2011年7月20日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110720)

 ・・『デイリー・テレグラフ』や『ブラック・アンド・ホワイト』誌も日英同盟を強く主張する記事を掲載している。・・(中略)・・元老 山県有朋はもともと日英同盟推進論者であり、・・(中略)・・、井上馨元老は反対、日英強調論者の伊藤博文も条件次第では反対しないが、英国の真意を疑って同盟団結は困難であろうとの意見を示した。・・(中略)・・英国としては朝鮮に何等の利益を有しないが、しかし、露国が朝鮮を占有することは英国も好まないし、アジア政策の焦点である清国領土の保全と門戸開放を露国の進出によって妨害されるのを防ぎたいと欲するもので、西英両国の利害は一致・・(中略)・・

 結局、山県有朋ら多数の元老たちの支持の下、桂首相が推進した日英同盟が締結され、1902年(明治35年)130日・・(中略)・・署名調印が実現した。日英同盟の協約全文は次の通りである。

 日本国政府及び大不列顛国政府は、ひとえに極東に於いて現状及び全局の平和を維持することを希望し、かつ清帝国及び韓帝国の独立と領土保全とを維持すること、及び該二国に於いて、各国の商工業をして機会の均等を得せしむることに関し、特に利害関係を有するを以て、ここに左の如く約定せり。・・(中略)・・

 念願の日英同盟協約が締結され、日本国民は等しく日露戦争は遠のいたものと思ったが、しかしこの喜びは束の間であった。ロシアは日英同盟締結を見て、一旦は満洲から撤兵する気配を見せたが、実は部隊の配置転換を行っただけで、その後、益々極東への兵力増強を図り続けた。”

 この状況下、遂に日本はロシアに戦争を挑むことになった。その間、日本国内はもとよりロシア国内においても開戦と戦争回避の動きはあった。秋山氏の著書・論文を引用する。

 “日本では、陸軍参謀本部の部長たちが最も急進的に対露強硬論を唱えていた。「韓国の占有は我が国防を全くする所以にして決して他国をして指頭だも此に触れしむるを許さず」とするのが基本方針であった。”

 “朝鮮問題解決意見書 参謀総長 大山 巌 (明治36622日 「我日本帝国の朝鮮半島を以て我独立の保障地と為すや開国以来一定の国是として現今及将来に亘り復た動かすべからざる所なり。・・(中略)・・独り幸いとする所は西に朝鮮海峡あり東西の航路を扼し隠然国防の鎖鑰を成す故に朝鮮をして能く常に我に親附しあらしむるときは日本海の門戸茲に固く大に国防に有利なり若し之に反して大国をして朝鮮を領せしめんか其位置は恰も帝国の脇肋に対し其距離は僅に二、三時間の渡航を要するのみ・・(中略)・・

 日清戦争の由来 是を以て大政維新の初め夙に朝鮮を誘掖して先ず独立国たらしめ百万辛苦して其清国との関係を薄くし清国の尚ほ之を属邦視するや遂に数万人の生命を賭し数千万の国帑を擲ちて二十七、八年戦役を興し纔に我保障地を維持し得たり。・・(中略)・・露国の勢力俄に東漸し来り金州半島を占領し、東清鉄道を以て満洲の実験を握り、其膨張の迅速なる実に予想の外に在り。”                    (続く)

0 件のコメント: