱者」になりやすい。障害者、母子家庭・父子家庭の親、学童・幼児・乳幼児、高齢者などは、法律によって社会的保護の対象になっている。そのこと自体はここで取り上げる問題の対象外である。

 問題は、人として「自ら生き残る」必死な努力をしているか、ということである。自分を卑しみ、他人を羨み・妬み、自分がこういう状態にあるのは自分のせいではなく、社会のせいであると、少なくとも心の片隅で思っている人たちが多すぎはしないか、ということである。

 一部の政党は、そのような人たちに視線を向け、そのような人たちの声を代弁し、そのような人たちのため、国の富を分配するように活動している。その目的自体は問題ない。 問題は、そのような政党が、国の防衛のための兵力増強や軍事同盟について、イデオロギー的に反対していることである。それらの政党が、「外国人参政権」や「夫婦別称」を主張し、意識的にせよ無意識的にせよ、国の精神的強固さを壊そうとしていることである。

 国も人もその構造は変わらない。国にも人の頭脳と同じ政府があり、人の五感と同じ情報収集の機能があり、人の血管や神経と同じ運輸・交通・通信網がある。人の手足と、それを動かす頭脳と、その動かし方の能力と、その能力を高め、拡大する道具や器具である武器などに相当するものが国にもある。軍や警察などがそれに相当する。

ただし「腕」を意味するarmと、「武装した力」を意味するarmed forcesarmとは語源が違うので、「腕力=武力」と短絡的に考えてならない。日本人は昔から「武」を忌み嫌うところがあった。「武」はたとえば人に襲いかかる野獣の爪を出した腕とは違う。「武」は人間にしかない文化の所産である。忌み嫌うのは女性的、情緒的である。

私が言いたいのは、人も国も「自存」のため、つまりは「自ら生き抜くこと」のため、真剣になるべきであるということである。自らを助けようとしないものは、結局助けられないのである。この世のあらゆる生き物、野辺に咲く名も知らぬ小さな草さえも、万物皆それぞれ分子の活動があって、環境に適合したものだけが生き残っているのである。その活動のエネルギーの小さいものでもそれが環境に適合している場合は、今日まで命を繋いできている。従い自分の不幸を人のせい、社会のせいにする者は結局救われない。

国も同じである。憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるだけでは、われらの「安全」と「生存」は絶対に保障されないのである。

2011年7月21日木曜日

日露戦争前哨戦(20110721)26日から「補記」で継続)

 大山元帥の意見書を読むと、明治時代の日本の厳しい立場が良くわかる。当時の日本は列強の餌食にならぬように、それこそ「自存」をかけて頑張っていたのである。そこには、今の日本の状況と違って、香り高い「武士道」精神を持った「志」高い士族がいた。

 今の中国も13億人の人民を養うため血眼になってエネルギー資源の確保に突進している。そこには「自分さえよければよい」という、まるで野生動物の本能のように見える行動をしている。その推進者は徹底的な「愛国心」教育を受けたエリート共産党員たちである。東シナ海や南シナ海における中国の行動に対して日本が真剣な対応をせず、彼らが為すままに放任すれば、結果は自ずと明らかである。前日の記事を続ける。

“・・(中略)・・帝国若し之を傍観して其為す儘に放任せば朝鮮半島は彼の領有に帰せんこと必ず三四年を出でざるべし彼果たして之を取らんか我は唯一の保障を失うなり西海の門戸破壊するなり僅かに一衣帯水を隔てゝ直に虎狼の強大国に接するなり利刃を脇肋に擬せらるゝなり我帝国臣民の寒心憂慮すべき豈之に過ぐるものあらんや”

“対露交渉開始の急務 因て思ふ我帝国は宜しく今に迨ひて露国に交渉し速に朝鮮問題を解決すべし若し今日に於て之を交渉せば或は必ずしも兵力に訴えず容易に解決を見るを得べし若し不幸にして開戦に至るも彼の軍備は今日尚ほ欠点あり我軍備未だ充実せずと雖も彼此の兵力未だ平均を失わず方さに抗衡するに足る故に国家百年の長計の為朝鮮問題を解決するは唯唯此時を然りとす。”

“大山参謀総長の内閣への意見書提出と相前後して、所謂「七博士意見書」が首相に提出された。東京帝国大学教授の富井政章、寺尾亨、高橋作衛、中村進午、金井延、小野塚喜平次、戸水寛人の七博士のこの対露強硬意見は、三万四千余文字に及ぶ長文の論説であるが、これは『東京朝日新聞』(明治36624日)に掲載されると、世論は開戦に向けて激しく盛り上げられた。”

秋山氏の著作・論文は引用するにはあまりにも膨大である。秋山氏は、日本側の先制攻撃について諸史料・文献を引用して、ロシア側も先制攻撃の意図があったことを明らかにしている。謀略・奇襲・先制攻撃・占領・実効支配などは、国家が予め定めた方針に基づく軍の行動として自然なことである。今、中国は国家・共産党の方針として、関連記事「日露戦争前哨戦(続)(20110626)」に書いたとおり、第一列島線、第二列島線を決めて、第一列島線に「核心的利益」を宣言している。尖閣諸島の中国漁船衝突事件はそういう中国の国家戦略のなかで起きるべくして起きている。

指導者たちの呑気な、プアな思想・政治信条のため、この国は、特に沖縄・南西諸島は危険な状況に置かれている。関連記事「沖縄の問題(2)(20101102)」に書いたとおり、沖縄では反日的日教組が中国の手先となって暗躍している。一部の政治家は既に中国の影響下にあるように見える。日本人は、今こそ日本国家の「自存」という観念を呼び覚まし、野獣のような心をもつ国々に対して強い警戒心と力を持つべきである。   (一旦終り)

2011年7月20日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110720)

 ・・『デイリー・テレグラフ』や『ブラック・アンド・ホワイト』誌も日英同盟を強く主張する記事を掲載している。・・(中略)・・元老 山県有朋はもともと日英同盟推進論者であり、・・(中略)・・、井上馨元老は反対、日英強調論者の伊藤博文も条件次第では反対しないが、英国の真意を疑って同盟団結は困難であろうとの意見を示した。・・(中略)・・英国としては朝鮮に何等の利益を有しないが、しかし、露国が朝鮮を占有することは英国も好まないし、アジア政策の焦点である清国領土の保全と門戸開放を露国の進出によって妨害されるのを防ぎたいと欲するもので、西英両国の利害は一致・・(中略)・・

 結局、山県有朋ら多数の元老たちの支持の下、桂首相が推進した日英同盟が締結され、1902年(明治35年)130日・・(中略)・・署名調印が実現した。日英同盟の協約全文は次の通りである。

 日本国政府及び大不列顛国政府は、ひとえに極東に於いて現状及び全局の平和を維持することを希望し、かつ清帝国及び韓帝国の独立と領土保全とを維持すること、及び該二国に於いて、各国の商工業をして機会の均等を得せしむることに関し、特に利害関係を有するを以て、ここに左の如く約定せり。・・(中略)・・

 念願の日英同盟協約が締結され、日本国民は等しく日露戦争は遠のいたものと思ったが、しかしこの喜びは束の間であった。ロシアは日英同盟締結を見て、一旦は満洲から撤兵する気配を見せたが、実は部隊の配置転換を行っただけで、その後、益々極東への兵力増強を図り続けた。”

 この状況下、遂に日本はロシアに戦争を挑むことになった。その間、日本国内はもとよりロシア国内においても開戦と戦争回避の動きはあった。秋山氏の著書・論文を引用する。

 “日本では、陸軍参謀本部の部長たちが最も急進的に対露強硬論を唱えていた。「韓国の占有は我が国防を全くする所以にして決して他国をして指頭だも此に触れしむるを許さず」とするのが基本方針であった。”

 “朝鮮問題解決意見書 参謀総長 大山 巌 (明治36622日 「我日本帝国の朝鮮半島を以て我独立の保障地と為すや開国以来一定の国是として現今及将来に亘り復た動かすべからざる所なり。・・(中略)・・独り幸いとする所は西に朝鮮海峡あり東西の航路を扼し隠然国防の鎖鑰を成す故に朝鮮をして能く常に我に親附しあらしむるときは日本海の門戸茲に固く大に国防に有利なり若し之に反して大国をして朝鮮を領せしめんか其位置は恰も帝国の脇肋に対し其距離は僅に二、三時間の渡航を要するのみ・・(中略)・・

 日清戦争の由来 是を以て大政維新の初め夙に朝鮮を誘掖して先ず独立国たらしめ百万辛苦して其清国との関係を薄くし清国の尚ほ之を属邦視するや遂に数万人の生命を賭し数千万の国帑を擲ちて二十七、八年戦役を興し纔に我保障地を維持し得たり。・・(中略)・・露国の勢力俄に東漸し来り金州半島を占領し、東清鉄道を以て満洲の実験を握り、其膨張の迅速なる実に予想の外に在り。”                    (続く)

2011年7月19日火曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110719)

 すべての動植物・人間・団体・企業・政党・国家・etc、みな「自存」を目指している。

それを別の見方で例えば「生存競争」と言い、「自己主張」と言い、「自己認識を求める願望」と言い、「見栄」と言い、「差別」と言い、「恫喝」と言い、「党利党略」と言い、「覇権争い」と言い、「戦争」と言い・・・。結局「自存」力の強いものだけが生き残る。

国家も同様。国家の「自存」力は、国家の指導者の思想・志操・信条次第である。国家という一つの「集合体」の中の各「部分集合」個々の力が如何に大きくても、それを国家の「自存」に指向させる指導者に「自存」の哲学観なく、国民が「洗脳」されていて平和ぼけし、飽食し、甘ったれていれば、その集合体は外の別の小さな「集合体」の戦略・戦術に負けて、その「自存」が危うくなるだろう。

明治の日本には、「武士道」精神をもったすぐれた指導者がいた。国民は「天皇」を中心に「自存」のため団結していた。それが、今はどうか?日本国民は「自存」という観念をどこか遠くにしまいこんでいる。指導者は「国」や「公共」のことよりも「自分」「自己」のことだけを大事に考えている。それで次世代によいものを遺せるのだろうか?秋山氏の論文を引用する。

 “三国干渉により遼東半島を清国に変換することを余儀なくされた日本は、国際的孤立感に打ちひしがれた。当時の軍事力からいって、まともに近代戦を戦い抜ける国は、ヨーロッパでは、英・仏・独・露の四か国、海を隔て米国、それに日本ぐらいのものである。 

しかし、日本は日清戦争を終結したばかりで、国力はかなり消耗していた。従って、独・仏・露の三国に立ち向かうだけの力は到底持ち合わせなかった。それ故、やむをえず三国の要求に応ぜざるを得なかったのである。

フランスの新聞『パリ』紙などは、「日本降伏す」と大見出しの記事を掲載し、独・仏・露同盟三国の大勝利を喧伝した。その記事が日本紙で報道されるや、日本人の国民感情は痛く傷つけられ、人々は非常に憤慨した。”

こういう状況のとき、福沢諭吉が言ったように「国際関係の変化」があった。日英同盟がそれである(関連記事「日露戦争前哨戦(続)(20110716)」)。秋山氏の著書を引用する。

“国力からすれば、日本は英国に比肩して同盟を結ぶほどの対等な立場にはないが、その頃の英国は南アフリカをめぐるボーア戦争で手が抜けず、ヨーロッパ諸国から孤立してアジアにおける英国権益の防衛に窮していたので、日本のアジアにおける勢力に依存することを望んでいた。・・(中略)・・

当時の英紙の論調を見ると『モーニングポスト』(1897127日)は「独逸がアジアに拠点を求めようとするのは今始まったことではない。日清戦争のとき台湾をかすめ取ろうとしたし、戦争後は清国北部海岸を求めようとした。・・(中略)・・『ガゼット』紙は「英国が東洋における現今の困難を救うのは、日本と提携する他に道はない」 と主張しており、・・”                               (続く)

2011年7月18日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110718)

 NHKTVドラマ『坂の上の雲』にもあるように、当時日本は若い優秀な将校をロシアにも留学させていた。その一人が広瀬武雄帝国海軍中佐である。その当時のロシアが日本に対してどういう見方をしていたか、秋山氏は放送大学教養学部卒業論文、同大学院修士論文記述にあたり、非常に膨大な文献・史料を調査・研究し、論文をまとめている。

 その中に、ロシアのニコライ二世とドイツのウイルヘルム二世との手紙や電報のやりとり、ロシア大蔵大臣S.I.ウイッテのことを論説したロシア科学アカデミーロシア史研究所ペテルブルグ支部研究員イーゴリー・B・ルコヤノフの『日露戦争の研究の新視点』がある。ニコライ二世とウイルヘルム二世との手紙や電報のやりとりの中で、ウイルヘルムはドイツが欧州の覇者になるため、ロシアの目を極東に向けさせようとしたことが分かる。その極東政策について秋山氏は注釈で次のようにルコヤノフの論説を引用している。

 “「1980年代半ば、ロシアの極東政策を決定していた大蔵大臣S.I.ウイッテは、中国中心部への経済的拡張を目指していた。ウイッテは韓国にほとんど関心を抱いておらず、単なる不凍港を獲得し得る場所とだけみなしていた。その韓国への関心が高まったのは、1896年から翌年にかけて、北京政府がロシアに自国の不凍港を提供することを断固として拒否した後のことである。

 結果として、1898年までに、韓国の財政、税関、軍隊は、国王および政府が好意的な態度を示したことにより、ロシアの管理下へと徐々に移行した。しかしながら、ロシアにより旅順が占領され、遼東半島の租借に関する露中間協定が調印されると、ペテルスブルグでは韓国に対する関心が失われた。ウイッテと外務大臣M.N.ムラヴィヨーフは、遼東半島の代償として、日本に韓国を譲渡することを決定した。・・(中略)・・」

 「大蔵大臣のこの上なく大掛かりな拡張主義的計画は、1900年まで続行されたが、その失敗は必至であった。・・・・1900年の義和団事件、ロシア軍による満洲占領、北清事件への参加は、中国情勢を急激に変えた。そして、ロシアの極東政策にも重大な転換が生じた。・・・・最終的に、ウイッテの政策の全面的失敗は、1902年後半に明らかになった。彼自身、失策を認めざるを得なかった。この大蔵大臣は、従来の計画のかわりに、満洲をゆっくり自然にロシア化させることに任せるより良い策は何も見つからなかったのである。”

 日本は日朝修好条約により朝鮮を「自主の邦」にした。ところが、朝鮮の側では「自主の邦」の意味をただ単に日本と朝鮮が対等な国であることを示したものと受け取っただけであった。実際は依然として清国に朝貢する国が続いた。その間、朝鮮の内政・外交で混乱が起きた。朝鮮はロシアに接近したりした。

 朝鮮に対するロシアの干渉がなくなり、朝鮮は初めて独立国になった。明治30(1898)、朝鮮は国号を大韓帝国に改め、国王高宗は「国王」から「皇帝」に、「王后」は「皇后」に、「王世子」は「皇太子」に改められた。しかし、内乱は続いた。その内乱で日本を誤解した李が後に韓国初代大統領になった。                 (続く)

2011年7月17日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110717)

 日清戦争は、朝鮮を当時の中国・清国による支配から脱却させ、日朝修好条約第一条に書かれているとおり、朝鮮を「自主の邦」にし、日本のように近代化させることが日本の「自存」のため必要であったため起きた戦争であった。そのやり方はかつて日本がアメリカにされたようなやり方であった。しかし、日本は武士道の精神でそれを行った。

ロシア・フランス・ドイツ三国による干渉を受けて日本は遼東半島から撤退した。その後ロシアが遼東半島を租借した。「北方の熊」ロシア人たちは外洋への出口を求め、南下を目指した。その意思は今でも続いている。これも「北方の熊」の「自存」行動である。明治時代の日本は、「天子を戴く「日出る国・瑞穂の国」の日本であった。その日本は「自存」のため「北方の熊」の南下を阻止しようと行動を起こしたのである。

外交関係において、一方の国の宰相がいくら相対するもう一方の国に対して尊敬や愛着を持っていても、その宰相の指揮下・統制下にある軍の最高幹部が対抗心・敵意をもっている場合は、その外交関係はぎくしゃくし、遂には国交断絶に至るものである。そういう意味で「軍は外交の手段」になる。以下に秋山氏の論文を引用する。

“ニコライ二世の訪日は、(大津事件で)彼の東部に生涯消えることのない刀傷を残すと同時に、忘れ難い日本への興味・関心を心の中に深めることとなった。それは怨恨からのものではなく、むしろ懇篤な日本的供応に対する日本への愛着心からのものであった。

ニコライ二世は、列強帝国主義の先鋒者であるドイツ皇帝ウイルヘルム二世と親交があり、幾度か訪問を重ね、また電報や書簡によって意思を通じあっていた。「黄禍論」を唱導するウイルヘルム二世は、「黄色人種を征服することはロシアの使命である」として、「ロシアが極東進出に勢力を向けている間の西の守りは、ドイツが引き受けるから心おきなく邁進されよ」と云う書簡をニコライ二世に送り、執拗に東洋人征服を扇動している。ウイルヘルム二世はロシアを教唆し、フランスを誘って、日清戦争の直後の日本に三国干渉を行い、遼東半島を清国に変換せしめた首謀者でもある。”

“ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価をするものが多かった。1900年(明治33年)以来日本に駐在していたロシア公使館付き武官ワンノフスキー大佐は、日本陸軍が欧州で最も弱体な軍隊に比肩する為の規範的基礎を得るようになるまでは、まだまだ一世紀或いはそれ以上かかるであろうと報告し、日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して呼んでいた。”

今、中国は仁川港で自沈したワリヤーグ号と同名の輸入航空母艦のほか国産の航空母艦を持とうとしている。新聞の論調ではそれが実戦配備されるまであと10年や20年かかるだろうと、あたかもマスコミが日本国民を安心させるようなことを言っている。これは、政府が公式に中国の脅威について国民に言わないからである。中国は今「自存」をかけて必死なのである。そのことを日本国民は注意を向けるべきである。     (続く)

2011年7月16日土曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110716)

開国・版籍奉還・近代化への取り組み・「富国強兵」政策等は、日本の「自存」のためであった。日清戦争も日露戦争も日本の「自存」のため起きた戦争であった。

今、日本は我が領土・領空・領海・排他的経済水域を犯そうとする中国に対して、如何なる志操・信条で、また如何なる国家戦略で臨もうとしているのであろうか?東京裁判で日本人の魂を抜かれ、国の事よりも自分を大事にする教育を徹底的に受けて育った今60歳代前後の政治家たちに対して、私は安心できないものを感じている。

明治時代、日本は「国際的孤立」感に苦悩した。今、中国は「国際的孤立」感から脱し、「自存」を目指して行動している。輸入空母「ワリヤーグ」のほか国産空母の建造にとりかかった。日本は明治時代の日本の行動を顧み、中国の「自存」行動に対して備えを強化しなければならない。当時の日本には、香り高く美しい「武士道精神」があった。今の日本のリーダーたちにはそのような精神は一かけらもない。秋山氏の著作・論文を引用する。

“福沢諭吉は、時事新報(1895年(明治28年)61日に『ただただ堪忍すべし』と題する論説を掲げ、軽挙妄動することなく、今ひたすら国力の充実を図るように国民に呼びかけた。”

“福沢諭吉は、このとき外交の機微にふれ、国際関係の変化にも期待して、時期を待つことを示唆しているが、日本政府要人たちは、如何にして日本を国際的孤立から脱却させるかに腐心していた。”

 “日露戦争は、一言で云えば、日本の朝鮮・満洲への進出政策とロシア側の満洲・朝鮮への勢力拡張政策との衝突である。此の戦いに到る10年前、即ち明治27/8(1894/5)、清国と戦って勝利した日本は、417日講和条約(下関条約)を締結しこれを調印した。

 これによって日本は、朝鮮に対する清国の宗主的支配を解消せしめ、朝鮮を独立国家として擁立することに成功した。同時に清国から賠償として台湾、澎湖列島と共に遼東半島の割譲を受けた。

 しかし調印の6日目批准の3日後、ロシア、フランス、ドイツの三国から、日本が遼東半島を領有することは清国の首都を危うくし、また朝鮮の独立を有名無実として、極東の平和に障害をきたすのでこれを放棄すべきであると云う強い勧告(三国干渉)をしてきた。 そしてロシアの艦隊はフランス及びドイツ艦隊と糾合して、日清平和条約の交渉地である芝罘の沖に集結し露骨な示威運動を行った。

 清国はこれに力を得て条約の批准を拒み講和条約の成立を危うくした。日本政府は激昂する世論を押さえ、55日遼東半島の放棄を三国に通告し、10日に勅令を発してその旨を国民に告げた。

 そして118日、清国との間に講和条約とは別途に遼東半島還付条約を結び、還付の代償として日本は庫平銀3千万テール(邦貨4500万円)を受けることを決め、一応の面目を保った。”                               (続く)

2011年7月15日金曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110715)

 日本は朝鮮を開国させるにあたって、日本はアメリカが日本に対して行ったことと似たような手法を用いた。日本は、嘉永733日(1854年)331日に、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した「日米和親条約」に似たような「日朝修好条約」を、明治9年(1876年)227日、朝鮮と間で締結した。

 明治維新前の日本は、「日米和親条約」締結後、初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスの強い要求により、安政5619日(1858729日)に日本とアメリカ合衆国の間で「日米修好通商条約」を締結している。これも、に大老井伊直弼が孝明天皇の勅許がないまま独断で行ったものであり、「不平等条約」であった。当時、ハリスは幕府に対して、イギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには日本とアメリカの間でアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶよう説得していた。

 このようにして日本は東アジアにあっていち早く、「自存」のため開国、近代化に向けて政治・外交の舵を切った。ところがお隣の朝鮮では旧態依然の国家体制が続き、列強が食指を動かしていた。日本は、「自存」のため朝鮮に圧力をかけて国家体制の変更を求めた。いま、中国は「自存」をかけて行動している。再び秋山氏の著作を引用する。

1875年(明治8年)日本は軍艦雲揚を江華島に派遣して朝鮮の守備兵と紛争を起こした。日本はこれを口実に、1876年(明治9年)軍艦6隻兵800を率いて、黒田清隆中将が全権公使、井上薫は副使として朝鮮に赴き、強引に日朝修好条約の締結を迫った。

 大院君一派は、猶も鎖国政策を主張して抵抗したが、新政府の進歩開化派官僚たちは開国を主張し、閔氏一族もこれに賛同した。又、清国からもこの際、開国を断行すべきであるとの勧告もあって、朝鮮政府は日本との修好条約を締結することを決定した。・・(中略)・・その主なる内容は次の通りである。

 朝鮮が自主独立国であること宣言して、清国との宗属関係を否認する

 釜山のほか二港(後に元山と仁川に決定)を開港する

 日本は朝鮮在留日本人の領事裁判権を持つ

これは正に、日本が開国した当時、諸外国と結んだ所謂「不平等条約」を模したものであった。しかし、その第一条には「朝鮮は自主の邦」であること、そして「日本との平等の権利を保有」することを定めていた。日本としては、これによって清国の朝鮮に対する宗主国としての関係を否定した積りであったが、朝鮮・清国の側からすれば、それは伝統的な宗属関係を崩すことを意味するものではなかった。”

朝鮮は清国の李鴻章を通じて、朝鮮が清国の属国であることを明記する条約をアメリカとの間で結ぼうとした。これはアメリカが受け入れなかった。その後朝鮮国内動乱が起き、政変も起きた。朝鮮は清国に救援を求め、李鴻章は3000人の軍隊を派遣してその動乱を収め、その後清国は朝鮮に顧問団を派遣して朝鮮の内政・外交に干渉した。

そのような朝鮮が「自主の邦」になるきっかけを作ったのは日本である。  (続く)

2011年7月14日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110714)

日露戦争はなぜ起きたのか、そしてその日露戦争の前に、なぜ、日清戦争が起きたのか。私は、中国が明治時代の日本のように「自存」のため、「富国強兵」政策を推進しているときに、日本人は正しい歴史認識を持たなければならないと思う。

日清戦争は、当時清王朝の中国が宗主国として支配していた朝鮮の第26代国王高宗の父親大院君がかたくなに鎖国政策を続け、国王高宗の妃である閔妃の一族が国王親政を名目に政変を起こしたり、大院君の一派が巻き返しをはかったりする中、日本の公使館が焼打ちにあったり、清国の李鴻章が朝鮮に軍隊を送っての朝鮮の内政・外交に干渉したり、朝鮮が日本や清国の干渉を嫌がってロシアに接近したりした状況下、日本の「自存」のため明治27年(1894年)に起きた戦争である。

“明治維新の1868年(明治元年)末、朝鮮との外交を担当していた対馬藩を通じて、王政復古を通知した。使節が持参した外交文書に「皇」「勅」の文字があるなど、朝鮮側は従来の交隣の慣例に反するとして、その受け取りを拒否した。日本政府は、その翌年(明治2年)の版籍奉還を機に、一切の外交交渉権を外務省に接収し、数度に亘って外務省の役人を直接釜山(プサン)に派遣し国交回復の国交回復の交渉を試みたが大院君はこれにも応じようとはしなかった。日本では征韓論が捲き起こるところとなった。”

1885年(明治18年)4月、伊藤博文と李鴻章の間に天津条約が結ばれ、日清両国は朝鮮から撤兵した。そのころ、ウラジオストックのロシア太平洋艦隊に対抗するイギリス艦隊が朝鮮の全羅道の巨文島を占領する事件が起こった(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議したが、その交渉を始めたのが清国の李鴻章であった。1887年(明治27年)にイギリスは巨文島から撤退した。その間、日本は清国に対して朝鮮の共同保護を提案したが、李鴻章は清国の宗主権を盾にこれを拒否し続けた。”

1894年(明治27年)2月、全羅道古阜郡で農民らの反乱が発生した(古阜反乱)。更に4月には農民戦争(第一次甲午戦争)が起こり、5月に農民軍は全州城を占領した。政府は農民軍鎮圧のため清国に派兵を要請した。日本は、清国の派兵に対抗して、6月に混成一個旅団を朝鮮に派遣した。”

725日、日本艦隊は豊島沖で清国艦隊を攻撃し、日清戦争に突入した。日本は朝鮮に日本側に立つことを強要し、8月に朝鮮政府と攻守同盟を締結した。9月に平壌会戦、黄海海戦で清国軍を破って、10月下旬には清国領内に進軍し、戦いの大勢を決した。そして、18954月、日本は清国との間に日清講和条約(下関条約)を結んだ。その第1条に於いても「朝鮮の自主独立」の保証が唱われたのである。

開化派政権は、清国との宗属関係を破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税収の改革、両班(ヤンバン)・常民の差別廃止、賤民差別の禁止、奴婢制度の廃止など、外交・政治・経済・社会の全般にわたって近代的な改革を推進した(甲午改革)。”

                                   (続く)

2011年7月13日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110713)

 仁川港内において、ワリヤーグ号は自沈し、コレーエツ号は自爆した。日露戦争は仁川港外における日本艦隊のコレーエツ号に対する先制攻撃による小競り合いで戦端が開かれていた。秋山氏は修士論文にこう書いている。

 “仁川沖海戦は、その真相があまり知られていない。しかし、それは正に日露戦争の緒戦であった。その最初の一発は190428日午後4時半過ぎに仁川沖に於いて日本の水雷艇(魚雷発射)により放たれたのである。公式記録の如何に関わらず、この事実は断定的である。

 仁川港に停留していた露艦ワリヤーグ号、コレーエツ号は、国交断絶を知らなかった。まして宣戦布告の前でもあり、この地で日本艦隊と戦う意図は全く持っていなかった。”

 当時、ロシアは日本の戦力を過小評価していて、呑気に構えていた。この状況は、今の日本が、中国の南シナ海や東シナ海における軍事的行動に対して、「あれは中国がアメリカに対峙して覇権を争っている」という程度の認識でいるのと似たようなところがある。日露戦争当時の日本は、香り高い、美しい武士道精神のもと、日本の「自存」をかけて「富国強兵」というスローガンを掲げてまっしぐらに近代化に突き進んでいた。

 “ニコライ二世は、ロシア陸海軍軍人たちの豪語にも大いに影響を受けていた。軍人たちがニコライ二世に報告する日本の軍備、陸軍・海軍の戦力については、侮辱的な過小評価するものが多かった。・・(中略)・・日本軍隊を「乳呑み児同然」と揶揄して・・”

 明治政府は、明治18年(1885年)1月に締結された「日布移民条約」により、ハワイへの移民を公式に許可した。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。日本とハワイ王国との間の合意により前年(1884年)、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があった。翌年1月最初の移民946名が東京市号に乗り込み、ハワイに渡った。彼らは海外日系人祖先第一号である。

海外日系人の推定総数は260万人である。これに対して現在中国は海外に約5千万人の華僑がいる。いずれのそれぞれの国の事情によるものである。つまりは、国としての「自存」の行動の結果である。我々は万物共通の「自存」という概念を正視すべきである。

 今、中国は、第1列島線、第2列島線を太平洋上に引き、第1列島線内に「核心的利益」を主張している。その中に奄美・沖縄・南西諸島・台湾が含まれる。それは、13億人の人口を抱える発展途上の中国の「自存」のためである。日本は、かつてのロシア帝国のように鷹揚に構えていると、必死の思い「自存」のため行動している中国に、かつて貧しかった日本がロシアに対して先制攻撃をかけたように、ある日突然、日本は中国軍による先制攻撃を受け、亡国の道に進みかねない。アメリカは「日本を守る」と言うが、日本からの要請がない限り行動できない。日米同盟は双務的ではない。いわば、日本はアメリカの妾のようなものである。社民党や、共産党や、日本国内の反日的党員たちや、日教組など反日的団体の人の言うことに惑わされてはならない。              (続く)